「ラッパの音の合図を待つ」
聖書 イザヤ書 27:12−13、マタイによる福音書 24:29−35
2018年 11月 4日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
未来のことは、誰にもわかりません。
どれだけ性能の良いコンピューターを用いて、
AIの力を借りながら、予測を立てたとしても、
思い描いた通りの現実がやって来ることは絶対にありません。
たとえ明日の自分自身の予定を念入りに立てたとしても、
身体や心の状態、周りの人たちや天候など、
様々な要因が重なり合って、
計画通りにすべてを行うことは不可能です。
未来のことは誰にもわかりません。
未来とは、謎に包まれたものです。
このようなことは、きっと誰もが経験的に知っていることだと思います。
だからこそ、未来というものが完全に把握できないものだからこそ、
私たちは未来に何が起こるのか気になり、
とても心惹かれるのでしょう。
そんな謎に満ちた「未来」について、
すべての人のもとに必ず訪れる日がふたつあると、
聖書は私たちに告げています。
ひとつは、すべての人間は必ず死を迎えるということです。
もちろん、このことに異論を唱える人は誰もいないでしょう。
生命あるものには皆、必ず死が訪れます。
どれだけ医療が進歩しようとも、
私たちのもとには、いつか必ず死を迎える日が来るのです。
そして、もうひとつの点は、
この世界に終わりの日が訪れるということです。
先ほど開いたマタイによる福音書において、
イエスさまが問題としているのは、この2つ目の点です。
終わりの日があるのならば、
一体、その日には何が起こるというのでしょうか。
イエスさまの話を聞いていた人々は、
世の終わりの日に何が起こるのかに、心惹かれていたため、
イエスさまは彼らに向かってこのように告げました。
その苦難の日々の後、たちまち
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。(マタイ24:29)
何ということでしょうか。
太陽が光を失い、すべての天体が光を放たなくなり、
その存在を揺り動かされる。
世界中が、いや全宇宙が暗闇に覆われ、
揺れ動く日が訪れるというのです。
まさに、私たちが当たり前と思っている、
この世界の秩序が崩れ去る日が、
イエスさまが語る終わりの日なのです。
世界の秩序が崩れるとき、
私たちが誇るもの、信頼するものは、
ほとんど意味がなくなります。
これまで積み重ねてきた財産も、
この社会で築き上げた名誉、名声も、
様々な権力も意味がなくなります。
そして、天体が揺れ動くということは、
私たちが立つこの大地さえも、揺れ動くということなのでしょう。
私たちが決して失われることがないと信じている場所が、
揺れ動き、足元から崩れていくのです。
つまり、その日は、
誰も自分の力では立っていられなくなる日といえます。
でも、このような出来事そのものを
イエスさまは「世の終わりのしるし」とは呼びません。
イエスさまが何よりも強調するのは、
世の終わりの日に、「人の子の徴が天に現れる」ということです。
その徴とは、イエスさまによれば、
「人の子が天の雲に乗って来る」ということです。
人の子とは、イエスさまが
自分自身のことについて語るときに使われる言葉です。
つまり、イエスさまがこの世界に再び来る日こそが
世の終わりの日であると、イエスさまは私たちに告げているのです。
それでは、イエスさまが再び来ることを通して、
神は一体何をしようとしておられるのでしょうか?
