「神の子が見捨てられた理由」

「神の子が見捨てられた理由」

聖書 イザヤ書 52:13−53:12、マルコによる福音書 14:43−50

2018年 3月 25日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

イエスさまの弟子のひとりである、イスカリオテのユダは、

ユダヤの祭司長たちとの間に、ある約束をしていました。

それは、イエスさまを彼らに引き渡す代わりに、

お金を受け取るというものでした。

祭司長たちや律法学者たちは、

イエスさまを捕らえて殺そうと考えていたため、

喜んで、ユダのこの提案に乗ることにしました。

祭司長たちとの間に、このような約束をしてから、ユダは、

イエスさまを彼らに引き渡すタイミングを見計らっていました。

過越祭のお祝いの食事を終えた後、

真夜中に、イエスさまは弟子たちを連れて、

ゲツセマネと呼ばれる場所に来て、そこで祈り始めました。

この時こそ、まさに、

イエスさまを祭司長たちに引き渡す、絶好の機会でした。

ですから、ユダは、イエスさまを捕らえて引き渡すために、

祭司長、律法学者、そして長老たちが遣わした群衆を

イエスさまのもとに連れて来ました。

彼らのその手には、剣やこん棒といった武器が握られていました。

また、暗闇を照らすために、松明を持った者もいました。

想像してみると、なんと恐ろしい光景でしょうか。

 

この出来事が起こる少し前、

イエスさまの近くにいたペトロやヤコブ、そしてヨハネは、

イエスさまが祈っている間、眠気に襲われていました。

祈り終えたイエスさまに起こされ、

ぼんやりとしながら、イエスさまの顔を見ていると、

イエスさまは突然、緊張した声で弟子たちに語り始めました。

 

時が来た。

人の子は罪人たちの手に引き渡される。

立て、行こう。

見よ、わたしを裏切る者が来た。(マルコ14:42)

 

イエスさまが指を差す方を見ると、

そこには、武器を持った大勢の人々がいるのです。

その中に、自分たちの仲間であるユダがいたため、

弟子たちは、自分たちが置かれている今の状況を

うまく理解することが出来なかったでしょう。

彼らは困惑しながら、ユダの動きを目で追います。

ユダはイエスさまに歩み寄り、「ラビ」「先生」と語りかけ、

イエスさまに口づけをします。

この口づけは、ユダヤの人々にとって、自然な挨拶のしるしでした。

ギリシア語では、「愛する」という意味の動詞、

「フィレオー」が用いられているため、親しさや愛情の深さを

この「口づけ」という行為から読み取ることが出来ます。

しかし、ユダはイエスさまを裏切り、

イエスさまを大祭司たちに引き渡すつもりで、近づいてきます。

そう、彼は、イエスさまを裏切る意志を隠しながら、

イエスさまに対する愛情や親しみを仮面のようにかぶって、

イエスさまに近づいて来たのです。

その上、イエスさまを逮捕しに来た人々が、

この暗闇の中で、誰がイエスという男なのかを

はっきりと示す合図として、ユダはイエスさまに口づけをしました。

「わたしが接吻するのが、その人だ。

捕まえて、逃がさないように連れて行け」(マルコ14:44)と。

イエスさまを捕えるためにやって来た人々は、

その合図を見ると、すぐに、敵意をもって押し寄せて来て、

イエスさまを逮捕しました。

「手をかけて」と記されているように、

それは、暴力を伴うものでもあったようです。

それを見た弟子たちは、

この時、ふたつの行動を起こしました。

ある人は、剣を抜いて大祭司の手下に襲いかかりました。

イエスさまに襲いかかる暴力に対して、暴力で応えたのです。

イエスさまを守るためだったのでしょうか?

