「信仰が祈りを生み、祈りが生活となりますように」
聖書 エレミヤ書 8:8-13、マタイによる福音書 21:18-22
2018年 7月 29日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
きょう私たちに与えられた、福音書の物語について、
私はずっと疑問を抱いていました。
「空腹を覚えたイエスさまは、
なぜいちじくの木を枯らしたのだろうか?」と。
マタイ福音書の前半に記されていた物語を思い出してみてください。
荒れ野で40日もの間、断食をして、空腹を覚えていたとき、
「石をパンに変えれば良いじゃないか?」と誘惑を受けても、
イエスさまはその誘いには応じなかったではありませんか。
イエスさまは、自分自身を満足させるために
奇跡を行うことはありませんでした。
それなのに、空腹を覚えていたこの時、
なぜイエスさまは、いちじくの木を枯らしたのでしょうか?
まるで、きょうのこの物語は、
お腹が空いている時に見つけたいちじくの木に、
実がなっていないことを知って、不機嫌になって、
イエスさまがいちじくの木を枯らしてしまったかのように見えます。
イエスさまがエルサレムを訪れた時期は、
毎年3月末から4月頃に行われる、
過越祭と呼ばれる、ユダヤのお祭りの時期でした。
いちじくの木に実がなるのは、夏の初めと秋の2回ですから、
本来、いちじくが実る季節ではありません。
それなのに、いちじくの木は葉をつけて、
いかにも実があるように見えました。
ということは、外見は、実があるように見えるのに、
実際は実がないことに、イエスさまは怒りを覚えたのでしょうか?
いずれにせよ、イエスさまの行動は、
自分勝手な理由のように思えてきます。
果たして、そのような自分勝手な理由で、
イエスさまはいちじくの木を枯らしてしまったのでしょうか?
また、もしもそうでないのならば、
一体、なぜイエスさまはこのような行動を取ったのでしょうか?
この物語を理解するためには、「いちじくの木」が、
旧約聖書においてどのように用いられているのかを
知る必要があるでしょう。
いちじくの木は、預言者たちが預言を語る際、
象徴的な表現として用いられました。
さきほど朗読されたエレミヤ書において、
預言者エレミヤはこのように語っています。
わたしは彼らを集めようとしたがと
主は言われる。
ぶどうの木にぶどうはなく
いちじくの木にいちじくはない。
葉はしおれ、わたしが与えたものは
彼らから失われていた。(エレミヤ 8:13)
ここで、葉がしおれ、すべてを失われていく
ぶどうやいちじくの木は、不信仰なイスラエルを象徴しています。
イスラエルの民は、神によって選ばれ、信仰を与えられ、
恵みと憐れみに満ちた約束さえも与えられていました。
それにも関わらず、実を結ばない、いちじくの木のように、
イスラエルは実を結ばないでいました。
イエスさまは、この時のエレミヤの言葉を思い起こしながら、
いちじくの木を枯らしたのです。
「預言者エレミヤの時代、
イスラエルの民が実を結ばなかったように、
ユダヤの人々が実を結んでいないように見える」と、
イエスさまはユダヤの人々を批判しているのです。
「彼らは立派に見える。
でも、実際のところは、エルサレムの神殿を祈りの家ではなく、
強盗の巣にしてしまっているではないか?
憐れみをもって生きていないではないか?
