「キリストに仕える生涯」
聖書 エゼキエル書 34:11-24、マタイによる福音書 25:31-46
2018年 12月 2日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
きょうのイエスさまのたとえ話に登場する王さまは、
飢え渇く人、家がなく旅をする人、病に苦しむ人、
裸である人、牢獄につながれている人を
助けた人々に向かって、このように言いました。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、病気のときに見舞い、
牢にいたときに訪ねてくれた。(マタイ 25:35-36)
このように言われた人たちが、キョトンとした顔で、
王さまを見つめている姿が想像できると思います。
そうです、だって、心当たりがないのですから。
自分たちが一体なぜ王さまから感謝されているのか、
さっぱりわかりません。
王さまの前に立つ人々は、
自分たちが王さまを助けたなどとは、当然、誰も思っていません。
自分たちが助けたのは、苦しんでいる自分自身の家族です。
悲しみ、嘆きのうちにある仲間たちです。
喉が渇き、お腹を空かせていた旅人たちです。
そういった人たちを助けたことは確かにありました。
でも、この王さまは優しく語りかけるのです。
「このような人々のためにあなたがしたことは、
このわたしにしたことだ。
助けを必要としていた最も小さい者たちに、あなたがしたことは、
わたしにしたことだ」と。
なぜ他の人を助けたことが、王さまを助けたことになるのか、
このたとえ話を読んでも、その理由は、正直わからないと思います。
でも、このたとえに登場する王さまが、
イエスさまご自身のことを指すとわかるならば、
私たちの目に光が与えられることでしょう。
つまり、イエスさまは将来、
この世界の終わりの日が訪れ、私たちが神の前に立つ時、
このたとえに登場する王さまのように、私たちに語りかけられるのです。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、病気のときに見舞い、
牢にいたときに訪ねてくれた。(マタイ 25:35-36)
もちろん、誰かを助けたり、親切をしたりしても、
私たちはイエスさまを助けようと思ってすることはないでしょう。
でも、「今苦しんでいる人、
助けを必要としている人の内に、私はいるのだ」と、
イエスさまはこのたとえを通して語っておられるのです。
このたとえに登場する「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、
「わたしの兄弟」という言葉が使われているため、
キリストを信じる仲間たちのことです。
その意味で、私たちはお互いに助け合い、仕え合うことを通して、
イエスさまと出会うことが出来るのだと思います。
でも、その一方で、イエスさまがこのたとえ話の中で
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」と呼んでいるのは、
イエスさまを信じている人だけではないと思います。
キリスト教会は、このたとえ話に登場する「最も小さい者」は、
苦しみ、悩み、悲しみ、困難を抱えている
すべての人のことだと受け止めてきました。
その意味で、私たちは出会うすべての人を通して、
キリストの姿を見るように招かれているのです。
この一週間、私たちはどのような人たちと出会ったでしょうか。
家族、友人、近所に住む人たち、
職場や学校、バイト先で出会う人たち、
街を歩く中ですれ違う人たちなど、
実に、いろいろな人たちと私たちは出会い、共に生きています。
イエスさまは、このたとえ話を通して、
様々な人たちと出会う私たちにいつも問いかけているのです。
「あなたの周囲にいる人々が助けを求めているとき、
あなたは一体、どのような態度で彼らに接しているだろうか」と。
たとえ信仰を抱いていなくても、
イエスさまは、苦しみ悲しむ人々、
嘆きのうちにある人々と共にいたいと願っておられます。
ですから、どうか彼らが助けを必要としているとき、
手を差し伸べることができますように。
悲しんでいるとき、傍に立つことができますように。
私たちが誰かに寄り添い、手を差し伸べることによって、
キリストは私たちの目の前の人と共にあるのです。
