「生きている者の神」
聖書 出エジプト記 3:4-12、マタイによる福音書 22:23-33
2018年 9月 16日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
ファリサイ派の人々がイエスさまに論争を仕掛け、失敗したその直後に、
サドカイ派と呼ばれる人々が、イエスさまのもとに近寄って来ました。
マタイは、サドカイ派の人々について、
彼らは「復活はないと言っている」と紹介しています。
このような彼らの考えは、
何だか、とても現代に生きる私たちに近いものを感じます。
「死んだ者がよみがえるなど、馬鹿げている。
死んだらそれで終わりなのだ。
その先などあるわけがない。
だから、命があり、生きている、「今」という時こそが大切なのだ」。
まさにサドカイ派の人々はそのように考えていました。
彼らのこの主張は、経験的に与えられた考えではなく、
旧約聖書に基づいたものでした。
ただし、彼らは旧約聖書の最初の5つの書物のみを
聖なる書物として受け取り、その5つの書物にのみ権威を認めていため、
たとえば、ダニエル書に「多くの者が
地の塵の中の眠りから目覚める」(ダニエル12:2)と
明確に記されているような、
死者の復活を彼らは信じていませんでした。
サドカイ派の人々にとって、復活などあり得ない話なのです。
ですから、彼らはイエスさまに論争を仕掛ける際、
復活がどれほど馬鹿げたものであるかを
人々の前で明らかにしようとするのです。
サドカイ派の人々の質問は、このようなものでした。
「先生、ご存知のように、
神が私たちに与えてくださった律法によって、
レビラート婚という制度が私たちに与えられています。
ある人が子どもをもたずに死んでしまった場合、
その兄弟や親族が、その人の妻と結婚して、
跡継ぎとして子どもを残すという制度です。
ところで、この制度と死者の復活の関係について、
あなたはどのように考えますか?
たとえば、7人兄弟の長男がこどもをもたずに死んでしまい、
レビラート婚の制度に従って、次男が長男の妻と結婚します。
でも、次男にも子どもが生まれないまま、次男は死んでしまう。
その上、三男以降も同じように、子どもが生まれないまま死に、
最終的に長男の妻も死んでしまいました。
もしもあなたが信じている死者の復活が真実だとするのならば、
一体、この女性は誰の妻といえるのでしょうか?」
サドカイ派の人々の質問は、いくつかの問題点を含んでいました。
確かに、サドカイ派の人々が言うように、
復活の時、この女性は、誰を夫とすべきか悩むことでしょう。
しかし、それは、復活の時、つまり来るべき新しい時代に、
今のこの時代の現実のすべてがそっくりそのまま引き継がれる
と考えたために、陥ってしまった考えでした。
ですから、イエスさまはサドカイ派の人々にこのように答えました。
あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。(マタイ22:29-30)
どうやら、復活の時に、私たちは天使のようになるようです。
もちろんそれは、私たちが美術作品を通してイメージする
天使の姿とは違うと思います。
どのような姿へと変えられるかはわかりませんが、復活の時には、
新しい時代に相応しい存在へと私たちは変えられるのです。
それと同じように、この地上での制度が
そのまま新しい天と新しい地において引き継がれるわけではありません。
ですから、復活のときには、めとることも嫁ぐこともないのです。
そのため、復活の時と、今の時の時代に違いがあることを考慮しないで、
復活など馬鹿げていると語るサドカイ派の人々に対して、
イエスさまは「あなたがたは思い違いをしている」と語ったのです。
そして、何よりも、サドカイ派の人々の決定的な思い違いとは、
「聖書も神の力も知らない」ということにありました。
イエスさまはこの時、
サドカイ派の人々が聖なる書物として受け止めている、
旧約聖書の最初の5つの書物のうちのひとつである、
出エジプト記から引用して、このように語りました。
死者の復活については、
神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
『わたしはアブラハムの神、
イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
(マタイ22:31-32)
この言葉を通して、イエスさまは彼らが聖書を読み間違え、
神の力さえも過小評価してしまっていると指摘しています。
ただ、ひとつ疑問を覚えることがあります。
「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」とは、
一体どのような意味なのでしょうか?
