「教会は歌いながら歩む」
聖書 エゼキエル書 33:7-11、マタイによる福音書 18:15-20
2018年 5月 27日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
私たち人間は、お互いに様々な違いを抱えています。
見た目も違えば、生き方も、考え方も違います。
感情の表現の仕方も、使う言葉だって違います。
同じ言葉を聞いても、受け取る印象が
人によって真逆であることもしばしばあります。
このような私たち人間の多様性は、
神が私たち人間を祝福した証しでもあるといえます。
どれほど豊かに、知恵や、ユーモア、何よりも愛情を込めて、
神が私たちを造られたのかがわかります。
でも、それなのに、私たちは
ともに生きる誰かとの間に違いを感じるとき、
お互いにわかり合うことが出来ないという、
諦めにも似た感情を抱くことがあります。
そして、時には、自分たちが抱える違いゆえに、
お互いに傷つけ合ってしまうことがあるのです。
きょうの物語において、イエスさまが取り上げている問題は、
教会の中で誰かを傷つけ、罪を犯してしまうという問題です。
そうです、教会は、その初めから今に至るまで、
すべての人が招かれているため、
実は、そのような問題はとても起こりやすいところです。
でも、イエスさまは、
「色々な考えの人々が集っているから、
このようなことが起こるのはしょうがないね」
とは言いませんでした。
イエス・キリストに従う信仰者たちは、
教会と呼ばれる、信仰者の群れは、
互いに愛し合うようにと、神から招かれています。
ですから、イエスさまは、
私たちに和解の道を示されたのです。
イエスさまは、人々にこのように告げました。
兄弟があなたに対して罪を犯したなら、
行って二人だけのところで忠告しなさい。
言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
(マタイ18:15)
教会の中で、ある人が特定の人に対して罪を犯す。
それは、悪口や陰口だったかもしれませんし、
経済的な損失を与える過ちだったかもしれません。
また、いじめや嫌がらせだったかもしれません。
どのような罪が前提とされているかはわかりませんが、
相手の犯した罪に傷ついた人がいます。
誰かの罪に傷つき、被害を受けた時、
まずは、個人的に話し合うようにとイエスさまは勧めます。
しかし、当然、ふたりが和解することが困難な場合があります。
もしも罪を犯した人が自分の罪を認めない場合、
当事者である、このふたりの間に争いが生じる場合があります。
更に関係が悪化する場合だってあるのです。
でも、そこで諦めるべきではないとイエスさまは言うのです。
この二人の交わりが損なわれることは、
何も、この二人だけの問題ではないのです。
彼らの交わりが傷つくとき、
教会の交わり全体が傷ついてしまうのです。
だから、ふたりの間に和解の道を探っていくために、
第三者の証人を立てるようにとイエスさまは勧めます。
罪を犯した人、その罪を告発する人。
この両者の意見を冷静に聞く人が必要なのです。
第三者の存在は、
罪を犯した人に、その罪を自覚させるために必要でした。
また時には、罪を告発する人が
過度に相手を攻撃し始めるかもしれません。
いや、罪の告発事態が、お互いに対する誤解や、
誤った情報に基づいてなされた可能性だって、
もしかしたらあるかもしれません。
ですから、そのような誤りから、
罪を犯した者も、罪を指摘する者も守るために、
このふたりを守るために、
「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と、
イエスさまは勧めているのです。
しかし、悲しいことに、
罪を犯した人が自分の罪を認めず、
ふたりが和解することができない。
争いがますます深まってしまう場合もあるのです。
そのようなときのために、イエスさまは、
このように語りました。
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。
教会の言うことも聞き入れないなら、
その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。(マタイ18:17)
最後の最後まで自分の罪を認めない人は、
異邦人や徴税人と同じように見なされるようです。
一体、どういう意味なのでしょうか?
ユダヤ人たちが、異邦人や徴税人を疎ましく思ったように、
仲間たちから疎まれることになる、という意味なのでしょうか?
それとも、いつまでも罪を認めない人は、
信仰を分かち合う仲間というよりは、
むしろ、福音を届けるべき友であるという意味なのでしょうか?
