「希望に結びつく悲しみ」

「希望に結びつく悲しみ」

聖書 エゼキエル書 37:1-14、マタイによる福音書 17:22-23

2018年 5月 6日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

私たちは人生のさまざまな場面で悲しみを経験します。

お気に入りの傘を電車で忘れてしまった時。

失敗をくり返し、自分の力の無さを実感する時。

言葉や態度によって、周囲の人々を傷つけてしまい、

自分自身の愛の無さ、配慮の無さを知り、自分自身に失望する時。

周りの誰からも理解を得られず、孤独を感じる時。

大切な人から裏切られた時。

そして、愛する人との別れを経験した時。

悲しみの度合いや、悲しむ理由は、実に様々ですが、

私たちは、何度も何度も悲しみに直面させられます。

このように私たちが経験する悲しみを

私たちは一体どのように受け止めれば良いのでしょうか?

使徒パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、

その当時、コリントの教会の人々が抱いていた悲しみについて、

このように書きました。

 

神の御心に適った悲しみは、

取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、

世の悲しみは死をもたらします。(Ⅱコリント7:10)

 

私たちが抱く悲しみには、

ふたつの種類の悲しみがあるとパウロは言います。

それは、「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」である、と。

そして、神のみ心にかなった悲しみは、

救いに通じる悔い改めを生じさせ、

世の悲しみは、私たちに死をもたらすと、

パウロは結論づけています。

パウロのこの言葉を通して、

私たちを神から引き離す悲しみもある

ということに気づかされます。

たしかに、私たちが悲しみに支配され、

神を見つめようとしないとき、

私たちは悲しみに押し流され、神を忘れ去ってしまうのです。

このような死に至る世の悲しみを、イエスさまの弟子たちは、

イエスさまの言葉を聞いたときに抱いたと、

きょうの福音書の物語は私たちに告げています。

イエスさまは弟子たちにこのように語りました。

 

人の子は人々の手に引き渡されようとしている。

そして殺されるが、三日目に復活する。(マタイ17:22-23)

 

このようなイエスさまの言葉を聞いて、

弟子たちは深い悲しみを覚え、沈み込みました。

でも、ちょっと待ってください。

イエスさまは、ご自分が死んだ後「復活する」と語ったのに、

それを聞いた弟子たちは、なぜ悲しんでいるのでしょうか?

きっと、弟子たちの心には、

イエスさまの語った言葉のすべてが届かなかったのだと思います。

「イエスさまが人々の手に渡されて、殺されることになる」。

その言葉があまりにも衝撃的だったため、

弟子たちの心を悲しみが支配しました。

そのため、イエスさまが語った、

「三日目に復活する」という希望の言葉が、

彼らの耳に入らなかったのです。

そのようにして、彼らはこの時、

その心に抱いた悲しみによって、

聞くべき言葉を聞き逃してしまったのです。

死者が復活するという、驚きと喜びに満ちた神の奇跡が、

どれだけ語られたとしても、

弟子たちはイエスさまの死を前にしたとき、

死に対する敗北や無力感、

そして、愛するイエスさまを失うことに対する悲しみを

彼らは抱くことしか出来ませんでした。

しかし、そうは言っても、私たちの力で

悲しみを抱くことを避けることなど、どう頑張っても出来ません。

無理な話です。

弟子たちのように、悲しみに心が支配され、

悲しみに押し流されてしまうのは、当然のことのように思えます。

そのため、イエスさまも弟子たちが悲しむ様子を見て、

彼らに「悲しんではならない」とは語りませんでした。

イエスさまは、彼らが悲しむ様子を見て、沈黙されたのです。

死者の復活について、どれだけ彼らに語っても

彼らがそれを確信することは難しかったでしょう。

だから、ご自分が復活して、彼らの前に現れ、

彼らが復活を体験するときまで、

イエスさまは待たなければならなかったのです。

しかし、イエスさまは、悲しむことについて、

ひとつの確信を抱いて、山上の説教において、

あらかじめ、弟子たちにこのように語っておられました。

 

悲しむ人々は、幸いである、

その人たちは慰められる。(マタイ5:4)

 