この言葉だけを切り取るならば、
神は、今、生きている者だけの神であるという、
サドカイ派の人々の姿勢を肯定しているかのようにも思えてきます。
でも、イエスさまは出エジプト記に記されている、
神の言葉を引用して言います。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも既に死んだ者のはずです。
その身体は墓の中に置かれています。
いや、イエスさまの時代には、
既にその骨も枯れ果て、塵になっていたはずです。
それなのに、神は、現在形を用いて、
「今もわたしは彼らの神である」と語っているのです。
「わたしは、既に死んだ者たちの神である」と。
そうであるならば、「神は死んだ者の神ではなく、
生きている者の神なのだ」と語る、イエスさまのこの言葉は、
何だか矛盾しているかのように思えてきます。
でも、決して矛盾ではありません。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、既に死んだ者です。
しかし、そうでありながらも、
彼らは神と共に生きている者だと、イエスさまは語っているのです。
つまり、神が死を打ち破り、彼らを復活させてくださることを信じて、
神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、
「生きている者の神なのだ」とイエスさまは宣言されたのです。
何と力強く、希望に満ちた宣言でしょうか。
私たちは、神の力を過小評価してはなりません。
この世界とそこで生きるすべてのものを造られた神は、
既に死んだ者に対しても、生命の息吹を吹きかけ、
新しい生命を与え、復活させる力を持っています。
そのような意味で、神は、死んだ者の神ではなく、
生きている者の神なのです。
そのような意味が込められている言葉として、
イエスさまの言葉を受け取るならば、
何と励ましを受ける言葉でしょうか。
絶望し、打ちひしがれ、涙を流していたとしても、
苦しみ、叫び、死を迎えたとしても、
神は、私たちを見捨てずに、生命の息吹を吹きかけてくださるのです。
神は、私たちを決して忘れず、私たちの神でいてくださる方なのです。
神がそのような方であることを、
イエスさまが引用した出エジプト記の物語を通して、
私たちは強く実感することが出来るでしょう。
出エジプト記の物語において、「わたしはあなたの父の神である。
アブラハムの神、イサクの神、
ヤコブの神である」(出エジプト記3:6)と自分を紹介した神は、
モーセに何と語りかけたでしょうか?
神は、モーセにこのように語りかけました。
叫ぶ彼らの叫び声を聞き、
その痛みを知った。(出エジプト記3:7)
神がモーセに語りかけたこの時、
エジプトで長い間、イスラエルの民は奴隷状態でした。
神に選ばれ、約束の地を与えられ、祝福を受けていた、
アブラハムやイサク、ヤコブの時代は、
すでに過ぎ去った「過去の栄光」でした。
イスラエルの民の置かれている現実は、
もはや、神に忘れ去られてしまったかのように思える状況でした。
彼らの日常は、苦しみの叫びや絶望の声に満ちていました。
しかし、その叫び声を神は聞いてくださったのです。
イスラエルの民が抱える痛みを神は知ってくださったのです。
そして、その叫び声を聞くばかりでなく、
神はイスラエルのもとに降り、イスラエルの民を救い出しました。
まさに、叫び声が神のもとへと届いたのです。
叫び声を上げる、ご自分の愛する人々を
神は決して見捨てたりはしません。
私たちは、この出エジプト記の物語を通して、
そのことに対する強い確信を持つことができるのです。
そして、モーセを通して、イスラエルの民に約束されたように、
神は私たち一人ひとりに語りかけておられます。
「わたしは必ずあなたと共にいる」と。
叫び声を聞いた時、駆けつけずにはいられないほど、
神は私たちを愛しておられます。
ご自分の独り子であるイエスさまを私たちのもとに送ることを通して、
神は、「わたしがあなたと共にいる。
わたしは、決してあなたを見捨てない」と語りかけてくださっています。
苦しみのときも、嘆きのときも、
死に直面するときでさえも、
神は私たちを見捨てることがありません。
神は、生きている者の神だからです。
死の力さえも打ち破り、
私たち一人ひとりを愛し抜こうとされている方は、
驚くべきことに、私たちの神なのです。
だから、安心して行きなさい。
平安を抱いて、神と共に日々歩んで行くことが出来ますように。