「縦の関係、横の関係」
聖書 レビ記 19:11-18、ガラテヤの信徒への手紙 5:2-12
2018年 8月 12日 礼拝、小岩教会
説教者 満山浩之(藤沢ナザレン教会、牧師)
パウロはここで確信を得て、断言をしています。
このパウロは、かつては律法主義者と言われる、
律法を行なってこそ、神の目に正しいと認められるために、
全身全霊を掛けて律法に生きていました。
しかし律法では、神の目に正しいと認められることはできず、
むしろ、律法にとらわれすぎてしまって重荷でしかない、
そういうことを身をもって経験したパウロが語り断言するのです。
誰でも、誰からか聞いた話ではなく、
身をもって経験したことは力強く、説得力があり、断言できますよね。
なぜなら、自分の身に起こった出来事なのですから。
パウロも以前は、多くのユダヤ人と同じ考えや行動をしていたこともあり、
そのパウロ自身が、「律法に従っていくことは間違いだった。
だから、皆もわたしの話を聞いて下さい。」って、断言しているのです。
その内容はこうです。
「もしあなたがたが、割礼を受けるならば、
律法全体を受け入れなければならない。」と言っているのです。
例えば、もし日本に帰化したい外国人がいたとします。
その外国人が、帰化を願っている国、
つまり日本のあらゆる規則、法律、習慣に注意深く従っていく。
彼は途中で止めるわけにはいかないですし、
出来る限り日本のあらゆる規則や法律、習慣を行なう義務があるのです。
何か一つを守って、他は守らない、従わない、ってなったら帰化できないわけです。
そこでパウロは、もし誰かが割礼を受けるなら、
その人は割礼が引き出されてくる源の律法全体に全て従い、
服従すべきだ、と言っているのです。
そしてその道、つまり割礼を受ける、という道に進むとなれば、
自動的にイエス・キリストによって罪の中から救われた、という、
恵みの道に背くことになってしまい、その人に関する限り、
イエス・キリストは無意味なものになっているのです。
パウロにとって、何よりも重要であったのは、愛によって働く信仰であったのです。
言い換えるならば、キリスト教の本当の意味、というのは、
律法のように決まり事を全て守らなければならない、ということではなく、
イエス・キリストとの人格的な関係であって、
イエス・キリストに身も心も魂もささげるほどに、
主なる神を愛し崇めていくという精神のある行いであるのです。
クリスチャンの信仰とは、書き物の上に築かれるものではなくて、
人格の上に築かれるものなのです。
つまり、律法に従い尽くす、ということではなくて、
イエス・キリストに心から向かう愛によるものなのです。
この手紙はパウロによって、ガラテヤ地方の人々に書かれたものです。
なぜ、このような手紙を書いたのか。
それは、クリスチャンになったユダヤ人の中から、
「異邦人、つまり当時のユダヤ人以外の人たちはイエス・キリストを信じているだけで
は救われず、割礼を受けて、
旧約聖書に出てくるモーセの律法を守らなければならない」
と主張する者たちが現れてきたからです。
このようなユダヤ人たちが、これまでパウロが宣教をしてきた至る所で、
教会を混乱させ、このガラテヤ地方の教会にも忍び込んで来たのです。
このことは、今の私たちにもあり得ることです。
この教会に新しく来た人がいたとします。
その人が急に、「私たちはイエス・キリストを救い主だと信じているだけでは、
救われないのです」って主張しだしたら、どうでしょうか。
「他のこの規則を守らなければ救われないのです。わーわーわー」って。
このユダヤ人たちと同じです。
このような異端者は、クリスチャンを迷わせるだけでなく、
パウロが使徒であることも、パウロの宣べ伝えたことも否定したのです。
そのことを知ったパウロは、すぐにこの手紙を書いたのです。
このときは別の地方に宣教をしていて、戻ることが出来なかったからです。
そしてパウロは、自分が神の選びによるキリストの使徒であると明らかにし、
自分が宣べ伝えた福音こそが、神の唯一の福音であることを論じたのです。
そして、律法主義者などに逆戻りしようとしていたガラテヤのクリスチャンたちに、
神の救いのご計画を旧約聖書に基づいて明らかにし、
神の恵みの中に留まるように訴えたのです。
その上で、聖霊によって、
互いに愛し合ってキリストの掟を完成するようにと、勧めているのです。
かつてのガラテヤの人々は、これを理解していたのに、
今は律法に引き返そうとしていたのです。
そこでパウロは9節で「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」
と述べています。
これはユダヤ人にとって、パン種という言葉は、
たいていは悪い影響力を意味していました。
パウロが言おうとしていることはこうです。
