「それから、終わりが来る」

「それから、終わりが来る」

聖書 ダニエル書 12:1-13、マタイによる福音書 24:3-28

2018年 10月 28日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

教会は、およそ二千年もの間、

イエス・キリストが再びこの地上に来る日を

「主の日」や「世の終わりの日」と呼んで待ち望んでいます。

でも、さきほど朗読されたイエスさまの言葉を聞くと、

この「終わりの日」というものが、

すべての人が待ち望むべき、希望に輝く日とは、

あまり感じられないように思えるかもしれません。

イエスさまの弟子たちが、

世の終わりが訪れるとき何が起こるのかと、イエスさまに尋ねたとき、

イエスさまは終わりの日のしるしとして、

様々な出来事が起こると彼らに伝えました。

 

イエスさまによれば、「終わりの日の徴」とは、

偽預言者や「自分こそがキリストだ」と偽る人々が現れるということ。

戦争の騒ぎや噂が流れること。

人々が敵意をむき出しにし、互いに裏切り、憎み合うこと。

飢饉や地震が起こること。

キリストを信じるゆえに、苦しみを受け、憎まれ、

時には暴力を受け、生命を奪われること。

そして、不法がはびこり、多くの人の愛が冷めること。

いや、それ以上の大きな苦難が訪れること。

まさに、喜びも希望も全く無い日が訪れることを

イエスさまは「終わりの日の徴」として、弟子たちに語り聞かせました。

このように、苦しみや悲しみばかりが訪れるであろう日々を

一体、誰が喜びのうちに待ち望むというのでしょうか。

イエスさまはこのようなことが起こる時代について、

「まだ世の終わりではない」とも、

また、「これらはすべて産みの苦しみの始まり」とも言っています。

つまり、イエスさまはこれらの徴そのものを、

私たちが待ち望む「終わりの日」とは呼んでいません。

でも、これほど悪いことが起こるならば、

「世の終わり」と呼ばれる日には、

一体どれほど最悪な出来事が起こるのだろうかと想像し、

不安を覚えてしまうかもしれません。

私たちは「世の終わり」という言葉を聞くと、

どうしても「世界の破局」を想像してしまいます。

しかし、イエスさまが語る「終わり」とは、

そのような意味で語られた言葉ではありません。

ここで「終わり」と訳されている、「テロス」というギリシア語は、

「目標」や「ゴール」を意味する言葉です。

つまり、私たちが苦難の日々を経験することを

イエスさまは神の目標とは語っていないのです。

神の目標とは、この地に、すべての人のもとに、

いや、この地のすべての被造物のもとに、

天の国をもたらすことにあります。

ですから、神の目標とは、苦難を与えることではなく、

私たちに希望と喜びをもたらすことなのです。

ヨハネの黙示録の著者は、

神に与えられた幻の中で見た、天の国を

「新しい天と新しい地」と呼び、

喜びのうちに天の国の現実を語っています。

 

見よ、神の幕屋が人の間にあって、

神が人と共に住み、人は神の民となる。

神は自ら人と共にいて、その神となり、

彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。

最初のものは過ぎ去ったからである。(黙示録 21:3-4)

 

