「その時、主と同じ姿に変えられる」

「その時、主と同じ姿に変えられる」

聖書 イザヤ書 53:1-5、マタイによる福音書 17:1-13、詩121

2018年 4月 22日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

ペトロ、ヤコブ、その兄弟のヨハネ。

この3人の弟子たちは、とても不思議な経験をしました。

イエスさまに連れられて、高い山へ登ると、

イエスさまの姿が彼らの目の前で変わり、

「顔は太陽のように輝き、

服は光のように白くなった」のです(マタイ17:2)。

そして、気がつくと、イエスさまと一緒に、

モーセとエリヤがいて、彼らが語り合っているのです。

ペトロにとって、この時の光り輝くイエスさまは、

まさに天に属する存在のように思えました。

ユダヤ人たちの伝承によれば、

イエスさまと一緒に語り合う、モーセやエリヤという、

あの偉大な信仰者たちもまた、天に属する存在です。

そのため、ペトロは感動のあまり、

「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と語り、

イエスさまにこのように提案します。

 

お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。

一つはあなたのため、一つはモーセのため、

もう一つはエリヤのためです。(マタイ17:4)

 

ペトロのこの提案は、イエスさまにとって、

ふたつの意味で受け入れることが出来ないものでした。

ひとつは、イエスさまが山に登る前に、弟子たちに、

ご自分の死について語られたことと関係があります。

ペトロは、相変わらず、イエスさまが語った言葉を

受け入れることが出来ていませんでした。

イエスさまが苦しみ、殺されることになることなど、

簡単に受け止めることは出来ません。

苦しみを受け、人々から蔑まれ、

死ぬことになるイエスさまの未来よりも、

ペトロは、イエスさまが栄光のうちに輝いている、

今、この時の姿をずっと見ていたかったのです。

だから、少しでも、イエスさまが栄光に輝く時が続くように、

「仮小屋」を建てる提案をペトロはしたのです。

そして、ペトロのこの提案をイエスさまが受け入れられない

もう一つの理由は、ペトロが無意識のうちに、

神の子であるイエスさまの存在を、

エリヤやモーセと同じレベルに引き下げていることにありました。

その意味で、ペトロはこの時の出来事を

正しく理解することが出来ていなかったのです。

しかし、イエスさまはこの時、

ペトロの発言について何も語りませんでした。

というのも、ペトロが話しているうちに、

モーセとエリヤ、そしてイエスさまが

光り輝く雲に覆われたからです。

そして、雲の中から声が聞こえてきたのです。

 

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。

これに聞け。(マタイ17:5)

 

光り輝く雲は、旧約聖書において、

神が栄光を現す場面で登場します。

つまり、神が弟子たちの前に栄光を現し、

弟子たちに語りかけたのです。

この時、神が語った言葉に、私たちは聞き覚えがあります。

「これはわたしの愛する子、

わたしの心に適う者」。

それは、イエスさまが洗礼を受けたときに、

天から聞こえてきた声でした(マタイ3:17)。

あの時、天から聞こえてきた声が、

今や、弟子たちのそば近くに現れた

輝く雲の中から聞こえてきたのです。

神はペトロに語ります。

「私の愛する子、イエスが

今、あなたの目の前で現された

栄光に輝く姿で、生きることが、私の願いなのではない。

私の願いは、あなたではなく、イエスこそが知っている。

これから彼に訪れようとしている苦しみを、

彼が自分に与えられた役割として受け入れて歩むことこそ、

私の願いである」と、神はペトロに語っておられるのです。

だから、「これに聞け」という言葉が付け加えられて、

この時、神は弟子たちに向かって語られたのです。

そうです、この時、律法と預言者を代表する、

モーセとエリヤと一緒にいたイエスさまこそ、

律法と預言を完成させるお方です。

だから、イエスさまの言葉を聞くことこそ、

幻や不思議な出来事を大切にする以上に

優先されるべきことなのです。

私たちは、神の助けなしには、

神が与える幻も、不思議な出来事も、

理解することが出来ないのです。

それでは、イエスさまが語られる言葉を通して、

私たちは、イエスさまが弟子たちの前で栄光に輝く姿に変わったという、

この出来事を、どのように理解することが出来るのでしょうか。

実は、「変わった」と訳されている言葉は、

もともとの言葉では、「変えられた」と、

受け身の形で記されています。

つまり、イエスさまは、神によって「変えられた」のです。

神の御子であるにも関わらず、

イエスさまは、私たち人間の側に立って、

一人の人間として、神によって変えられたのです。

それは、私たち一人ひとりが、

イエスさまと同じように、

神によって変えられる希望を持つことが出来るようになるためです。

使徒パウロは、このように書いています。

 