あぁ、見せかけばかりで、実際は実を結ばない信仰を持っている、
エルサレムの都は、この枯れ果ていくいちじくの木のようだ」。
イエスさまは嘆きをもって、
目の前のいちじくの木を枯らしたのです。
でも、弟子たちはイエスさまの行動を
正しく理解出来ませんでした。
弟子たちは、目の前の木がすぐさま枯れていく様子に驚き、
そのことにばかり目を奪われていました。
だから、彼らはイエスさまに尋ねているのです
「なぜ、この木はたちまち枯れてしまったのですか」と。
イエスさまの心の内を知ろうとはせず、
ただただ「木をただちに枯らすことが出来た」
イエスさまの持つ力にばかり、弟子たちは心奪われていたのです。
このように、理解の乏しい弟子たちに
イエスさまは寄り添いながら答え始めます。
はっきり言っておく。
あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、
いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、
この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、
そのとおりになる。
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。
(マタイ21:21-22)
なぜ自分が木をただちに枯らすことが出来たのかについて、
イエスさまは語り始めます。
「それは、信仰をもち、神の力を疑わずにいるからだ」と。
弟子たちが驚き、目を見開いているこの出来事は、
神の力によるものです。
まさに、神への信頼があるところにこそ、
実が生じることをイエスさまは伝えているのです。
外見は立派であるにも関わらず、
実は、何も実りをもたらさない、
このいちじくの木のような者であってはならない。
神を信頼しなさい。
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られるのだ」と
イエスさまは弟子たちを招いているのです。
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる(マタイ21:22)
何と力強く、励ましを受ける言葉でしょうか。
でも、勘違いをしてはいけません。
「私たちが神に祈るならば、
私たちの願いがすべて実現するのだ」というような、
盲目的な信仰を持つようにと、
イエスさまは勧めているのではありません。
私たちが祈る上で、何よりも大切なことは、
イエスさまがゲツセマネの園で祈られたように、
「しかし、わたしの願いどおりではなく、
神よ、あなたの御心のままに」(マタイ26:39 参照)
という思いをもって神に祈ることです。
神の計画の中ですべてが行われ、
神が良しとされることが実現することこそが、
私たちにとって最も良い道です。
私たちに良きものを与えようと、
私たちのために偉大な計画を持っておられる神に、
絶大な信頼を置く信仰を持つことは、幸いなことです。
そのような信仰は、祈りを生み出します。
そして、神に心を向けるその祈りが、
私たちの行いや生活、そして私たちの生き方を変えていくのです。
神の御心のままに生き、神の導くの中で生きる。
そこにこそ、私たちは豊かな実を見出すことが出来るのです。
ところで、イエスさまは、「この山に向かい、
『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、
そのとおりになる」とも言われました。
もちろん、文字通りの「山」を意味して
イエスさまはこのように語ったわけではありません。
乗り越えられない困難、大きな壁。
苦しみ、悲しみといったものを含めて、
イエスさまは「山」と言っているのです。
私たちが自分の力では到底動かすことの出来ないもの。
自分の力では、決して乗り越えられないもの。
まさに、私たちが心の底から動かしたいものです。
でも、私たちの力では決して立ち向かうことが出来ない。
そのような「山」を動かしてほしいと祈るならば、
神は手を伸ばし、私たちに道を示してくださる。
慰めを与え、平和を与えてくださる。
神が願うならば、山は動くからです。
勘違いしてはいけないのは、
それは、決して、私たちの信仰の力ではありません。
神が、私たちの都合に合わせて、
動いてくださった結果というわけでもありません。
それは、私たちが心から信頼し、依り頼む、
私たちを憐れんでくださる主である神が、
私たちに向かって伸ばしてくださる救いの手の業なのです。
神は、私たちを愛し、養い、その歩みを導くために、
時には山さえも動かしてくださるのです。
それは、私たちが自分の信仰や祈りを誇るためではありません。
祈りによって与えられた結果を誇るためでもありません。
使徒パウロはこのように語っているではありませんか。
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。(Ⅰコリ13:2)
私たちが自分の力では到底動かすことの出来ないもの。
自分の力では、決して乗り越えられないものを
神が私たちの祈りを聞き入れて、動かしてくださるのは、
神が私たちを愛しておられることを
私たちが知るために他なりません。
たとえ、祈りがどれほど聞き入れられようとも、
そこに愛を見いだせなければ、神の前では無に等しいのです。
愛する皆さん、私たちは神を信頼し、神を信じているように祈り、
祈るように生きて行くようにと、招かれています。
どうか、神があなた方に与えた信仰が、
イエス・キリストの父なる神に対する深い信頼が、
あなた方の間に祈りを生み出しますように。
そして、あなた方のその祈りが、あなた方自身の生活となりますように。
その祈りを通して、神から注がれる愛と憐れみがますます豊かに溢れ、
あなた方の日々の生活の内に、満ち溢れて行きますように。