神が私たちと共にいてくださる。

そして、苦難が過ぎ去っていく。

これこそ、神が抱いている目標、目指しているゴールです。

神が目指し、神が私たちを招いている天の国とは、

イエスさまが語る「世の終わりの徴」とは、

正反対の現実のように思えます。

いや、実際そうなのでしょう。

むしろ、イエスさまが語った世の終わりの徴は、

私たちの目や耳に新しいことではありません。

それは、私たちが馴染みすぎている、この世界の現実です。

私たちは日々、様々な情報や噂に流され、惑わされています。

現代の日本で生活をしていて、信仰をもっているがゆえに

殺されるということはほとんどありませんが、

嫌がらせを受けたり、馬鹿にされたりすることはあるでしょう。

また、私たち自身の心に憎しみや妬みがあります。

平和よりも、争いを作り出してしまうことがあります。

そう、「多くの人の愛が冷える」という言葉は、

私たち自身にも言えるものなのです。

そのような自分自身の日常や、社会のあり方、

この世界の現実を見つめるならば、

いつまでも同じような日々が続くように思えてなりません。

いつまでも、悪いことは悪いままで、

苦難が続くように思い込んでしまうことが、度々あります。

でも、私たちが失望するその現実を

イエスさまは、「世の終わりの徴」として語っています。

つまり、そのような私たちが慣れ親しんだ世界に

神は天の国をもたらそうとしておられるのです。

私たちが失望し、涙を流し、ほとんど諦めている

この世界の秩序を打ち壊し、神の支配を築き上げるために、

神は天の国をこの世界にもたらそうとしておられるのです。

そして、神の目標が成就するその日は、確実に近づいています。

天の国がこの世界に広がる日は、私たちのもとに、

着実に、一歩ずつ近づいているのです。

今はまだ、ぼんやりとした、

霞がかったものにしか見えないかもしれませんが、

希望に溢れる天の国は、確かに、必ず、

私たちのもとに完全な形でやって来るのです。

イエスさまが証言しているように、

人間の抱える罪や悪によって苦しむ信仰者たちを神は憐れみ、

出来る限りその苦しみの期間を縮めたいと願っています。

だから、イエスさまは弟子たちに

「世の終わり」について尋ねられたとき、

苦難の日々を生きるすべての信仰者に向けて、

励ましの言葉を語りました。

希望を決して捨て去らないで、

天の国が訪れる日を待ち望み続けて欲しいと願い、

イエスさまは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と(マタイ24:13)

私たち一人ひとりに語りかけておられるのです。

もちろん、「今の現実で味わう苦しみを耐え抜きなさい」

というような意味だけを込めて、

イエスさまはこのように語ったわけではありません。

何よりもイエスさまが意味していることとは、

神への愛も、隣人への愛も冷え切ってしまうこの時代において、

神を愛し、隣人を愛する道を歩んで行くということ。

そして、イエスさまが語る教えに忠実に歩んで行くということです。

それはまさに、不法がはびこり、

多くの人の愛が冷え切る時代において、

神の愛を伝え、天の国の現実を広げていくことといえるでしょう。

しかしその一方で、神の憐れみの対象は、信仰者だけではありません。

神は、すべての人々も憐れみ、天の国へと招いておられます。

 

御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、

全世界に宣べ伝えられる。

それから、終わりが来る。(マタイ24:14)

 

イエスさまがこのように語っているように、

イエスさまは、一人でも多くの人が神と出会い、

神の国の福音に生きて欲しいと願っているのです。

つまり、憐れみ深い神は、いつも、

ご自分の深い愛ゆえに、葛藤を抱えているといるでしょう。

神を信じる人々が苦しみや悲しみを経験する期間が短くなるために、

「終わりの日」を出来る限り早めて、

天の国をこの地上にもたらしたいという思い。

そして、すべての人がイエスさまを通して、神と出会い、

救いの現実を知り、福音に生きる喜びを得る機会を増やすために、

「世の終わり」が来る日を出来る限り先延ばしにしたいという思い。

このような2つの憐れみの思いの中で、

神は深い愛ゆえに、葛藤しておられます。

ですから、終わりの日がいつ来るのかは、

私たちが必要以上に思い悩んだりする必要はありません。

それらのことは、すべて神に委ねるべきです。

最もふさわしい時期に、

すべての人に最も憐れみが注がれるであろう時期に、

神はこの世界に向かって「終わりの時」を宣言することでしょう。

ですから、私たちにとって大切なことは、

世の終わりのことで思い悩むことではありません。

私たち自身が苦難の只中にあっても、

神の前で忠実に生きること。

そして、私たち自身が神の救いの出来事を

この世界に告げ知らせ、

天の国の現実が広がっていくことを願い続けること。

イエスさまによれば、これらのことこそが、

終わりの日を待ち望み、天の御国を目指して生きる私たちに

最も相応しい歩みなのです。