どちらの可能性もあると思います。
ただ、確かなことは、
罪を犯した人たちを追放することや、
そのような人たちを異邦人や徴税人と同じ様に扱うことなど、
イエスさまは願ってはいないということです。
マタイが記したこの福音書を通して、
イエスさまの言葉を聞いた人々だって、
そのようなことを願っているはず、当然ありません。
だから、イエスさまは、このように言われたのです。
どんな願い事であれ、
あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、
わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、
わたしもその中にいるのである。(マタイ18:19-20)
この言葉だけ抜き出して読むと、
祈りの持つ力をイエスさまが語っているように感じます。
しかし、イエスさまは、争いのある二人に向けて、
この言葉を語っていることを思い出す必要があります。
イエスさまは、罪を問われたり、
罪を追求されたりするなど、
何であれ、お互いに争い合う人々に対して、
この言葉を語っているのです。
「あなた方がもしも、争い合うその事柄に関して、
お互いに納得し、同意し、
手を取り合うことができるなら、
そこには、神からの祝福が与えられるだろう」と、
イエスさまは約束してくださっているのです。
「お互いに疑い合い、
憎しみ合い、争い合ってしまう。
そのような問題を抱えていたとしても、
それでも、互いに赦し合って、手を取り合おうとう願うならば、
その問題のあるただ中に、神は働いてくださる」と、
ここでは、宣言されているのです。
つまり、重要なことは、何よりも、
その争いが解決され、交わりが回復されることなのです。
ところで、19節で、「心を一つに」と訳されている言葉は、
「シンフォニー」「交響曲」の語源となった、
ギリシア語が用いられています。
そのもともとの意味は、「響きを共にする」です。
オーケストラの奏でる音を聞いたり、
楽譜を読んでみるとわかりますが、
ひとつの曲の中で、たくさんの音を重ねています。
シンフォニーにおいて、オーケストラは、
時に同じ音を重ねて、ある旋律を強調します。
しかし、演奏において、ひとつの楽器だけが大きな音を出して、
他の楽器が鳴らす音を消すことは決してありません。
多くの場合は、違う音を重ね合わせて、
ぶつかり合う音と音とが調和されていくことを目指し、
美しい曲を共に奏でていくのです。
ですから、その意味で、イエスさまが、
「あなたがたのうち二人が地上で
心を一つにして求めるなら」というとき、
全く同じ思いを抱くようにと語っているわけではないのです。
違いを抱えながらも、お互いの奏でる音を尊重し合い、
響きを共にしながら、神に祈り求めるようにと
イエスさまは語っているのです。
まさに、シンフォニーのあり方が、
オーケストラにおける演奏のあり方が、
美しい交わりの目指すべき方向を示しているのです。
でも、私たちは、神の前で美しい音のしらべとなるような、
交わりを築くことが、どれほど困難なことであるかを
痛いほどよく知っています。
ある人にとっては、自分の語る言葉が喜ばしいものだとしても、
同じ言葉が、他の人に対しては
深い傷を与えるものとなることだってあります。
大きな音を出す人もいれば、小さな音を出す人もいます。
いつも赦し合えるわけでもなければ、
心から喜んで愛し合えるわけでもないのです。
そのような中で、ひとつの美しい音楽を奏で、
調和を目指すことは、至難の業です。
しかし、イエスさまはこう言われました。
どんな願い事であれ、
あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、
わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、
わたしもその中にいるのである。(マタイ18:19-20)
しかし、あなた方は、心を一つにすることができる。
違う思いを抱えているかもしれないが、
それらが織り重なって、シンフォニーを生み、
和解の道を歩むことができる。
主イエスの名の下で集まる交わりだから、
教会は、お互いの違いを乗り越えて、
お互いを活かし合う交わりを築いていくことができると、
イエスさまは約束しておられるのです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、
わたしもその中にいるのである」と。
愛する皆さん、私たちにとって、大切なことは、
私たちの指揮者は、三位一体の神であるということです。
イエスさまが約束されたように、
お互いに赦し合い、愛し合う交わりを
天の父である神が築いてくださる。
子であるイエスさまが、人を赦せない、愛せない私の罪を
十字架上での死を通して赦してくださった。
聖霊が、私たちと神、
そして私たち一人ひとりの愛の絆となり、
私たちを結び合わせてくださった。
三位一体の神が、私たちの歩みを導き、支えてくださるから、
私たちは、互いに愛し合い、共に祈り合うことを通して、
シンフォニーを奏で続けることができるのです。
そして、三位一体の神の交わりを通して、
神は、今も私たちに交わりのあり方を教えてくださっています。
父なる神と、子であるキリストと、神の聖なる霊である聖霊。
この三者が、協力し合い、
私たち人間の救いを達成してくださっています。
何よりも、三位一体である神が、
愛に溢れるシンフォニーを奏でているのです。
父と、子と、聖霊のうちに、
豊かな愛に溢れる、真実の交わりがあるのです。
だから、私たちは、神を見つめながら、
交わりのあるべき姿を教えられながら、
共に生きるように招かれている人々と一緒に歌い続けるのです。
違いをお互いに抱えながらも、お互いに受け入れ合い、
赦し合い、愛し合う。
そして、お互いの良さや美しさを生かし合いながら、
私たちは神への賛美を歌い続けていくのです。
そのようにして、教会という信仰者の交わりは、
歌いながら、天の御国へと向って歩み続けて行くのです。