「ここは神の家」

「ここは神の家」

聖書 マラキ書 3:1-4、マタイによる福音書 21:12-17、詩 8

2018年 7月 22日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

エルサレムにやって来たイエスさまが、

一番最初に足を運んだ場所は、エルサレムにある神殿でした。

神殿はエルサレムの都の中心であり、

ユダヤの人々にとっては、世界の中心であり、

この地上で最も聖なる場所でした。

人々は神と出会うために、神殿に足を運び、

そこで神に祈り、犠牲を捧げ、神を礼拝しました。

イエスさまがエルサレムを訪れたこの時は、

「過越祭」と呼ばれるユダヤのお祭りの時期だったため、

各地から多くの人々がこの地に訪れていました。

この時、エルサレム神殿の敷地内で、

誰もが入ることが出来る『異邦人の庭」と呼ばれる場所で、

多くの人々が見ている中で、事件は起きました。

なんと、イエスさまが突然、

神殿の庭で売り買いしていた人たちを追い出し、

両替人たちの台や、鳩を売る人々の腰掛けを倒し始めたのです。

イエスさまは一体なぜこのようなことをしたのでしょうか?

 

イエスさまはご自分の行動の理由について、このように言いました。

 

こう書いてある。

『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』

ところが、あなたたちは

それを強盗の巣にしている。(マタイ21:13)

 

「エルサレム神殿を、強盗の巣にしている」。

何と厳しい批判の言葉でしょうか。

でも、果たして、「強盗の巣」と呼ばれるほど、

神殿は落ちぶれ、腐敗していたのでしょうか……?

少なくとも、イエスさまの目にはそのように映ったようです。

神殿の庭では、両替がなされていました。

毎年のように神殿に納めるための税金は、

神殿で認められているティルスのお金に両替をしてから、

納めなければなりませんでした。

そのため、神殿の庭には両替人がいたのです。

また、そこには、神殿で犠牲として捧げるための

鳩を売る人たちがいました。

これらふたつのことは、過越祭に参加するために、

遠い地からエルサレムにやって来た人々が、

神殿での礼拝に参加するために必要なものでした。

しかし、神殿の敷地内で行う必然性はありません。

それなのに、当然のように、

神を礼拝する神殿で、商売が行われている。

神と交わりをもつ場所において、商売の方に心を囚われている。

神への祈りに心を注ぐのではなく、

捧げ物の内容にばかり心を注いでしまっている。

そのようなエルサレム神殿の現実に憤りを覚えたため、

イエスさまは、神殿の敷地内で売り買いする人たちを

そこから追い出したのです。

そしてイエスさまは、人々に向かってこのように語りました。

「あなたたちは祈りの家と呼ばれるべき神殿を

強盗の巣にしている」と。

「強盗の巣」とは、他人から物を奪う、

略奪の場を意味する言葉ではありません。

そうではなく、強盗が奪ってきたものを運び込んで、

自分たちの身の安全を確保する隠れ家のことです。

この「強盗の巣」という言葉は、

預言者エレミヤの言葉を暗示して語られたものです。

エレミヤは、「神殿が強盗の巣に見える」と語る際、

当時の神殿での礼拝を批判して、このように語りました。

 

盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、

知ることのなかった異教の神々に従いながら、

わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来て

わたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。

(エレミヤ7:9-10)

 

神に喜ばれないことをしていたとしても、関係ない。

神殿に来て、神の前で祈り、

宗教的な行為をしてさえいるならば、自分たちは救われている。

そのように考えている人々の姿をエレミヤは嘆き、

批判をしているのです。

「祈りの家と呼ばれるべき神殿を

強盗の巣にしている」と語るとき、

イエスさまは、エレミヤの言葉を思い出していたと思います。

神殿は、神と出会い、神と交わりをもつ場所でした。

しかし、神殿に商売が持ち込まれ、

人々は神との交わりよりも、商売の方にばかり心を奪われ、

良い捧げ物を買うことにばかり心を注いでしまっていたのです。

「あぁ、祈りの家とは程遠い姿だ。

あの日、エレミヤが語ったように、

強盗の巣のようではないか」。

イエスさまは嘆きながら、売り買いする人々を

神殿から追い出したのです。

ところで、売り買いする人々が神殿からいなくなったとき、

何が起こるでしょうか?

鳩を売る人々がいなくなることは、

神殿で捧げる犠牲が人々の手からなくなることを意味します。

そうなるとき、神殿での礼拝は止まり、

神殿はその存在意義を失ってしまいます。

また、両替人たちの台や、鳩を売る人々の腰掛けを倒し始めた

イエスさまの行動は、破壊を象徴するものでした。

イエスさまはこの時、破壊を象徴するご自分の行動を通して、

神と人との出会いの場となっていない、

古い神殿が破壊されることを伝えようとしているのかもしれません。

そう考えると、今回のエルサレム神殿での出来事は、

とても衝撃的な事件だったことがわかります。

神殿が、世界の中心ではない。

神と出会える場所は、神殿だけではないと、

イエスさまは、その行動によって宣言しているのですから。

それでは、神を礼拝する場所とは一体どこなのでしょうか?

教会、ということなのでしょうか?

いいえ、正確に言うならば、

私たちは、イエスさまを通して、神を知り、

イエスさまを通して、神と出会い、

イエスさまを通して、神と交わりをもつのです。

その意味で、神殿や教会のみが神を礼拝する場所ではなく、

聖霊を通して、イエスさまが私たちと共にいてくださる、

あらゆる場所が、私たちが神と出会うことの出来る場所、

神を礼拝し、神と交わりを持つことの出来る場所なのです。

それは、神が造られたこの世界全体に及びます。

つまり、私たちにとって、

この世界こそが、神を礼拝する舞台なのです。

神が造られたこの世界のあらゆる場所で、

神をほめたたえ、神の栄光を映し出して生きるようにと

私たちは招かれているのです。

日常の生活の中こそが、

私たちが神と出会い、神と共に歩む場所なのです。

私たちが足を運ぶ、あらゆる場所が神の家、祈りの家なのです。

神が造られ、イエスさまが共にいてくださるこの世界において、

私たちはどこにいようとも、

「ここは神の家」と呼ぶことが出来るのです。

ですから、私たちにとって、毎週日曜日に行う礼拝は、

日々、神と出会い、神と交わりを持ち、

神と共に歩む方法を教えられる場所です。

この身に、この心に、私たちの全存在・全人格に、

神と共に歩む方法を刻み込むのが、礼拝という場です。

私たちはここで、この場所で、共に神の言葉を聞くことを通して、

何が神のみこころであり、何が善であるかを再確認します。

神の愛によって造り変えられ、

愛をもって生きることを教えられます。

そして、神が求める和解や平和を尋ね求め、

互いに赦し合い、共に生きる道を探るのです。

私たちは、日曜日ごとの礼拝を通して、

この世界で神を礼拝する、神の民へと造り変えられていくのです。

ですから、神に心から願いましょう。

「あなたの語りかける言葉によって、

あなたを礼拝する神の民として、私たちを造り変え、

その歩みをいつも整えてください」と。

そして、どうか、あなた方が行く所どこにおいても、

神と出会い、神と共に歩むことが出来ますように。

あなた方は、神を礼拝する、神の民なのですから。