「王である神からの預かり物」

「王である神からの預かり物」

聖書 創世記 1:26-31、マタイによる福音書 25:14-30

2018年 11月 25日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣

 

これまでイエスさまは、弟子たちや群衆に、

「世の終わりの日はいつ来るかわからない」ということを

たとえを用いて伝えましたが、

きょうの福音書の物語においては、

終わりの日を待ち望む信仰者たちの生き方に

イエスさまはスポットを当てています。

イエスさまが語ったたとえに登場するしもべたちは、

旅に出る主人からお金をあずかりました。

渡された金額について、「タラントン」という単位が用いられています。

5タラントン、2タラントン、1タラントンと、

しもべたちがそれぞれに受け取ったお金は、

一体、どの程度の金額だったのでしょうか。

1タラントンは、当時の日雇い労働者たちが、

6,000日間働いて、ようやく手にすることの出来る金額でした。

つまり、1週間に6日間働くと考えるならば、

およそ20年分の労働賃金が1タラントンという金額でした。

このたとえ話において、

一番少ない金額を主人から受け取ったしもべが手にしたのが、

1タラントンでした。

そして、一番多くのお金を渡されたしもべは、

5タラントンを手にしました。

つまり、一番少ない金額を受け取った人でさえ、

労働賃金およそ20年分のお金を受け取り、

一番多い金額を受け取った人は、

100年分ものお金を主人から手渡されたのです。

5タラントンを渡されたしもべに関して言うならば、

実に、一般の人々が一生かかっても稼ぐことが難しい金額を

このしもべは主人から手渡されました。

いや、そもそも新約聖書の時代は、

多くの人がその日一日を暮らしていくのがやっとで、

現代に生きる私たちのように、

生涯でどれほどのお金を手にするかなど考えもしなかった時代です。

そのため、5タラントンが大金であることは言うまでもありませんし、

1タラントンだって、手にすることが想像できない金額だったでしょう。

ですから、この家の主人はお金持ちであったとともに、

かなり多くの金額をしもべたちに託して、旅立って行ったといえます。

そこには、しもべたちに対する絶大の信頼があったのでしょう。

自分のしもべたちならば、このお金を正しく用いてくれるに違いないと、

この主人は考えて、彼らを心から信頼して、自分の財産を託したのです。

ところで、興味深いことに、主人から信頼されたしもべたちは、

預かったお金の用い方の指示を受けていません。

つまり、しもべたちは主人から完全に信頼され、

財産を委ねられていたようです。

ですから、主人からの信頼にしもべたちがどのように応えたのかが、

このたとえ話の大きなポイントなのだと思います。

それでは、しもべたちは受け取ったお金を

どのように管理したのでしょうか。

5タラントンを受け取った人と、2タラントンを受け取った人は、

与えられた分を用いてお金を稼ぎ、お金を倍の金額に増やしました。

それが、主人にお金を託された自分たちに与えられている責任であり、

何よりも、主人の喜びにつながることだと信じたため、

彼らはこのようなお金の用い方をしました。

しかし、1タラントンの人は、預かったお金を

土に埋めて隠してしまったようです。

どうやら、このしもべは、

与えられた金額の大きさに恐れを覚えたようです。

いや、何よりも、預かったお金を誤って用いて、損をしたり、

お金を盗まれたりしてしまうなど、

自分が失敗をしてしまったときの主人の反応を想像して恐れたため、

1タラントンを受け取ったこの人は、このような行動をしました。

この物語の結末はご存知のとおりです。

与えられたタラントンを用いて、それを更に増やしたしもべたちは、

主人から「忠実な良いしもべだ」と喜ばれ、

1タラントンを使わずに隠していた人は、

「怠け者の悪いしもべだ」と言われ、

外の暗闇に追い出されてしまいました。

さて、このたとえは、私たちに何を語っているのでしょうか?