いいえ、そうであったならば、

イエスさまが捕らえられる前に行動を起こしているはずです。

ですから、この人は、イエスさまが捕らえられた光景を見て、

恐怖に囚われ、その恐怖を振り払うように、

衝動的に剣を抜いて、切りかかってしまったように見えます。

このような行動は、明らかに、

イエスさまが願っておられた弟子の姿ではなかったと思います。

イエスさまは、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:51)と、

語っておられるからです。

この時、弟子たちが起こしたもうひとつの行動は、

イエスさまを見捨てて逃げ出してしまったことでした。

そして恐らく、この福音書を記したマルコもまた、

イエスさまを見捨てて逃げ出してしまった者の一人です。

彼は、「亜麻布を捨てて裸で逃げて」しまった若者として、

自分の姿を描いている可能性があると考えられています。

イエスさまの受難の物語を伝えている、この私もまた、

イエスさまを見捨ててしまったのですと、

マルコはこの若者の姿を通して伝えているのかもしれません。

ですから、イエスさまが逮捕されたこの時、

イエスさまを慕い、イエスさまに従う人々は、

その場にイエスさまを置き去りにして、

誰もいなくなってしまったのです。

愛する弟子の一人のユダからは裏切られ、

自分の教えと正反対の行動をする弟子たちの姿を見せられ、

終いには、すべての弟子たちから見捨てられてしまう。

このように、逮捕されたイエスさまは、

一人で、孤独のうちに、

これから待ち受ける十字架刑へと向かって行くことになったのです。

なぜこのような出来事が起こったのでしょうか。

なぜ、イエスさまは神の子であるにも関わらず、

愛する弟子から裏切られ、見捨てられ、

逮捕されてしまったのでしょうか。

神の子であるならば、簡単に避けることが出来たと思います。

しかし、それにも関わらず、

なぜ神の子であるイエスさまは見捨てられたのでしょうか。

それは、究極的には、

これらのことが起こることを神が許されたからです。

そのような目でこの出来事を見つめると、

まるで、イエスさまの逮捕、

そしてそれに続くイエスさまの苦しみと死は、

人々が自らの望むままに行動した結果に見えます(ローマ1:28参照)。

そう、罪人が、自らの罪の赴くままに従って歩んだ結果こそが、

イエスさまへの裏切りであり、

イエスさまの逮捕、受難、そして十字架上での死だったのです。

ということは、イエスさまは、

私たち人間の罪の最大の犠牲者、最大の被害者なのです。

それは、罪深い人間の行動によって引き起こされた、

裏切りや暴力を経験したからでしょうか。

愛する弟子たちから見捨てられたからでしょうか。

恐らく、イエスさまが経験した一番の苦しみは、

神から見捨てられたことだったと思います。

人間の罪の被害を受けただけでなく、

私たち人間の罪をすべて背負って、

イエスさまは逮捕され、苦しみを受け、十字架にかけられました。

そして、人間の罪をすべて背負ったがために、

イエスさまは、神から見捨てられてしまったのです。

聖書は、この出来事を、

私たち人間を救うために神が計画されたことであったと証言します。

私たちの罪が完全に赦され、

私たちが神の子として受け入れられるために必要なことであった。

そして、罪は私たちに死をもたらすが、

イエスさまの十字架によって、

私たちに永遠の命がもたらされた、と(ローマ6:23参照)。

でも、そのことを聞く度に、

私たちには、心に浮かぶ疑問があるのです。

「そもそも、私たちの罪は、

イエスさまが犠牲にならなければならないほど、重いものなのですか?」

「救いがたいほど、私たちの罪は深刻なものなのでしょうか?」と。

確かに、私たちは、悪名高い者として、

歴史の中で語り継がれるほどの罪人とは言えないかもしれません。

でも、ユダがイエスさまに近づいた姿は、

私たちの現実でもあると思うのです。

親しい顔で友人たちに近づきながら、

心の底では憎しみや妬みなど、悪い思いで溢れていることがあります。

剣を手に取って襲いかかることはないけれども、

言葉や行動で誰かを傷付けるのは、私たちの得意技です。

イエスさまを見捨てて逃げることはしないかもしれないけど、

イエスさまの教えよりも、

自分の願いに従って歩むことを選んでしまいがちです。

確かに、それらのことは、

私たちの目には、イエスさまを

十字架にかけるほどの罪には見えないかもしれません。

しかし、そのような具体的な罪を何度も何度も引き起こす、

罪深い性質、罪へと向かってしまう傾向を、私たちは持っているのです。

もはや、私たちの一部として強く結びついてしまっている罪を

私たちから引き離すために、

イエスさまの十字架上での犠牲が必要でした。

だから、神は、その独り子を見捨てることを選びました。

そして、その計画ゆえに、神は、

人間の罪の赴くままに、人間が行動をすることを許されたのです。

そう考えると、イエスさまを裏切ったユダをはじめ、

イエスさまのことを見捨てて逃げ出した弟子たちには、

弁解の余地は全くありません。

しかし、それにも関わらず、

イエスさまは、彼らを愛されました。

拒絶することも可能だったのに、

イエスさまはユダの口づけを受け入れ、

裏切りを知っていてもなお、彼を弟子として扱われました。

ご自分を見捨てて逃げ出してしまうことを知りながらも、

「わたしは復活した後、

あなたがたより先にガリラヤへ行く」(マルコ14:28)と語り、

弟子たちと再び会う約束をされました。

そうです、弟子たちの側には、

イエスさまから愛されるに相応しい理由がなかったにも関わらず、

イエスさまは、弟子たちを愛することを選んでくださったのです。

弟子たちを愛するゆえに、

イエスさまは暴力の中に身を投げ込んで行かれたのです。

感謝すべきことに、神は、私たちに対しても、

同じように愛を注いでくださっています。

どれほど神に愛されるにふさわしくない生き方をしていたとしても、

驚くべきことに、神は、私たちを愛してくださっています。

罪の赴くままに生きてしまう私たち一人ひとりのために、

イエスさまは命を投げ出して、私たちに愛を示してくださったのです。

何と深い愛が、イエスさまの受難と十字架上での死を通して、

私たち一人ひとりに示されていることでしょうか。

この喜びと感謝を胸に、私たちは日々歩んで行きましょう。