「からし種ひと粒ほどの信仰を与えてください」

「からし種ひと粒ほどの信仰を与えてください」

聖書 創世記 18:16-33、マタイによる福音書 17:14-20

2018年 4月 29日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

イエスさまの弟子たちは、四六時中、

いつもイエスさまと一緒だったわけではありませんでした。

マタイによる福音書の10章によれば、

弟子たちはイエスさまによって選ばれ、

「天の国は近づいた」と宣べ伝えるために、

町や村へと遣わされて行きました。

イエスさまは言います。

「あなた方が遣わされた場所で、

あなた方が出会う、病人たちの病をいやしなさい。

悪霊を追い払いなさい」(マタイ10:8参照)と。

このような使命を与えられた弟子たちは、

イエスさまと行動を共にしつつも、

時には、その与えられた使命に従って、

天の国を人々に宣べ伝えたのです。

さきほど読んでいただいた、

マタイによる福音書17章の物語に目を移してみると、

この時、弟子たちはふたつのグループに分かれて

行動を取っていたことがわかります。

ひとつ目のグループは、

ペトロとヤコブとその兄弟のヨハネ。

彼らは、イエスさまに連れられて、

高い山に登り、そこで不思議な体験をしました。

彼らはイエスさまが

栄光に輝く姿へと変えられた様子を目撃しました。

また、イエスさまが

エリヤとモーセと語り合う光景に立ち会いました。

そして、彼らは、神の声を聞きました。

自分たちに語りかける神の声を聞いた時、

彼らは恐れを覚えましたが、

この時のすべての経験を通して、

イエスさまがどのような方であるかを知り、

この3人の弟子たちは大きな励ましを受けました。

特に、「あなたは生ける神の子、メシア」と、

イエスさまに告白したペトロは、

自分の信仰の告白により強い確信を得たと思います。

このように、大きな励ましを受けた3人の弟子たちは、

他の弟子たちと合流するために、

イエスさまと一緒に山を降りて行きました。

仲間の弟子たちがいる場所へ行ってみると、

そこには、たくさんの人が集まり、

何やら騒がしくしていました。

群衆のところへ近づいてみると、

仲間の弟子たちが困り果てているのが見えました。

すると、ある人がイエスさまに近づいて来て、

「てんかんで苦しむ自分の息子を

どうか憐れんでください。

息子の病を癒してください」と、お願いをしてきたのです。

この人の話を聞いてみると、

どうやら、この人は、病を癒し、悪霊を追い払う力をもつ、

あのイエスさまの弟子たちを信頼して、

弟子たちのところに子どもを連れて来たようです。

しかし、弟子たちには、

この人の子どもの病を癒やすことが出来なかったようです。

子どもの癒やしを求めるこの人も、

癒やすことが出来なかった弟子たちも、

集まっていた人々も、失望しました。

しかし、そこにイエスさまがやって来たのです。

てんかんという病を患う子どもをもつ、この人は、

イエスさまの弟子たちには失望しましたが、

イエスさまに対する信頼は持ち続けていました。

だから、イエスさまの姿を見ると、

彼は、すぐに駆け寄り、癒やしを求めたのです。

「てんかんで苦しむ自分の息子を

どうか憐れんでください。

息子の病を癒してください」と。

その姿を見て、イエスさまは

子どもから悪霊を追い出し、癒やされました。

もしも、この物語がここで終わるならば、

当時の人々がいつも見聞きした、

イエスさまの癒やしの物語として受け取られたことでしょう。

しかし、今回のことがいつもと違うのは、

後日談がここに記されていることにあります。

悪霊を追い払えず、てんかんを癒せなかった弟子たちは、

自分自身の力に失望しました。

「おかしい。

自分たちは、イエスさまから、

力を与えられたはずではなかったのか?

病を癒し、悪霊を追い出せるはずではなかったのか?

それなのに、なぜ出来ないんだ?」

このような疑問が、彼らの心を渦巻いたことでしょう。

このような疑問は、いつまで経っても頭から離れません。

ですから、弟子たちは密かに

イエスさまに質問をすることにしました。

「イエスさま、なぜですか?

なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と。

イエスさまは、弟子たちに何と答えられたでしょうか?

イエスさまは、弟子たちにこのように語りかけました。

「それは、あなた方の信仰が薄いからだ」と。

イエスさまの答えを聞いて、

弟子たちはうろたえ、戸惑ったと思います。

まるで、自分たちに信仰がないから、

イエスさまが与えてくださった力を発揮できなかったと、

指摘されているように聞こえたと思います。

でも、実際のところ、

イエスさまは、弟子たちが信仰が無いだとか、

不信仰だなどとは言いませんでした。

「信仰が薄い」と、イエスさまは語ります。

思い返してみると、「信仰が薄い」とは、

これまで弟子たちに向かって、

何度かイエスさまから語られてきた言葉でした。

そうです、この言葉は、弟子たちが舟で移動している途中、

嵐に襲われ、恐怖で震えていたあの時、

イエスさまが弟子たちに向かって言われた言葉でした。

「なぜ怖がるのか、

信仰の薄い者たちよ」(マタイ8:26)。

そう言って、イエスさまは、嵐を鎮めてくださったのです。

また、「山上の説教」と呼ばれる教えが語られたあの日、

イエスさまが「空の鳥、野の花を見なさい」と命じたとき、

イエスさまは人々に向かって、このように語りました。

 

