「杯の内側をきれいにせよ」

「杯の内側をきれいにせよ」

聖書 サムエル記 上 16:1-7、マタイによる福音書 23:13-33

2018年 10月 14日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

「あなた方は不幸だ」と、イエスさまは7回も嘆き、

弟子たちや群衆の前で悲しみを言い表しました。

この時イエスさまから「不幸だ」と語りかけられているのは、

律法学者やファリサイ派の人々のように思えます。

しかし、実際のところ、この時、

イエスさまが向き合い、語りかけていたのは、弟子たちや群衆でした。

ですから、律法学者やファリサイ派の人々を攻撃するために、

イエスさまは「不幸だ」と語り続けたわけではないと言えるでしょう。

律法学者やファリサイ派の人々の抱える問題に触れながら、

イエスさまは、弟子たちや群衆に対して、

彼らが陥る可能性のある問題について警告をし始めたのです。

弟子たちをはじめ、多くの人々が陥る可能性のある問題とは、

一言で言い表すならば、天の国を閉ざすことです(マタイ23:13)。

 

イエスさまが語る天の国とは、「神が支配する領域」のことを言います。

神が支配される場所とは、

教会や神を信じる人々の間だけでは決してありません。

神が支配される場所とは、この世界のすべての領域、あらゆる場所です。

神は、愛と憐れみによって、この世界を支配しようとしておられます。

そして、すべての人々に平和を与え、

神の正義を実現しようとしておられます。

その意味で、「天の国を閉ざす」ことは、

神の愛と憐れみを閉ざし、平和や正義を隠すことと言えるでしょう。

それは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)

と宣言することによって宣教を始めた

イエスさまの思いとは、正反対のことでした。

イエスさまは、天の国を人々から隠したり、

天の国は一部の人だけで独占するものとは考えませんでした。

天の国とは、私たちが「み国が来ますように」と

いつも祈り求めるべきものであり、

すべての人々に開かれているべきものなのです。

しかし、律法学者やファリサイ派の人々の語る教えや彼らの行いは、

天の国を人々の前で閉ざすものとなっていました。

律法学者やファリサイ派の人々は、

神の言葉である、律法の細部に至るまで厳密に守ろうとするあまり、

律法の本質を理解し、律法の中で最も重要な、

正義や憐れみ、誠実をないがしろにした歩みをしていました。

そればかりではなく、時に、彼らの信仰は見せかけのものでした。

確かに、誰の目から見ても、

彼らは素晴らしい信仰を持っているように見えました。

しかしイエスさまに言わせれば、

彼らは、外側はきれいにはするけれども、

内側は強欲と放縦で満ちていたのです。

結局のところ、律法学者やファリサイ派の人々は、

すべての人がそうではなかったけれども、

「ものの見えない案内人」となっていたようです。

つまり、向かうべき目標が正しく見えていないにも関わらず、

人々と導こうとする、信頼の置けない案内人というのが、

律法学者やファリサイ派の人々の現実でした。

もちろんそれは、律法学者やファリサイ派の人々だけが

陥った過ちではありません。

弟子たちをはじめ、私たち自身も陥る可能性のある過ちだから、

イエスさまは、弟子たちや群衆を前にして、

このような警告を語られたのだと思います。

私たち自身も、神の言葉を偏って理解し、偏った教えや思想を

「これが信仰だ」「これこそが信仰者の生き方だ」と言って、

人々に語り、教え込もうとしてしまうことがあります。

単に自分自身が心地良い生き方を信仰的な生き方だと思いこんで、

それを人に教え込んでしまうことは、いつでも起こり得ることです。

細かなことにばかり気をとられて、

神が私たちに語っておられることの本質を見失ってしまう過ちを

私たちは何度も何度も繰り返しています。

時には、信仰深さを人々に見せつけるような

生き方を選ぶ誘惑に晒されることだってあります。

ですから、何もこの問題は、

律法学者やファリサイ派の人々だけの問題ではありません。

イエスさまの弟子たちやその場にいた群衆をはじめ、

新約聖書の時代の人々だけが

イエスさまから警告を受ければそれで良い話ではないのです。

誰もが天の国を閉ざしてしまう生き方を

選び取ってしまう可能性があるのです。

そのような私たちの現実をよくわかっておられるから、

イエスさまは、弟子たちや群衆に警告を語り、

福音書の物語を通して、私たちに勧めておられるのです。

 

