「神の国は誰のもの?」

「神の国は誰のもの?」

聖書 イザヤ書  5:1-7、マタイによる福音書  21:33-46

2018年 8月 26日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

ユダヤの人々が住んでいる、パレスチナの地は、

イエスさまが生きた時代よりも1500年以上も前から、

ぶどうの栽培がなされていました。

そのため、その地で暮らす多くの人々にとって、

ぶどうの木やぶどう園についてのたとえ話は、

自分たちの日常を描く話だといえました。

そして、旧約聖書の時代、預言者たちは

ぶどうの木やぶどう園をたとえに用いて、神の言葉を語りました。

このような理由から、イエスさまが語ったぶどう園のたとえ話は、

このたとえを聞いていたユダヤの人々にとって、

語られている内容を頭の中で描きやすく、

とても理解しやすいものだったと思います。

このたとえ話に登場する、ぶどう園で雇われた農夫たちには、

ぶどう園の主人から多くのものが与えられていました。

ぶどう園の主人は、彼らが働く場所を備えた上で、

彼らにぶどう園を貸し出し、そこで働かせました。

ぶどうをつくるために、

土地だけが用意されていたわけではありません。

主人の手によって、ぶどう園はすでに造られていました。

ぶどう園を野獣から守る垣根も、既に張られていました。

ぶどう酒をつくるための絞り場も、そこに備えられていましたし、

盗人や獣からぶどうを守るための見張り台も建てられていました。

このように、ぶどう園での仕事が与えられただけでなく、

そこで働くために必要なものは備えられていました。

そして、彼らは主人から信頼され、ぶどう園を任され、

ぶどう園での働きには自由が与えられていました。

このように、農夫たちに対して、

とても気前の良いぶどう園の主人の姿が

聞いている人々の心に刻まれたことでしょう。

でも、その一方で、このたとえ話はとても物騒な内容です。

ぶどうの収穫の時期が近づいた時、

主人がぶどう園での収穫を受け取るために、

ぶどう園で働く農夫たちのもとにしもべたちを遣わしましたが、

農夫たちは、主人のしもべたちを殺してしまうのです。

その上、最終的に、この農夫たちは、

ぶどう園の主人の財産を自分たちのものにするために、

主人の息子の命まで奪ってしまうのです。

農夫たちは与えられているもので満足できず、

このぶどう園を自分たちのものにし、

主人のもつ財産を最終的には自分のものにしようと企み、

その計画を実行に移したのです。

このたとえ話は、その場で聞いている人たちにとって、

とてもショッキングな内容だったと思います。

でも、それと同時に、イエスさまがこのたとえ話を通して、

何を伝えようとしているかを理解出来てしまったある人たちにとっては、

この話はとても耳障りで、腹立たしいものでした。

イエスさまのたとえ話を聞いて、

この時、不愉快な思いを抱いたのは、

当時のユダヤの宗教的指導者であった、

祭司長やファリサイ派の人々でした。

彼ら、祭司長たちやファリサイ派の人々にとって、

イエスさまのたとえはなぜ怒りを覚えるものだったのでしょうか?

それは、このぶどう園のたとえ話を通して、

イエスさまが自分たちを批判していることに

彼らが気づいたからです。

イエスさまにとって、このたとえ話に登場する農夫たちは、

祭司長や長老、そしてファリサイ派といった、

ユダヤの国の宗教的指導者たちを意味していました。

このたとえ話に登場する、主人から与えられているものを忘れ、

私利私欲にまみれたこの農夫たちは、

あなた方の姿なのだとイエスさまはたとえを通して、

祭司長やファリサイ派の人々に告げたのです。

誰の目から見ても悪い農夫たちと、

自分たちとが同一視されているのですから、

確かに、このたとえ話は、祭司長やファリサイ派の人々にとって、

聞いていて心地の良いものではありませんでした。

でも、このたとえは明らかに、彼らの現実を映し出していました。

農夫たちがぶどう園の主人の息子を殺し、拒絶したように、

祭司長やファリサイ派の人々は、

神が遣わしたひとり子であるイエスさまを拒絶しているのですから。

神が遣わした者を拒絶することは、

祭司長やファリサイ派だけでなく、

旧約聖書の時代から、彼らの先祖たちであるイスラエルの民が、

何度も何度も繰り返し行なってきたことでした。

彼らは、神が遣わした預言者たちを拒絶することを通して、

神を拒絶しました。

そうです、彼らは神が遣わした人々を拒絶し続け、

最終的には神の子である方を否定し、殺し、

自分自身が神のようになろうとしていると、

イエスさまはたとえを通して指摘しているのです。

ですから、そんな彼らに向かって、

イエスさまは、このような厳しい言葉を語られました。

 