悲しむ者は、神からの慰めを受けると、

イエスさまは約束をされています。

悲しみを抱く時、神からの慰めを期待しているか、どうか。

それこそが重要なのです。

感謝すべきことに、イエスさまが語る、

悲しみの出来事の中に、神からの慰めが秘められていました。

イエスさまが人々の手に渡されて、殺されることになる。

それは、弟子たちの立場に立つならば、

誰の目から見ても、悲しみに溢れ、絶望すべきものでした。

それは、死をもたらす、世の悲しみのように見えました。

しかし、イエスさまが語るこの出来事は、

救いに通じる道をすべての人に開くために、

神が計画されたものだったのです。

その意味で、本来、イエスさまが語るこの悲しみは、

神のみこころに適う悲しみだったのです。

しかし、弟子たちはこの時、

神のみこころに適う悲しみではなく、

死に至る世の悲しみを抱いてしまいました。

悲しみに心を支配され、

イエスさまの言葉を正しく聞くことが出来なかったからです。

そして、弟子たちと同じ様に、

私たちは悲しみと向き合う時、

死に至る世の悲しみを抱いてばかりな気がします。

悲しみがすべてを奪い去り、

喜びも楽しみも飲み込んでいくかのように感じるのです。

いや、そもそも、すべての悲しみをパウロが語るように、

簡単に分類することなど、私たちには出来ません。

私たちに働きかけてくる罪や悪が、

私たちの目から神のみこころを見えなくしてしまっているからです。

しかし、私たちは、今一度思い起こしましょう。

そのような私たちの罪を赦すために、

イエスさまは死に渡さたのです。

私たちの目を、神のみこころをから反らす、罪や人間の悪。

そのすべてをイエスさまが十字架の死を通して解決してくださったのです。

ですから、私たちは、イエスさまの十字架のもとで

悲しむことが許されています。

イエスさまの十字架を見つめ、

神の計画、神の約束を思い起こすこと通して、

私たちは神からの慰めを受けるのです。

もしも私たちが神の約束を見つめるならば、

私たちの悲しみは、それがどんなに些細なものであったとしても、

必ず、希望に結びつくものとなるのです。

たとえどれほど今の悲しみが深かったとしても、

その悲しみは最終的に希望に結びつくと知っているから、

私たちは大きな慰めを受けることが出来るのです。

私たちが絶望し、悲しむところに、

神は慰めを与えることが出来るのです。

預言者エゼキエルが見た幻は、

そのことを私たちに力強く、そして希望をもって証言しています。

エゼキエルが幻を見たとき、彼はある谷の真ん中に降ろされました。

彼の目の前には、枯れた骨が

そこら中に散らばっている光景が広がっていました。

死に対する絶望や悲しみが、その空間を満たしていました。

そこには、希望がありませんでした。

しかし、神に命じられたエゼキエルは、

骨に向かって預言を語ります。

「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。

見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。

すると、お前たちは生き返る」と(エゼキエル37:4-5参照)。

エゼキエルが命じられた通りに語り始めると、

骨と骨とが近づき、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆いました。

そして、そこに神の息が吹きかけられると、

彼らは生き返り、自分の足で立ち始めました。

このようにして、エゼキエルは、

死者がよみがえるという、驚きに満ちた幻を見たのです。

新約聖書を通して、この幻は、

主イエスによって確かなものとされたと、証言されています。

来るべき日、死者は復活する。

死は、最終的な勝利者ではない。

今このとき、死は、私たちの喜びも、楽しみも、

希望も、未来も飲み込んでいくかのように見える。

しかし、神が死に打ち勝ち、新しい命を与えてくださる。

死によってもたらされた、終わりのない悲しみが終わりを告げ、

最後には、神のみもとで新しい命を得る。

このようにして神は、どのような悲しみも、

希望に結びつけてくださったのです。

それは、人間の罪や悪の結果としか思えない

悲しみについても、言えることです。

もしも今私たちが抱く悲しみが、

私たち自身やこの世界の罪や悪の結果であるならば、

私たちは、十字架にかけられた主イエスのもとで、

それらを悲しむ道が備えられています。

十字架は、すべての罪に赦しと和解を与える神の力です。

神のみこころでない事柄が、

神のみこころのままに行われることを願って、

私たちは、主イエスのみもとへと行くことが出来るのです。

このようにして、私たちが抱くすべての悲しみは、

神が与えてくださる約束に結び付けられているのです。

ですから、どうか、神の約束を思い起こして、

悲しみを希望に結びつけることが出来ますように。

ただ、時には、それは一人では難しいことです。

私たちは、悲しみを抱くとき、悲しみに押し流され、

神の約束を忘れ去ってしまい、

今の悲しみを、この世の悲しみとして片付けてしまいがちです。

しかし、私たちは、悲しみを共に分かち合い、

神の約束を一緒に見つめようと共に励まし合う、

教会と呼ばれる、信仰者の群れに招かれています。

私たちが悲しみを抱きながらも、

それを死に至る悲しみにせず、

私たちが悲しみを乗り越えることが出来るようにと、

神が備えてくださった場所こそが、教会です。

どうか、主イエスによって私たちに与えられている確かな希望を、

私たちが日々経験する悲しみに結び続けることが出来ますように。

そして、私は願います。

私たちのこの群れが、そしてここに集う一人一人が、

どのような悲しみに出会ったとしても、

いつも神の約束を見つめることの出来る群れであり、

神がその悲しみを必ず希望に結びつけてくださることを

信じて疑わない信仰者であり続けることが出来ますように。