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、

鏡のように主の栄光を映し出しながら、

栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。

これは主の霊の働きによることです。(Ⅱコリント3:18)

 

ここで「造りかえられる」と訳されている言葉は、

イエスさまが光り輝く姿に「変えられた」と

訳されている言葉と同じものが用いられています。

この「変えられた」という言葉は、

たとえば、アオムシが美しい蝶へと羽化するように、

昆虫が羽化して、変化するイメージをもつ言葉です。

同じ虫であるにも関わらず、

羽化をしたとき、虫は、劇的な変化を遂げるのです。

アオムシは、美しい蝶となって、羽ばたくのです。

それと同じ様に、この時、

イエスさまは、光り輝く姿に変えられました。

そして、イエスさまによって示されたように、

私たちは、神の愛の業によって、

イエスさまと同じ姿へと変えられていくと、

パウロは語っているのです。

でも、ちょっと待ってください。

そのようなこと、あり得るのでしょうか?

私たちは、イエスさまとかけ離れている部分が多すぎます。

私たちは、イエスさまのように、人を愛することが出来ません。

私たちは、平和を作り出すよりも、争いを生み出し、

憎しみや妬みといった感情を育てる方が得意です。

神の思いを知るよりも、

自分を中心に物事を進めることを好みますし、

誰かを利用して、自分だけ良い思いをしたいと、

心のどこかでいつも思っています。

イエスさまの言葉を思い起こしながら、自分を見つめ直してみると、

私たちには、イエスさまと同じ部分、イエスさまと似た部分よりも、

イエスさまとかけ離れた部分の方が多いのではないかと、思えてきます。

そして、私たちがイエスさまと同じような姿へとなるには、

正直、私たちの罪は、あまりにも大き過ぎます。

罪は、私たちの存在に、

あまりにもかたく結びついてしまっているのです。

それなのに、神は、どのようにして、

私たちをイエスさまと同じ姿へと

造り変えるというのでしょうか?

神は、輝く雲の中から、弟子たちに向かって語りました。

 

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。

これに聞け。(マタイ17:5)

 

イエスさまの言葉を聞くようにと、神は語ります。

この出来事が起こる、およそ一週間前、

イエスさまは、弟子たちにこのように語りました。

「私は必ずエルサレムに行って、

長老、祭司長、律法学者たちから

多くの苦しみを受けて殺され、

三日目に復活することになっている」(マタイ16:21参照)と。

イエスさまが受ける苦しみ、そして十字架上での死こそ、

すべての人に、罪の赦しを与えるために

神が計画されたことでした。

イエスさまの十字架上での死を通して、

私たちが抱える罪は、すべて赦されたのです。

そして、神は、イエスさまを

死者の中からよみがえらせることを通して、

罪の結果である死に勝利されました。

罪の赦しが私たちに与えられ、

罪と死に敗北が宣言された今、

私たちは、イエスさまと同じ姿へと変えられていく希望が

神から与えられたのです。

私たちは、しばしば、自分の今の姿を見つめて失望することがあります。

「あぁ、自分とは、何と愛のない人間なのだろうか」と。

しかし、どうか思い出してください。

あなたに、主キリストにある神の愛は、常に注がれています。

イエスさまによって、あなたは、

生涯をかけて、新しく造り変えられ、

天の御国において、完成に至るのです。

私たちの力では、イエスさまと同じ姿になることなど決して出来ません。

しかし、神には出来ます。

私たちが望む以上に、神も、あなたに対して、

あなたがイエス・キリストに似た者へと変えられていくことを

心から望んでいるのですから。

「あなたは栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ。

言葉においても、行いにおいても、そして思いにおいても、

あなたはキリストに似た者へと変えられるのだ」と。

だから、私たちも願い、祈り求め続けましょう。

「主よ、どうか私たちを、

イエスさまに似た者へと日々、造り変えてください」と。