神の国はあなたたちから取り上げられ、

それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。(マタイ21:43)

 

神に選ばれた民であることを誇りに思い、

自分たちこそ、まさに神の国にふさわしい存在だと考えていたのが、

祭司長たちやファリサイ派たちといった、

ユダヤの国の宗教的指導者たちでした。

しかし、イエスさまは彼らにこのように告げます。

「神の国はあなたたちから取り上げられる」と。

そして、「神の国は、

そこにふさわしい実を結ぶ民族に与えられるのだ」と。

「民族」とは、一体、どのような人々のことを指しているのでしょうか?

ここで「民族」と訳されている単語は、

複数形であれば、通常「異邦人」を指しますが、

ここでは単数形で記されています。

神の国はあなたたち、つまりユダヤ人から

取り上げられると語られているのに、

異邦人に与えられるという意味で語られていないのは、

一体どういうことなのでしょうか?

ここで「民族」と訳されている言葉は、単数形で記され、

ユダヤ人も、異邦人も意味しません。

つまり、神が「新しい民」を作り出してくださるのです。

それは、教会と呼ばれる、神の民です。

つまり、「神の国は誰のものか?」と問いかける時、

イエスさまはこのように答えているのです。

「それは、ユダヤ人のものでも、異邦人のものでもない」と。

聖書の歴史を見つめ、その歴史を思い起こすならば、

私たちは、イスラエルの民、そしてユダヤの人々が、

神から約束を与えられていたことに気づく一方で、

彼らが、神の約束や預言者たち、

そして神の御子であるイエスさまを拒否したことに気づきます。

同時に、異邦人ははじめからそれらのものを拒否していました。

ですから、神の国は誰のものであるかと問いかける時、

ユダヤ人であるか、異邦人であるかなど関係がないのです。

神の国は、イエスさまを通して、この世界に近づいたと宣言されました。

ですから、神の国は、イエスさまを通してのみ与えられるものなのです。

そして、神の国は、イエスさまを通して、

神が選び、神が愛した人々のものなのです。

使徒パウロも、同じ確信を抱いて、

ガラテヤの教会の人々に向かって、このように語っています。

 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、

奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。

あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

(ガラテヤ3:28)

 

神の国は、誰のものなのでしょうか?

ユダヤ人もギリシア人もなく、日本人も中国人も韓国人もなく、

アメリカ人もロシア人もイギリス人もドイツ人もありません。

ブラジル人もアフリカ人もインドネシア人もありません。

奴隷も自由の身分も、貧しい者も富んでいる者もありません。

男も女もありません。

私たち人間が自分の都合で引く境界線や、

身勝手な価値判断で築く壁に基づいて、

「神の国は、この人たちのもの」と宣言されるのでもありません。

何よりも、思い起こすべきことは、

神の国の相続者は、イエス・キリストであるということです。

ですから、そもそも、神の国は私たちのものではありません。

神の国は、キリストのものです。

しかし、イエス・キリストを通して、

神を拒絶し続ける私たちを、すべての人々を、

神は憐れみ、愛を注いでくださいました。

神の愛と憐れみゆえに、神は、イエスさまを通して、

私たちを神の国の相続者としてくださっているのです。

さぁ、神の国は誰のものなのでしょうか?

本来、私たちのものでないのにも関わらず、

驚くべきことに、神の国は、私たちに与えられています。

神の国は、完全に、神の恵みとして、私たちのもとにやって来るのです。

それは、決して、私たちに与えられている特権ではありません。

自分たちに与えられている特権だと勘違いをしてはいけないから、

イエスさまは、誇り高ぶるユダヤの宗教的指導者たちから

神の国を取り上げられたのです。

そうすることによって、イエスさまは、

神から与えられる恵みとして神の国を受け取り直す機会を

彼らに、すべての人に与えられたのです。

愛する皆さん。

このように、私たちの神は、私たちを愛することを諦めないお方です。

私たちが何度も何度も神を拒絶しようとも、

神は私たちを愛し続けてくださいます。

それゆえに、神の憐れみゆえに、あなた方には、

今、神の国が与えられているのです。

それは、驚くほどの恵みです。

どうか、喜びと感謝をもって、

神の国を日々見つめながら歩むことが出来ますように。