「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」
聖書 イザヤ書 43:6-20、マタイによる福音書 21:28-32
2018年 8月 19日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
このたとえ話がイエスさまの口から語られた時、
その場にいた人々は、なぜイエスさまがこのようなことを語るのか
よくわからなかったと思います。
というのも、イエスさまはこの時、
あまりにも当然のことを語っているように思えるからです。
確かに、口では「言われたとおりにします」と言いながら、
実際は、約束を踏みにじって、自分の好き勝手生きる人よりも、
「いやだ、いやだ」と言いながらも、
するべきことを忠実に行う人の方が好ましいものです。
たとえの中に登場するふたりの息子たちのうち、
父親の望み通りに行なっているのは、明らかに、
口では「いやだ」と言いながらも、
父親の望み通りに行動した、兄の方です。
ですから、「この二人のうち、
どちらが父親の望みどおりにしたか」という質問に、
「兄の方こそが、父親の望み通りにした」とある人が答えると、
誰もがその答えに同意し、首を縦に振ったことでしょう。
でも、続けて語られたイエスさまの言葉には、
誰もが驚きを覚えたと思います。
イエスさまはこのように言いました。
徴税人や娼婦たちの方が、
あなたたちより先に神の国に入るだろう。(マタイ21:31)
このとき、イエスさまのたとえ話を聞いていたのは、
マタイ福音書のこれまでの話の流れから考えるならば、
祭司長たちや民の長老たち、イエスさまの弟子たちと、
その他大勢の群衆でした。
その中でも、このたとえ話を通して、
イエスさまから直接語りかけられていたのは、
祭司長たちや長老たちです。
彼らはユダヤの国の議会のメンバーでもある、重要な人々でした。
そして、宗教的な指導者でもあったため、
彼らは、自分たちこそ正しい立場に立っていると考えていました。
そのような人々を前にして、この時、
イエスはこのように語り始めたのです。
「徴税人や娼婦たちの方が、
あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。
つまり、このたとえ話において、
父親の願いを「いやだ」と断りながらも、
最終的には、思い直して、父親の言葉に従った兄こそ、
徴税人や娼婦たちの姿なのだと、イエスさまは答えているのです。
そして、口では「はい」と答えながら、
父親の言葉に背いた弟の方は、祭司長たちや長老たちの姿であると、
イエスさまはたとえによって示しているのです。
言い換えるならば、徴税人や娼婦たちこそ、神に従う人々で、
ユダヤの国の指導者である祭司長や長老たちは、
口では立派なことを言うけれども、
実際は神に背く歩みをしていると、イエスさまは告げているのです。
何と思い切ったことをイエスさまは言うのでしょうか。
ユダヤの人々にとって、徴税人や娼婦たちは、
「罪人」の代表ともいえる人々でした。
特に、ユダヤの国の指導者である祭司長や長老たちにとって、
徴税人や娼婦は、決して正しい人ではありませんでした。
徴税人たちは、ローマに納める税金を
仲間のユダヤの人々から集めていたため、
異教の権力に奉仕する、異教徒の仲間とみなされていました。
また、娼婦は、誰の目から見ても、
わかりやすい不道徳の象徴でした。
彼らがどのような事情で、
徴税人や娼婦をしているなど、誰も見向きもしません。
徴税人や娼婦であれば、誰もが罪人なのです。
彼らは、正しい行いをしているというわけではありません。
でも、それにも関わらず、イエスさまは、
「徴税人や娼婦たちの方が、
祭司長や長老たちより先に神の国に入る」と宣言されたのです。
正しくない人々が、罪人が、神の国へと先に招かれていることに、
誰もが驚いたでしょう。
いや、自分たちこそ正しいと思っていた祭司長や長老たちは、
怒りさえ覚えたかもしれません。
自分たちが、神の思いに背く歩みをしているはずがない。
徴税人や娼婦たちこそ、神に思いに背く、
このたとえ話でいう、弟の立場だと思っていました。
それなのに、なぜ、罪人である徴税人や娼婦たちが
先に神の国に招かれるというのでしょうか。
イエスさまは、その理由についてこのように語りました。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、
あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。
あなたたちはそれを見ても、
後で考え直して彼を信じようとしなかった。(マタイ21:32)
徴税人や娼婦たち、罪人と呼ばれる人々が、
先に神の国に招かれている理由は、
彼らが洗礼者ヨハネの語った言葉を信頼したからでした。
では、ヨハネは、人々に何を語っていたのでしょうか?
