「目を覚ましていなさい」

「目を覚ましていなさい」

聖書 イザヤ書 2:1−5、マタイによる福音書 24:36−51

2018年 11月 11日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

「この世界はいつか必ず終わりの日を迎える」という確信のもと、

イエスさまは、弟子たちにひとつひとつの言葉を語りかけました。

世の終わりの日が必ず訪れる。

つまり、どれほど私たちが永遠を願い求めたとしても、

すべての物事は必ず終わりの時を迎えるのです。

ただ、イエスさまの語る「終わり」とは、

完全な滅びのことではありません。

それは、神の手によって、新しく創り変えられるための終わりです。

新しい天と新しい地がやって来て、

命の終わりを迎えたすべての者が復活の生命を与えられ、

神と共に永遠に生きる。

ですから、イエスさまが語る「終わりの日」とは、

キリストを信じるすべての者の希望が実現する日といえます。

その希望の日が訪れる合図は、イエスさまによれば、

イエスさまご自身が再び私たちのもとに来ることです。

でも、ひとつ大きな問題が私たちの前に横たわっています。

それは、その終わりの日がいつやって来るのかを

誰も私たちに教えてくれないということです。

終わりの日がいつ来るのかについて、

その答えは、聖書の中には記されていませんし、

教会の伝承によっても伝えられてはいません。

これまで、様々な人たちが何度も

世の終わりを予測してきましたが、

ご存知のように、何一つとして当たったことはありませんし、

終わりの日は未だに来ていません。

今日来るかもしれませんし、

この場にいるすべての人たちが天に召された後に、

終わりの日はやって来るかもしれません。

終わりの日がいつ来るのかは、

弟子たちも、天使たちも、誰も知らないのです。

いや、そもそも、再びこの地上にやって来て、

終わりの日の合図を告げることになっている、

神の子であるイエスさまでさえも、

その日がいつ来るのかを知りません。

つまり、終わりの日とは、完全に、神の手の中にあり、

神が決断した時に私たちのもとに訪れる日なのです。

イエスさまは、きょうの福音書の物語において、

終わりの日にイエスさまが来るのは、

「ノアの時と同じ」と語っています。

一体どのような意味を込めて、

イエスさまはこのように語られたのでしょうか?