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、

神はこのように装ってくださる。

まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、

信仰の薄い者たちよ。(マタイ6:30)

 

この世界を造り、造られたすべてのものを養い、支え、

その歩みを導いておられる神が、

今も変わらずに、私たちの命を養い、支え、

その歩みを導いてくださっています。

そのことをあまりにも簡単に忘れてしまうのが、

私たち人間です。

だから、イエスさまは「信仰が薄い者よ」と語り掛け、

この世界を造られた神が、

あなたを養ってくださることを思い出しなさいと

励ましてくださったのです。

つまり、信仰者であるにも関わらず、神を信頼できずにいる。

信じて、頭では理解しているけれども、

信じているように、生きることが出来ない。

そのような私たちの現実に、

神に対する確かな信頼が芽生えることを願って、

イエスさまは弟子たちに、

「信仰の薄い者たちよ」と語りかけておられるのです。

それは、弟子たちや私たちの弱い信仰を

叱りつけているというわけではありません。

また、「大きな、偉大な信仰を持て」と

命じているわけでもありません。

イエスさまは、「からし種ひと粒ほどの信仰を持つように」と

弟子たちを励ましています。

からし種。

当時、それは、最も小さな種粒と考えられていました。

しかし、見た目はとても小さなこのからし種に、

大きな力が宿っています。

からし種はその小ささにも関わらず、成長すると、

1.5m~3mほどの高さの木になります。

とても弱々しく、取るに足りない神への信仰かもしれない。

けれど、神への確かな信頼を持っているならば、

その小さなからし種ひと粒ほどの信仰が働く時、

不思議なことに、山を動かすとまで言われているのです。

もちろんそれは、

文字通り「山を動かす」ことを意味しているわけではなく、

困難を乗り越えることを指す物の言い方です。

山を動かすことが目的ではありません。

信仰によって偉大なこと、不可能なことが出来るということを

人々に示し、誇ることが目的でもありません。

使徒パウロは、このように言っているではありませんか。

 

たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、

愛がなければ、無に等しい。(Ⅰコリント13:2)

 

パウロが証言するように、

イエスさまが私たちに求める信仰は、

大きな、偉大な、人に誇れるような信仰ではありません。

愛に基づく、神への信頼です。

どれほど神を信頼していても、

私たちが神を愛し、隣人を愛さなければ、

私たちの信仰は、無に等しいのです。

しかし、たとえからし種のような小さな信仰であったとしても、

愛に基づいて生きるならば、

からし種のような信仰は、想像以上に成長するのです。

私たちが神と人を愛し、神を心から信頼するとき、

物事は、神によって大きく取り扱われます。

そのことを、旧約聖書に記されている、

アブラハムの物語が、私たちに力強く証言しています。

アブラハムは、親戚のロトが住むソドムの町を

神が滅ぼそうとしている計画を知りました。

ソドムの町の罪が、あまりにも深く、

その罪を訴える叫び声が大きかったためです。

それを知ったアブラハムは、

ロトと、彼の住む町を思いながら、

神の前に立って、祈り始めました。

 

まことにあなたは、

正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。

あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、

その五十人の正しい者のために、

町をお赦しにはならないのですか。(創世記18:23-24)

 

神の目から見れば、アブラハムのこの祈りは、

からし種のような、小さな小さな祈りでした。

私たちの目に、神の決定を覆すことは、

不可能なことのように思えます。

しかし、アブラハムは愛に基づいて、

ソドムの町のために祈り続けました。

小さな小さなその祈りを積み重ねました。

親戚のロトのことを思いながら、

その町に住むすべての人の救いを求めて、

アブラハムは、神の前に立ち続けたのです。

私たちは、アブラハムと神の対話が続き、

最終的に、神がアブラハムの祈りに

心動かされたことを知ります。

ソドムの滅びを避けることは出来ませんでしたが、

ロトとその家族は救い出されました。

愛に基づく信仰によって、

不可能に思える出来事の中に、

救いの道が開かれていったのです。

このように、アブラハムの小さくも、

粘り強く、愛に満ちた祈りを通して、

からし種ひと粒ほどの信仰が

私たちの心に宿ることが私たちに及ぼす

大きな影響を知ることができます。

だから、私たちはいつも祈り求めようではありませんか。

「どうか主よ、

からし種ひと粒ほどの信仰を私にお与えください」と。

ソドムのように、無秩序で、神の働きが感じられない場所は、

私たちの日常に溢れています。

しかし、愛のない、希望のないところにも、

神は働いてくださいます。

神は、この世界を造られた方だからです。

私たちを造り、私たちを愛してくださる神は、

私たちにいつも寄り添い、

私たちと共に歩みたいと望んでおられるのです。

ですから、どのような場所に私たちがいても、

神は、私たちの現実に働きかけ、手を伸ばしてくださいます。

だから、私たちは神に祈りながら歩んで行きましょう。

「どうか、神に対するそのような信頼が詰まった、

からし種ひと粒の信仰を与えてください」と。