「神の招きは取り消されない」

「神の招きは取り消されない」

聖書 エレミヤ書 29:10-14、マタイによる福音書 23:34-24:2

2018年 10月 21日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

マタイによる福音書の23章は、

律法学者やファリサイ派の人たちへの批判が

語られることから始まりました。

最終的にイエスさまが語る批判の言葉は、

エルサレム全体に向けられています。

つまり、イエスさまのそばで話を聞いていた群衆も、

イエスさまからの批判を受けているのです。

ですから、きょうのイエスさまの言葉は、

正直、あまり喜んで聞くことが出来ないものだったと思います。

イエスさまがエルサレムの人々に対して語ったその内容は、

神の招きに誰も応じず、

神が遣わした者たちを人々が迫害したというものでした。

神が預言者たちを遣わし、彼らを通して何度語りかけても、

誰もその言葉に真剣に耳を傾けず、

人々は神の招きに応えようとしませんでした。

むしろ、エルサレムの人々は、

神から遣わされた人々を時には殺し、

時にはむち打ちにし、

また時には町から町へと追い回し迫害しました。

それは、旧約聖書の時代から、

イエスさまの時代に至るまで、

いや、それ以降の時代も変わらずに、

何度も何度も繰り返されてきたことでした。

神が遣わした人たちを拒絶することは、

神の言葉を拒絶することに等しいことでした。

そのため、神を拒絶し続けるエルサレムは、

神から見捨てられ、荒れ果てることになるだろうと

イエスさまは告げるているのです。

このように、聞いていてとても心が痛くなる言葉が

この時、イエスさまの口を通して語られました。

そして残念ながら、紀元70年に、

エルサレムの町や神殿はローマ軍の手によって破壊され、

イエスさまの言葉の通りになってしまいました。

 

マタイがこの福音書を記したのは、紀元70年以降のことでした。

ですから、マタイ福音書を読んだ人たちは、

エルサレムが滅び、その地が荒れ果てた後の時代の人々です。

エルサレムが滅ぼされたことがまだ記憶に鮮明に残る時代に、

マタイの教会の人々は、この福音書を通して、

イエスさまの言葉を聞いたのです。

「これらのことの結果はすべて、

今の時代の者たちにふりかかってくる」(マタイ23:36)。

「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタイ23:38)と。

イエスさまのこの言葉を聞いたユダヤ人のキリスト者たちは、

胸を痛めたことでしょう。

神殿の破壊、エルサレムの町の破壊は、

もう既に経験していました。

そして、イエスさまの言葉を真剣に受け止めようとするならば、

エルサレム崩壊のあの出来事は、自分たちの罪の結果であり、

イエスさまを信じないユダヤ人たちが

神から見捨てられている事実を

証言しているように思えたに違いありません。

でも、本当にユダヤ人たちは

神から見捨てられたのでしょうか?

ご自分が目的をもって選んだ民を、

神が完全に見捨てるということなど、

あり得るのでしょうか?

私たちはこのことを真剣に問いかけなければなりません。

「ユダヤの人々は、イエスさまを信じ、従わなかったがために、

神から完全に見捨てられてしまったのだろうか」と。

もしも私たちの手元に

きょう開かれたイエスさまの言葉しかなかったのならば、

イエスさまを信じなかったユダヤ人たちは、

神から完全に見捨てられてしまったと結論付けるしか

道は残されていないでしょう。

しかし、感謝すべきことに、私たちの手元にあるのは、

イエスさまがエルサレムを厳しく批判した言葉だけではありません。

「ユダヤ人は神から見捨てられてしまったのか」

という大きな疑問に対して、

使徒パウロはローマの教会にこのように答えています。

 

神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

(ローマ11:29)

 