ヨハネは、「わたしの後から来る方は、
わたしよりも優れておられる」と言って(マタイ3:11)、
救い主としてイエスさまが来ることを人々に示していました。
そして、「悔い改めよ。
天の国は近づいた」(マタイ3:2)と言って、
心を新たにして、神と共に歩み始めるようにと、
人々に向かって叫び続けました。
ですから、ヨハネの言葉を受け入れることは、
ヨハネが指し示した方を、
神が与えた救い主として受け入れることを意味していました。
祭司長や長老たちは、ヨハネの言葉を信頼せず、
罪人と呼ばれる人々は、ヨハネの言葉を信頼しました。
祭司長や長老たちは、イエスさまを拒み、
罪人と呼ばれ苦しむ人々こそ、イエスさまを喜んで受け入れました。
だから、徴税人や娼婦といった、罪人と呼ばれる人々の方が、
天の国に先に入ると、イエスさまによって宣言されたのです。
徴税人や娼婦たちこそ、自分たちの掲げる正しさに固執せず、
イエスさまによって示された、天の国を
喜んで受け入れたいと願っていたのです。
ところで、イエスさまはこの時、「先に」と語ることによって、
他の人々が後にも続く希望があることを示しています。
神の願いに背き続ける人がいる。
自分の正しさに固執し、イエスさまを通して示された
新しい道を歩むことが出来ない人がいる。
でも、神の招きは、一度限りで終わるものではないのです。
神は、すべての人を招き続けています。
神の招きは、決して終わりません。
ですから、このたとえ話において、
父親が子どもたちに語った言葉は、
私たちがいつも神から与えられている招きだと言えるでしょう。
正しいから、神に従い続けているから、招かれているのではありません。
罪人だから、招かれないのではありません。
私たち人間は、誰もが、神の前で等しく罪深い人間です。
誰もが、神に心から従い切れない弱さを抱えています。
しかし、それにも関わらず、神は私たちを愛し、
私たちを招き続けてくださっているのです。
ふさわしくないにも関わらず、神はすべての人を、私たち一人ひとりを、
このように招いておられるのです。
子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい。(マタイ21:28)
ぶどう園での仕事は、数多くあります。
地面を耕して、水はけの良い状態に保つこと。
石や雑草を取り除くこと。
獣の侵入を防ぐための垣根をつくること。
枝の手入れや刈り込み。
ぶどうを収穫し、ぶどう酒をつくることなど。
時期に応じて、様々な働きがあります。
ですから、私たち自身が、
「これこそぶどう園での仕事だ」と思っているものだけが、
ぶどう園でするべき働きではないのでしょう。
宗教指導者たちが、祭司長や長老たちが、
自分の正しさを信じて疑わなかったように、
いつの間にか、神にとって不必要な働きを担い、
神が忌み嫌われる行いをしている場合だってあるかもしれません。
大切なのは、私たちは「今日」という日に、
神からの招きを受けて生かされているということです。
昨日するべきことと、今日するべきことが同じというわけではありません。
私たちは、いつも、神から今日するようにと招かれていることを
ぶどう園での働きとして行うように招かれているのです。
さて、それでは、今日、私たちが行うべき働きとは、
一体どのようなことなのでしょうか。
そして、私たちにとって、ぶどう園とはどこなのでしょうか。
私たちはいつも神に尋ね求めて、神に従いたいと思わされます。
私たちにとってのぶどう園は、教会や、礼拝の中のみと、
その働きを狭く考えるのは間違っています。
私たちにとってのぶどう園とは、この世界のことです。
私たちはこの世界において、
「今日、行って、働け」と招かれているのです。
それは、お金を稼ぐことだけではありません。
私たちが神のために行うあらゆることが、ぶどう園での働きなのです。
私たちが、隣人を愛するために行うあらゆることが、
ぶどう園での働きです。
勉強も、仕事も、家事も、子育ても、人付き合いも、
スポーツも、趣味も、何もかも、
私たちは、ぶどう園での働きとして行うように招かれています。
それは、やがて、大きな実を収穫するための働きです。
簡単に想像することが出来ないかもしれませんが、
私たちの日々の歩みが、ぶどう園での働きであるのならば、
それは、神に向かって最上の収穫物を捧げるものとなるのです。
豊かな実を結んでいくのです。
ですから、神が行けと言われる、ぶどう園で働くために、
私たちは出て行きましょう。
そこに、あなただからこそ出来ることがあります。
そして、そこに、あなただからこそ神から委ねられている仕事があります