キリストに仕えるとは、まさに、
私たちのそばで助けを必要としている人に心から仕えることなのです。
私たちは、そのようにして、全生涯において
キリストに仕えるようにと招かれています。
そのような歩みが出来るならば、どれほど喜ばしいことでしょうか。
でも、頭では十分によくわかっていても、
心からそのように生きたいと切実に願っても、
心から神と人とに仕えたいと願っていても、
それができない自分に出会うことでしょう。
人々が抱える苦しみや悲しみは見えにくいものです。
時には見て見ぬふりをしてしまいます。
また時には、私たち自身が苦しみや悲しみの原因を作り出し、
気づかぬうちに暴力や抑圧に加担してしまう場合だってあります。
それは、私たちが抱える弱さや罪が引き起こす、
私たちの生きる悲しい現実です。
それは何も、今の時代に始まったわけでもなく、
遠い昔から私たち人間が抱えていた現実でした。
旧約聖書の時代、預言者エゼキエルは、
神の民として選ばれたイスラエルの人々に、神の思いを伝えました。
「王をはじめ、国のリーダーたちが、
イスラエルの民を正しく治めることが出来ていない。
彼らが、悪い羊飼いとなってしまっている」と。
国のリーダーたちに求められていたことは、
良い羊飼いのように、民を養うことでした。
しかし、現実はその逆で、彼らは自分の羊を欺き、
私利私欲を満たすために、搾取しました。
誰一人として良い羊飼いとなれない現実に、
この当時、誰もが失望していました。
そのような状況の中で、預言者エゼキエルは
イスラエルの民に希望の言葉を語ったのです。
わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。
それは、わが僕ダビデである。
彼は彼らを養い、その牧者となる。(エゼキエル 34:23)
それは、神によって立てられた一人の牧者が、
やがて必ず来るという約束でした。
神はこの時、「わがしもべダビデ」と語りましたが、
かつてイスラエルの国を治めたダビデ王のことを
指しているわけではありません。
「ダビデのような王が現れる」ということです。
いや、ダビデに勝る者が来て、すべての人を公平に扱い、正義を行い、
すべての民を養う、良き羊飼いとなってくださる。
この約束された人物を通して、神は、すべての人々を養われるのだと、
エゼキエルは神の約束を語り伝えたのです。
そして、神はこのように語りました。
わたしは失われたものを尋ね求め、
追われたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、
弱ったものを強くする。(エゼキエル 34:16)
預言者エゼキエルをはじめ、信仰者たちが待ち望んだ羊飼いは、
およそ2000年前に、すでに私たちのもとに来られた方です。
その方こそ、神の独り子であるイエス・キリストです。
イエスさまこそ、神が立てた、まことの羊飼いです。
エゼキエルが語ったように、イエスさまこそが、
「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」お方なのです。
つまり、イエスさまが私たちのもとに来てくださり、
私たちに模範を示してくださったのです。
目の前にいる人々をどのように愛するのか。
共に生きる人々にどのように仕えるのか。
傷つき、弱っている人々にどのように手を差し伸べるのか。
悲しみ、涙を流している人々のために、どのように祈るのか。
イエスさまがその模範を私たちに示してくださっているのです。
私たちは、イエスさまの歩みに倣って生きるように招かれています。
イエスさまがすでにそのような道を歩んでくださったから、
私たちの前には、キリストに仕える生涯を歩む道が開かれているのです。
そして、何より、イエスさまは私たちと共に歩んでくださるお方です。
ですから、キリストに仕える道を模索して悩む私たちと、
イエスさまはいつも一緒にいてくださり、
いつまでも諦めずに、同じ道を歩んでくださるのです。
キリストに仕えようと歩む生涯は、何と幸いなことなのでしょうか。
まことの羊飼いであるイエスさまが、生涯の終わりまで、
私たちに伴ってくださるというのですから。
イエスさまを通して、神は、いつも私たちと共におられるのです。
ですから、イエスさまをまことの羊飼いとして受け入れている皆さん、
あなた方は、何と幸いなことでしょうか。