「この律法に従って行くという運動は、これ以上は進展しないかもしれない。
けれども、それがあなたがたの信仰全体を汚し、
破滅させる前に、根っこから切り捨てなさい。」と。
最後にパウロはこの地方に伝わっている宗教を例にして、
ガラテヤの人々に警告をしています。
その宗教とは、キュベレーという神を崇拝している宗教です。
このキュベレーの神を崇拝している者は、
去勢という男性器機能を除去し、
それによって自分の身に障害を負わせるという習慣があったのです。
そこで、パウロはこう述べています。
「もし、あなたがたが割礼を第一歩とするこの道を歩み続けるならば、
あなたがたは、結局、異教の崇拝者たちと同じように、
自分を去勢することになってしまうだろう」と。
パウロはここで、この地方の人々にわかりやすい具体例を出しながら、
説得をしていきました。
これが全く別の地方に伝わる、
聞いたこともないような宗教の話を持ち出されても、
ガラテヤの人々はピンと来なかったでしょう。
パウロは、このように現地の人々にわかるように、例えを用いて語るのでした。
わたしもパウロから見習う必要がありますね。
日本の人には日本の人にわかるように。
小岩の人には小岩の人に、子どもには子どもにわかるように、
御言葉を伝えていく努力をすることは必要ですね。
そこで今日の一番のポイントは、6節です。
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は関係なく、
愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」という箇所です。
律法がどうとか、割礼がどうとか、そういうことではないのだ、ってことです。
イエス・キリストと結ばれて、愛の実践を伴う信仰、
つまり、愛を実際に行ないによって表して行くことが大切なのだ、ということなのです。
それでは、この愛の実践とは一体どういうことなのか。
私たちのキリスト教会のシンボルと言えば、「十字架」ですよね。
その十字架を用いてお話して参ります。
この十字架の縦のラインを見て下さい。
この縦のラインは、神と人との関係を表しているのです。
これが縦の関係です。
そして、横のラインを見てみましょう。
この横のラインは、人と人との関係を表しているのです。
これが横の関係です。
まず私たちは、縦の関係をしっかりと築く必要があるのです。
つまり、神との関係を自分自身がまず一番に大切にし、
しっかりと築いて行かないと横の関係も良くはならないのです。
神との関係というのは、イエス・キリストが福音書で、こうおっしゃっています。
『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。』
これを実践していく信仰が大切なのです。
神が私たち一人一人を愛している。
どのように。
神の独り子さえも惜しむことなく、犠牲の為に差し出して下さり、
罪の中から救って下さるほどに、私たち一人一人を愛して下さっているのです。
そのことを心から素直に受け止めて、
まずは自分自身の心を、神の愛で満たして下さい。
神はあなたの心を必ず、愛で満たして下さいます。
どんなに心にぽっかり開いてしまった穴でも、
どんなものでも埋められなかったその心の穴でも、
神の愛は満たして下さいます。
あなたを愛しているのですから。
そして、イエス・キリストがおっしゃっていた、
福音書に記されている言葉の続きは、
『第二も、これと同じように重要である。
「隣人を自分のように愛しなさい。」』 ということです。
神の溢れ出てくる愛で心が満たされたら、
その溢れた神の愛で、隣人を愛して下さい。
隣人とは、近所の人かもしれません。
職場の同僚かもしれません。家族かもしれません。
地域の集まりの人々かもしれません。
同じ電車の中にいる人々かもしれません。
とにかく、自分以外の皆です。
この世に生きている人々は、みんな隣人になり得る人たちです。
その隣人が、苦手な人かもしれません。
もしかしたら、嫌われている人かもしれません。
しかし、神はその隣人も愛して下さっているのです。
その人はそのことを知らないだけです。
ですから、私たちはどんな人にも愛を持って、愛を実践していくことが大切なのです。
これからも、まずは縦の関係、つまり、神と自分自身の関係をもう一度見直し、
その関係を強くし、イエス・キリストがいて下さったからこそ、
神とつながることが出来ているのだ、と常に感謝をしましょう。
そして、その縦の関係を強めてから、横の関係、
つまり、人々との関係を神の愛を持って、接して参りましょう。
そこには必ず、平和が訪れます。
笑顔で溢れてきます。
十字架という、キリスト教会のシンボル。
縦の神と私たち一人一人の関係、
横の人と人との関係をこれからも築いて参りましょう。
そうすれば必ず、この世に平和をもたらすでしょう。