イエスさまは、その日、大きなラッパの音が
世界中に鳴り響くと伝えています。
このラッパの音は、全世界、いや全宇宙に希望を告げる音です。
このラッパの音が鳴り響くとき、
イエスさまは天使たちを世界中に遣わします。
そして、選ばれた人々が
天使たちによって全世界から集められるそうです。
ここで登場する「選ばれた人々」という言葉は、
第一に、ユダヤ人のことを意味するものです。
旧約聖書の時代に、神は彼らの先祖である、
イスラエルの民を選び、祝福しました。
そして、イスラエルの民を通して、
世界中のすべての人々を祝福しようと計画されました。
しかし、選ばれた民であるイスラエルの子孫であるユダヤ人たちは、
救い主として来られた神のひとり子であるイエスさまを拒絶し、
十字架にかけて殺してしまいました。
そのため、イエスさまが再び来られたとき、
選ばれた民であるユダヤ人たちは、
イエスさまを拒絶していたかつての自分たちの姿を
悲しみ、嘆くことになります。
ですから、ユダヤ人もまた、29節に登場する、悲しみ、嘆き、
神の裁きを恐れる「地上のすべての民族」の一員なのです。
でも、ラッパの音が世界中に鳴り響くとき、
そんな彼らが呼び集められるというのです。
つまり、このラッパの合図は、
神からの赦しが告げられる音といえるでしょう。
「あなた方は確かに過ちを犯した。
でも、私はあなた方のその罪も過ちも赦す」と、
神は驚くべき宣言をされているのです。
もちろん、イエスさまを拒絶したのは、ユダヤ人だけではありません。
すべての人が、イエスさまを拒絶しています。
いや、イエスさまを信じる人々でさえも、
イエスさまの言葉を拒否することによって、
何度も何度もイエスさまを拒絶してしまっています。
「共に生きる人たちを愛しなさい」と命じられているのに、
私たちは友人や家族といった、共に生きる人々を
心から愛せないことがあります。
愛情に動かされるよりも、
妬みや憎しみといった負の感情で動いてしまうことが
何と多いことでしょうか。
その意味で、私たちもまた、
イエスさまが来る日、神の前で恐れを覚える
「地上のすべての民族」の一員といえるでしょう。
しかし、それにも関わらず、
イエスさまが私たちのもとに再び来る日は、
恐ろしい日ではなく、喜ばしい日だというのが、
聖書全体が私たちに告げるメッセージです。
というのも、イエスさまが来た時、
ラッパの音が世界中に鳴り響くからです。
このラッパの音は、恐ろしい裁きの合図ではなく、
赦しと愛に溢れる音として世界中に、
そして私たち一人ひとりの心に鳴り響きます。
あなたの積み重ねてきた過ち、罪のすべてを神が赦してくださる。
その喜ばしい知らせがこの大きなラッパの音なのです。
そして、同時に、このラッパの音は、
より大きな喜びを私たちのもとにもたらすと、
使徒パウロがテサロニケの教会に送った手紙の中で語られています。
パウロは、このラッパの音に込められている希望を
確信をもってこのように語っています。
……合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、
神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。
すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
それから、わたしたち生き残っている者が、
空中で主と出会うために、
彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。
このようにして、わたしたちは
いつまでも主と共にいることになります。
(Ⅰテサロニケ4:16-17)
神は、死の先に復活の命があると
私たちに約束してくださっています。
神が与えてくださったこの約束が実現する日が、終わりの日なのです。
神がすべての死者を復活させる合図は、
パウロによれば、このラッパの音です。
終わりの日に、ラッパの音が世界中に鳴り響く時に、
死者の復活という神の約束は実現します。
それはすべての人にとって、大きな喜びといえるでしょう。
その日が訪れるならば、先にこの地上での生涯を終えた、
私たちの愛する人々と私たちは再会することが出来るのですから。
死は、私たちから関係を奪っていきます。
生きている者と死んだ者との間にある関係を
死は遠慮なしに奪っていくのです。
私たちは、それを経験する度に、
死に抗うことが出来ない現実に涙をします。
でも、神は終わりの日に、
イエスさまが再び来て、ラッパの音が鳴り響く時に、
死という眠りから、すべての人を起こすと約束してくださいました。
死を滅ぼし、死によって奪われた関係を取り戻すと、
神は約束してくださったのです。
私たちを心から愛し、憐れんでくださっているから、
神は私たちにこのような約束を与えてくださっているのです。
まさに、このようにして、終わりの日に、
天の国は私たちのもとに訪れます。
そこで、復活の生命を与えられた私たちは、
神と共に永遠に生きるように招かれています。
ですから、私たちはこのラッパの音の合図が
世界中に鳴り響く日を心から待ち望み続けましょう。
それは、神が希望に溢れる約束を与えてくださったから、
私たちは、死の先を待ち望むことが出来るということです。
どうか、私たちよりも先に天に召された
愛する仲間たちのことを思い起こす度に、
この約束を心に刻み込み、
神の慰めと希望を受け取ることが出来ますように。
私たちの旅の終わりは死ではありません。
その先に復活の生命と、天の国で生きる希望が用意されています。
どうかあなた方一人一人の天の国へ向かうこの地上での歩みが、
終わりの日に至るまで、神の豊かな祝福のうちにありますように。