まず、杯の内側をきれいにせよ。

そうすれば、外側もきれいになる。(マタイ23:26)

 

私たちはいくら決心しても、

いくら自分の内側の汚れや醜い部分に気付いたとしても、

そして、何度変わりたいと願っても、

自分の努力のみによって、自分の心を変え、

自分の内側にある汚れを完全に拭い去るは出来ません。

私たちの心に弱さがある。

汚れがある。

醜い部分がある。

神に喜ばれないことを望んでしまう、罪がある。

それはまさに、イエスさまが嘆くように、不幸な現実なのです。

でも、それにも関わらず、イエスさまは私たち一人ひとりに向かって、

あなた方は「幸いだ」と宣言しておられます。

というのも、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と

旧約聖書において語られているように、

何よりもまず、神が私たちの心を知っていてくださるからです。

神は、私たちの外見の姿にのみ興味はありません。

人の目に映る、外見の姿によって、

私たちの存在のすべてを判断することを神は決してなさいません。

上辺ではなく、人の心を見てくださる神は、

何よりも、私たちの心を深く、愛情をもって見つめておられます。

だからこそ、神は、私たちの弱さを知っていてくださるのです。

私たちの抱える悩みも、誰にも見せたくない醜い部分も、

誰にも理解してもらえない悲しみも、すべて神はご存知です。

私たちのことをすべて知った上で、

その上で、神は、イエスさまを通して、

私たち一人ひとりに愛をもって語りかけてくださっているのです。

「まず、杯の内側をきれいにせよ」と(マタイ23:26)。

イエスさまは、希望のうちに私たちに語りかけておられます。

私たちの内側がきれいになる日が訪れると確信しているから、

イエスさまはこのように語っているのです。

とはいえ、イエスさまは一体何を根拠に

そう言い切ることが出来るのでしょうか?

私たちの内側がきれいになる日が必ず来る、その根拠は、

驚くべきことに、私たちの側にはありません。

その理由は、神の側にあります。

神は、私たち一人ひとりに聖霊を与えてくださいました。

私たちの助け主であり、慰め主である、この聖霊を通して、

神は私たちにいつも働きかけてくださっています。

聖霊を通して愛を注ぎ、いつも私たちと共にいてくださり、

私たちを内側から新しく造り変えてくださっています。

そして、イエスさまを通して、

神はすべての人々に罪の赦しを与えてくださいました。

イエスさまが罪を赦してくださったから、

神に喜ばれる姿へと私たちは日々近づいていくことが出来るのです。

杯の内側はきれいになることができるのです。

その根拠は、驚くべきことに、私たちの側にはありません。

優秀な存在だからでもなければ、

血縁や民族によるものでもありません。

社会的な地位や、もっている能力によってでもありません。

ただ、神が、私たちにイエスさまと聖霊を通して

私たち一人ひとりに恵みを与えてくださったから、

神の恵みのうちに、私たちは新しく造り変えられるのです。

ですから、感謝すべきことに、

イエスさまがあなた方に向かって宣言する言葉は、

もはや「あなた方は不幸だ!」という嘆きの言葉ではありません。

「あなた方は幸いだ!」という喜びに満ちた宣言へと変えられています。

杯の内側がきれいにされる道が既に開かれているからです。

ですから、この喜びに満ちた約束を受け取り、

神に心から信頼するあなた方は、幸いです。

神によって日々、内側をきよめられ続けているあなた方はもはや、

天の国を人々の前で閉ざし、隠す存在ではありません。

あなたを愛し、あなたに手を伸ばし、

あなたに罪の赦しを与え、

あなたを救ってくださった方は、

あなた方一人一人を選んでくださいました。

あなた方を通して、天の国はこの世界に広がっていくのです。

ですから、あなた方は幸いです。