ユダヤ人の先祖であるイスラエルの民に

神が与えたものとは、一言で言うならば、約束です。

その約束とは、土地を与え、イスラエルの民を祝福し、

イスラエルを通して地上のすべての民を祝福することです。

このような約束こそが、イスラエルの民に、

そしてその子孫であるユダヤ人に

神から与えられていた賜物と招きでした。

パウロは、神が与えたこれらの約束は、

決して取り消されることなく、

ユダヤ人たちの賜物と招きは有効であり続けると宣言したのです。

目に見える現実は、絶望でした。

神から与えられたエルサレムの町は滅び、

ローマ軍に奪われていました。

神が共にいるという祝福の証しでもある、

神殿までも滅ぼされてしまいました。

目に見える現実は、神から見放され、

見捨てられていることを証言しているように思えました。

しかしそれは、神が私たちに語りかける

最終的なメッセージではありません。

イエスさまを通して、エルサレムは批判を受け、

その罪を指摘されてはいますが、

決してユダヤ人に対する最終的な神からの拒絶を

イエスさまは宣言しているわけではないのです。

パウロによれば、「神の賜物と招きとは

取り消されないものなのです」(ローマ11:29)。

では、なぜユダヤ人が神から一時的に

見捨てられるようにも思える出来事が起こったのでしょうか?

パウロは、ローマの教会へ送った手紙の中で、

私たち人間の知恵や知識を遥かに超えた

神の計画に目を向けるようにと、私たちを招きます。

パウロが解き明かす神の計画とは、

かつて神によって選ばれ、今は見捨てられているように見えた

ユダヤ人についての計画でした。

パウロは手紙の中でこのように語ります。

「彼ら、ユダヤ人たちがイエスさまを拒絶することを通して、

神を知らない異邦人たちが、イエスさまと出会い、神を信じ、

福音が全世界に広がったではないか。

そして、異邦人が福音を受け入れ、喜んでいる姿を

ユダヤ人たちが見ることを通して、

ユダヤ人たちがイエスさまを受け入れるようになる日が

やがて、必ず来る。

これが、神の計画だ。

神は、すべての人々を愛し、憐れんでおられるため、

このような計画を立ててくださったのだ。

だから、たとえ私たちの目に見える現実は、

希望を見出せるものでなかったとしても、

ユダヤ人に対する神の招きは、

決して取り消されたわけではないのだ」。

このように、たとえ、私たち人間の罪の結果、

悪いことが訪れようとも、

神はすべてを働かせて、良きものとしてくださいます。

かつて神が預言者エレミヤを通して語った約束の言葉は、

そのことを今も私たちに力強く証言しています。

 

わたしは、あなたたちのために立てた計画を

よく心に留めている、と主は言われる。

それは平和の計画であって、災いの計画ではない。

将来と希望を与えるものである。(エレミヤ 29:11)

 

神の計画は、私たちの想像をはるかに越えて、

愛と憐れみに満ち、将来の希望に溢れるものなのです。

ですから、私たちは、目に見える物事だけによって、

すべてを判断することはもうやめましょう。

苦しい現実が、神の裁きのように思えることがあるかもしれません。

耐えられない悲しみがあるのは、

自分が神から見放されているからだと

思ってしまうことがあるかもしれません。

でも、神はパウロを通して、

私たち一人ひとりに語りかけておられます。

「神の賜物と招きとは取り消されない」と。

神の計画は災いの計画ではなく、

私たちに将来と希望を与えるための計画です。

たしかに、人間の罪の結果、

ユダヤ人たちは土地を奪われ、神殿を破壊されました。

でも、聖書を通して神が私たちに語りかける最終的なメッセージは、

すべての人々に約束の地を与え、神殿を与えるというものです。

それがどういうものかご存知でしょうか?

それは、私たちが天の国と呼び、待ち焦がれている場所。

新しい天と新しい地と呼ばれ、

私たちのもとに希望のうちにやって来る場所。

そして、古い地上の神殿ではなく、栄光に輝く天の神殿。

神は、これらのものをイエス・キリストのゆえに、

あなた方に与えると約束してくださっているのです。

どうか、この約束をいつも忘れずに思い起こすことができますように。

あなた方に与えられている神の賜物と招きとは、

決して取り消されることがありません。

これこそ、神から私たちに与えられている決して揺るがない希望です。