旧約聖書に登場する、「ノア」という人の名前を聞くと、

私たちは真っ先に洪水の出来事を思い起こします。

かつて神は、人間の悪が地上に蔓延していたため、

人間への裁きとして「洪水を起こす」と決断しました。

そして、神はその思いをノアに伝えましたが、

その洪水がいつ起こるのかはノアにはわからないままでした。

でも、ノアは神の意志を確かに知っていました。

ですから、神の思いを知っているノアは、

神が自分に命じる言葉に従って、

箱舟と呼ばれる大きな船を作り続けました。

一方で、ノアの周囲の人たちは、普段と変わらぬ生活を送っていました。

そのいつも通りの生活の中に、神が決断された日が突然やって来て、

すべてのものが水に飲み込まれていったのです。

もちろん、普段どおりの生活を行うことについて、

イエスさまは良いとも悪いとも評価を下してはいません。

神の決断する日が必ずやって来るということはわかるけれども、

その日がいつ来るかわからないという側面を

イエスさまはノアの出来事を通して示しておられるのです。

それと同時に、イエスさまはこの時、「ノアの時と同じ」と語り、

洪水の出来事を示すことを通して、

「終わりの時に、私たちは神の前で裁かれる」

と伝えているように思えます。

ただ、「救いか、滅びか」というような二択を

イエスさまは強調しているわけではありません。

そもそも、イエスさまはすべての人を滅びではなく、

救いへと招くために来られた方ではありませんか。

たしかに、「罪が支払う報酬は死」(ローマ6:23)です。

つまり、罪ある人の行く末は滅びであるというのが、

聖書がすべての人に等しく突きつける私たち人間の現実です。

しかし、その滅びから私たちを救いへと呼び出すために、

イエスさまは私たちのもとに来て、

私たちと共に歩んでくださいました。

出会うすべての人を憐れみ、私たちが抱える罪を赦し、

私たちの力ではどうにもならないこの世界の悪を根絶やしにするために、

イエスさまは苦しみ、生命を差し出されました。

それが、私たちの救い主イエス・キリストという方です。

つまり、イエスさまの父である神は、

まさに、パウロがテサロニケの教会の人々に

「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、

わたしたちの主イエス・キリストによる救いに

あずからせるように定められたのです」(Ⅰテサ5:9)と、

語った通りのお方なのです。

たしかに、神は終わりの日に、

私たちの罪や悪を徹底的に裁かれるでしょう。

でも、それは、私たちから罪や悪を取り除くためです。

私たちを神の聖なる民にするためです。

イエス・キリストによる救いを与えてくださった神は、

愛をもって私たちを裁かれるのです。

そのことを知っているから、私たちは終わりの日を

希望の日として待ち望むことが出来ます。

たとえ、どれほど悔いるべき過去を背負っていようとも、

神はキリストのゆえに、あなたがたを救いへと定められるのです。

ですから、私たちの前に備えられている「終わりの日」とは、

希望に溢れる日なのです。

それでは、この希望の日を待ち望む上で、

私たちはどう生きるべきなのでしょうか。

それが、イエスさまが私たちに問いかけている問題です。

イエスさまは、「終わりの日」に対する人々の反応を

ひとつのたとえを通して語りました。

それは、家の主人が旅立っている間、

家のことを取り仕切ることを任された

しもべたちついてのたとえでした。

一人のしもべはこう考えました。

「主人はいつ帰ってくるのかわからない。

でも、彼は必ず帰ってくる。

だから、その日に備えて、

主人に命じられた通りのことを行おう」と。

一方、こう考えるしもべもいました。

「主人はいつまでも帰って来ないし、すぐに帰って来る様子もない。

だから、命じられたことなど無視して、好き勝手に生きよう。

もうじき主人が帰って来るであろう頃になったら、

真面目に働けば良いじゃないか」と。

このたとえは、主人が突然帰って来て、

好き勝手に生きたしもべが裁かれることによって終わっています。

しもべたちがその家の主人に命じられたことを

誠実に行うべきだというのは、

このたとえを読む誰にでもわかることです。

でも、このたとえは、

いつ私たちのもとに帰って来るのかわからないイエスさまと

イエスさまが来る日を待ち望む私たちの関係の中で

読まれるべきものです。

終わりの日がいつ来るかわからないならば、

どちらも私たちが取りうる態度だと思います。

イエスさまがいつ来るかわからないのならば、

永遠に来ないかのように生きたいと思ってしまうかもしれません。

しもべが主人に任されたことなど関係ないと感じたように、

私たちも、神から委ねられていることなど、

関係ないという態度を取ってしまいたくなります。

神を信じながら、神を信じていない者のように

生きてしまいたくなります。

でも、イエスさまはやがて必ず帰って来られます。

いつかわからないけれども、その日は、喜びの日として訪れます。

だから、私たちは目を覚まして待ち望み続けるように招かれています。

この招きに真剣に応えようと願った信仰者たちは、

神が私たちに委ねてくださったものは何であるのかを思い起こし、

神の前に誠実に生きようと努めてきました。

まさに、終わりの日を待つ上で、

ふたつの両極端な態度が存在するのです。

でも、それにしても、イエスさまを待ち望む態度に、

なぜこのような大きな違いが生まれてしまうのでしょうか。

それはきっと、今この瞬間をどのように見つめているのかに

違いがあるのだと思います。

今この瞬間や目先のことだけを見つめて生きるのか。

それとも、神が私たちに与えてくださる

希望の日が照らし出す光の下で、今の時を見つめるのか。

ここに決定的な違いがあるのだと思います。

終わりの日に希望や喜びを見いだせないならば、

今この瞬間や近い将来を楽しむしか方法がありません。

でも、終わりの日に希望と喜びを見出すならば、

その日へと一歩ずつ近づいていく私たちの日常は、

希望と喜びで照らし出されるはずです。

そして、その日が近づく備えを少しずつ積み重ねようするはずです。

もちろん、終わりの日に希望や喜びを見出し、

待ち望み続けることはとても難しいことです。

イエスさまは、その難しさをよくわかっておられたから、

終わりの日を待ち望むことは「ノアの時と同じようだ」と語られました。

実は、「ノアの時と同じようだ」という時、

イエスさまは複数形を用いています。

「ノアの日々と同じようだ」と。

つまりそれは、ノアが洪水前に箱舟を造っていた日々だけではなく、

洪水が起きた後、水がひいていき、

新しい地が与えられる日を箱舟の中で

待ち望んでいる日々も含まれているといえるでしょう。

私たちが終わりの日を待ち望む時の態度は、

まさに、箱舟に乗っているノアのようにあるべきなのだと思います。

波に揺られ、足元がぐらつき、息苦しい思いをするかもしれない。

雨風や波をしのぐために閉じこもり、

暗闇の中をゴールもわからずに歩んでいる感覚を覚えるかもしれない。

でも、水がひいていき、乾いた地が与えられる日が必ず来る。

箱舟を出て、太陽の日差しの下に出る希望の日は必ず訪れる。

そう、ノアと同じように、あなた方にもその日が必ず来るから、

「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)と

イエスさまは語りかけ、私たちを励ましておられるのです。

もちろん、「眠らずにずっと起きていなさい」という意味で、

イエスさまは「目を覚ましていなさい」と言ったのではありません。

箱舟に乗っていたノアにとって、

それは、一緒に箱舟に乗っている仲間たちと平和を保ちながら、

箱舟が陸地に着く日を待つことだったでしょう。

些細なことで傷つけ合い、時には憎しみや妬みを抱いてしまう。

でも、ノアにとって、争いよりも、

平和を築いていくことを選び取っていくことが、

目を覚ましていることだったと思います。

また、箱舟に一緒に乗る動物たちの世話だって、

ノアに求められていたことでした。

箱舟という名の世界を正しく管理するようにと、

神はノアを招いておられたのです。

そして、これらすべてのことは、

ノアが箱舟を降りた後にも関係のあることでした。

ノアが箱舟での生活の終わりの日に至るまで、

神に委ねられたすべてのことをどのように管理していたかが、

その後のノアの生活に大きな影響を与えたのです。

つまり、私たちのこの地上での歩みが、

天の国における生活と全く無関係だとは言うことはできません。

それはもちろん、私たちが成し遂げたことに基づいて、

天の国での地位が私たちに与えらるという意味ではありません。

どのような形でそれが実現するかはわかりませんが、

私たちが神に委ねられているひとつひとつの働きは、

日常の些細な出来事も含めて、

将来私たちのもとに訪れる

天の国を築き上げるために用いられる働きなのです。

ですから、「目を覚ましていなさい」と、

イエスさまは私たちにいつも勧めておられるのです。

どうか、終わりの日を喜びの日として見つめるだけでなく、

終わりの日が私たちに投げかける希望の光によって、

あなた方の日々の歩みが照らし出されていきますように。

さぁ、神があなたを照らし出す光の中を歩んで行きなさい。