きっと、このたとえは、

タラントンを何と結びつけようとするかによって、

考え方は変わってくると思います。

タラントンがお金だけを意味するのではないことは明らかでしょう。

さきほど朗読していただいた創世記1章は、

この世界のあらゆるものが

神によって造られたものであると宣言しています。

そして、そのすべてを全世界の王である神が

治めておられることが明らかにされています。

しかし、神はこの世界のすべてのものを

ご自分の力によって支配しておられるにも関わらず、

この世界のすべてのものを私たち人間の手に託されました。

この大地や空を、そこに住むすべての生き物を、この宇宙全体を、

正しく管理し、世話するようにと神は命じられました。

そして、神によって造られたものはすべて、

本来、良いものとして造られた美しい存在です。

神から託されたものが、ますます輝きを放つようになることを目指して、

この世界のあらゆるものを管理するようにと、

神は私たちの手にすべてのものを委ねられたのです。

ですから、「委ね」、「託した」ということは、つまり、

私たちが手元に持っているすべてのものは、

決して、私たち自身の所有物ではないということです。

この世界のあらゆるものは、あくまでも、

神から私たちに託された、預かり物なのです。

そして、それらのうち、神が責任をもって用いるようにと私たちに願い、

私たちの手元に訪れたものが、私たちの持つタラントンというものです。

それは実に、様々なものが考えられるでしょう。

私たち自身が持つ能力や個性。

社会的な地位や、人との関係。

私たちが持つ財産。

学問を通して、神が造られたこの世界の仕組みを探求すること。

そして自分という存在そのものなど、

すべてのものは、神から私たちに

与えられ、委ねられているタラントンです。

驚くべきことに、私たちが委ねられているものをどのように用いるかを

神はひとつひとつ指図することなく、

自由に用いるようにと願っておられます。

私たちを心から信頼した上で、

神はすべてのものを委ねておられるのです。

その自由とは決して、好き勝手という意味ではありません。

たとえ話において、主人が喜ぶことを願って、

しもべたちがタラントンを用いたように、

私たちも与えられたものを神の喜びのために、

そして共に生きる人々を愛するために、

タラントンを用いる責任があるのです。

このような大きな目的のために、

神から委ねられているものを自由に用いるようにと、

私たちは招かれているのです。

でも、果たして、私たちは神からの信頼に足る存在なのでしょうか?

残念ながら、簡単に「はい、そうです」などとは言えません。

というのも、私たちの手に委ねられたことによって、

悪い状態にしてしまったものが数多くあるからです。

人間同士の関係がいつの時代も傷ついています。

自然環境が破壊され続けています。

不祥事や争いごとなどが、

毎日のようにメディアで報じられているのを私たちは見聞きしています。

どうやら私たち人間は、神から与えられた自由というものを

履き違えてしまっているようです。

そのために、残念ながら、後戻りできそうにもないほど、

悪くなってしまったものが数多くあるのです。

被造物が傷つき、人間同士が争い合い、

神に委ねられたものを私利私欲のために用いてしまう

私たち人間の現実を見つめるたびに、

一体、私たちは何度、この目に映る現実を

見放してしまったことでしょうか。

私たちは何度、傷ついているこの世界を、悲しむ人々を

見て見ぬふりをしてきたことでしょうか。

そして、一体、何度、神から委ねられている働きを諦め、

心が折れてしまったことでしょうか。

残念ながら、これが私たちの抱える現実です。

果たして、このような私たちは、

神からの信頼に足る存在なのでしょうか?

自信をもって「はい、そうです」などとは誰も言えないでしょう。

しかし、それにも関わらず、

神は、私たちを愛することを諦めていません。

神の独り子であるイエスさまを私たちのもとに送ってくださった神は、

私たち人間を決して見放されません。

イエス・キリストにある救いを通して、

神は被造物が苦しみ、叫ぶ、そのうめき声を止めようとしておられます。

そして、聖霊なる神を通して、イエスさまが私たちに伴い、

聖霊なる神の力によって、

神は、私たち自身を新しく造り変えてくださいます。

そうです、あなた方はすでにそのような存在にされているのです。

その意味で、神は、「あなた方には出来る」と宣言されます。

神の力によって新しく造り変えられているあなた方を通して、

神は、この世界が良い状態に管理されることを願っておられるのです。

ところで、なぜ神は、ご自分が造られたこの世界のあらゆるものを

私たち人間の働きを通して、

良い状態に保つことを願っておられるのでしょうか?

それは、私たちが神から預かっているものが、

神への捧げ物となるからです。

将来、世の終わりの日が訪れるとき、イエスさまは

全世界の王、全宇宙の王として、私たちのもとに訪れます。

その時、私たちは、誰もが神からの預かり物を、

神から委ねられ、与えられたタラントンを、神への捧げ物として、

キリストのもとへ持って行くようにと招かれているのです。

その時が来たら、あなたは

神からどのように語りかけられたいでしょうか。

「忠実な良いしもべだ」。

そう優しく語りかけられ、神からの預かり物が

豊かにされた現実を、神と共に喜びたいものです。

愛する皆さん、私たちを取り巻くあらゆるものは、

神からの贈り物であり、預かり物です。

そうであるならば、私たちは、自分自身の手で

それらのものを固く握りしめるべきではありません。

すべてのものは、究極的には神のものだからです。

どうか、神からの預かり物を神のために、

そして共に生きる愛する人々のために用いることができますように。

あなた方には出来ます。

神の忠実な良いしもべたちよ。