「神への愛と隣人への愛」

「神への愛と隣人への愛」

聖書 ミカ書 6:8、マタイによる福音書 22:34-40

2018年 9月 23日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

旧約聖書の律法には、数多くの戒めが記されています。

どうやら、そこには全部で613の戒めが記されているようです。

そのような数多くある戒めの中で、一体どの命令が重要なのでしょうか。

ある時イエスさまは、このことについて、

律法の専門家から質問を受けました。

しかしこの質問は、神に喜ばれる生き方を何とかして選び続けたいという

純粋な気持ちをこの人が抱いたから出てきた質問ではありませんでした。

マタイによれば、どうやら今回も悪意をもった問いかけだったようです。

「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22:36)。

この問いかけに対して、イエスさまは、

ひとつの戒めのみを挙げることを拒否しています。

そして、ふたつの戒めを挙げ、これらが同じように重要だと答えました。

イエスさまが重要だと語る、そのふたつの戒めとは、

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、

あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)

そして、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)

という戒めでした。

私たちの全存在をかけて、全身全霊で、神を愛することと、

共に生きる人々を自分自身のように愛するということは、

向かう方向が違うように感じます。

しかし、イエスさまにとって、このふたつのことは、

神を愛することと隣人を愛することは、

分かちがたく結びついていました。

それもそのはずです。

私たちは、自分と神との関係だけを生きているわけではありません。

神が造られたこの世界で、

神が造り、愛し、養い続けているすべての人間や

すべての被造物と共に私たちは暮らしています。

もしも、神が愛し、慈しみをもって見つめているものを

私たちが傷つけ、蔑ろにするならば、神は悲しみを覚えるでしょう。

そのような行いは、神への愛を表すこととは決して言えません。

その意味で、神が愛と喜びをもって造られたこの世界を

特に、そこで共に生きる人々を私たちが愛するならば、

神を愛することになるのです。

それはまさに、使徒ヨハネが第一の手紙で書いたとおりです。

ヨハネは教会に向かってこのように語りかけました。

 

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、

それは偽り者です。

目に見える兄弟を愛さない者は、

目に見えない神を愛することができません。

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。

これが、神から受けた掟です。(Ⅰヨハネ4:20-21)

 

ヨハネのこの言葉にイエスさまは心から同意すると思います。

神を愛することと、人を愛することは、

別の領域の話ではないのです。

神への愛は、私たちが隣人を愛することを動機付けます。

そして、共に生きる人々を愛することは、

実は、神を愛することでもあるのです。

ですから、イエスさまは、全存在、全人格をかけて、

神と人を愛するようにと私たちを招いておられるのです。

ところで、聖書における「愛」の語られ方について、

ひとつ疑問を抱くことがあるかもしれません。

そもそも、愛とは果たして命じられるべきものなのでしょうか。

誰かに命令されて、愛を抱くことなど出来るものなのでしょうか。

確かに、もしも「愛」というものが、

私たちの感情のみを意味するのであれば、それは難しいことでしょう。

自分の気持ちを偽って、

誰かを温かく思う気持ちなど持てるわけありませんし、

命じられたからと言って、そのような感情が芽生えるわけもありません。

しかし、聖書において命じられている愛が、

第一に意味していることとは、

決して、感情のことではありません。

私たちが家族や恋人、親しい友人たちに対して抱くような、

温かな気持ちを抱くことではありません。

愛とは、もっと具体的なことです。

預言者ミカの言葉を借りるならば、

「正義を行うこと。

慈しみを愛すること。

へりくだって神と共に歩むこと」です(ミカ6:8参照)。

このような具体的な歩みこそが、イエスさまが命じておられる愛です。

不正を喜ぶのではなく、神の正義がこの地上に実現することを祈り求め、

必要であれば実際に行動に移すこと。

イエスさまが病を抱えた人々を癒やし、

当時の社会で苦しんでいる人々を憐れまれたように、

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことによって、

憐れみをもって生きること。

自分の価値観や正義を振りかざすのではなく、

へりくだって目の前にいる人々と対話を重ねていくこと。

そういった具体的な振る舞いこそ、

イエスさまが私たちに命じておられる「愛」なのです。

そのため、私たちの前には、敵を愛する道さえも拓かれていくのです。

感情的には愛せないかもしれないけれど、

やがて私たちの心に愛情が芽生えることを祈り求めながら、

愛を注ぎ、愛をもって働きかける道が

私たちの前には拓かれているのです。

しかし、そうは言っても、

愛をもって生きていくことはとても難しいことです。

私たちはいつもいつも愛することに失敗をしています。

その場の気分に押し流されることによって、

無関心に振る舞ってしまいます。

一時的な感情の高ぶりによって、

自分をうまくコントロールできません。

神を愛するばかりに、視野が狭くなり、

隣人に対する寛容さを失ってしまうことだってあります。

周りの空気を読みすぎることによって、

愛を示すのに相応しい時期を逃してしまい、後から後悔をします。

そうやって、私たちは何度も何度も愛することに失敗し、

そして、ため息混じりに、言い訳がましく呟いてしまうのです。

「愛するって難しい……」と。

これが私たちの現実なのです。

でも、だからこそ私たちは、

神が、私たちにどのように関わってくださっているのかを

いつも思い起こしたいと思うのです。

神は、この世界を造られ、今も、この世界を治めておられます。

私たち人間をはじめ、すべての被造物を養ってくださっています。

そして、独り子であるイエスさまを通して、

罪の赦しと復活の希望を与えてくださいました。

神が私たちにどのように愛を注いてくださっているかを知り、

その愛を思い起こすことこそ、私たちが愛を知る最善の方法なのです。

もちろん、私たちはイエスさまと同じように生きることは出来ません。

でも、イエスさまが抱いておられた愛を

イエスさまの歩みを通して知ることは出来るでしょう。

イエスさまの歩みを通して、

人々を慈しみ、癒やされた姿を見つめることが出来ます。

イエスさまの言葉を通して、大きな慰めを私たち自身も与えられます。

このように、イエスさまを通して、愛を知り、

その愛に生きるようにと、私たちは招かれています。

その意味で、愛をもって生きる道は、

私たち自身が切り開いた道などとは決して言えません。

それは、神が、イエスさまを通して切り開き、

私たちを招いてくださっている道なのです。

私たち自身の力や努力によっては、

愛をもって生きることなど出来ません。

しかし、神が私たちを招いてくださったから、

私たちは愛をもって生きることが出来るのです。

そして、神と人を愛するこの道を私たちが歩んで行くとき、

誰かを愛するがゆえに、私たち自身が傷つくことだってあるでしょう。

愛することを諦めてしまいたくなることもあるでしょう。

しかし、神が歩ませてくださっている道なのですから、

私たちが傷を負い、助けを必要とする時は、

神が私たちを様々な方法を用いて慰め、

癒やしを与えてくださるに違いありません。

ですから、神の愛と憐れみにあふれる働きに期待し、

希望を抱いて日々歩んで行きましょう。

神と人とを愛する道へと私たちは招かれています。

どうか、愛を追い求めて、日々歩んで行くことが出来ますように。