「心の底から喜び踊れ」
聖書 ゼファニヤ書 3:14−20、フィリピの信徒への手紙 4:4−7
2018年 12月 16日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣牧師
かつて神は、預言者ゼファニヤを通して、
「喜べ」とイスラエルの民に命じました。
娘シオンよ、喜び叫べ。
イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。(ゼファニヤ 3:14)
14節に記されている、預言者ゼファニヤのこの言葉には、
全部で4つの動詞が用いられていますが、驚くべきことに、
そのすべては「喜ぶ」という意味をもっている動詞です。
つまり、神はイスラエルの民に向かって、
「喜べ、さぁ、あなたがたは大いに喜びなさい」と伝えているのです。
一体、何がそんなにも喜ばしいことなのでしょうか。
ゼファニヤはその理由について、このように述べています。
主はお前に対する裁きを退け
お前の敵を追い払われた。
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
お前はもはや、災いを恐れることはない。(ゼファニヤ3:15)
喜ぶべきその理由について、ゼファニヤは、
神が、イスラエルに対する裁きを退けたからだと語っています。
「退けられた神の裁き」とは、
ゼファニヤの言葉によれば、実に激しいものでした。
神は、ゼファニヤ書のその初めにおいて、
「地の面からすべてのものを一掃する」(1:2)と語っています。
それはまさに、無秩序や混沌がこの世界を覆うということでした。
この世界を造られた初めのとき、
神は、無秩序で混沌に覆われたこの大地に秩序をもたらし、
生命を与え、すべてのものを祝福されました。
そのような神の祝福の業が、神の裁きの結果として、
無秩序や混沌へと逆行するというのです。
このような神の裁き、神の怒りには、誰も耐えることができません。
私たちが持ち合わせるもの、何によっても、
神の決定の前に逆らうことなど出来ないのです。
そもそも、このような神の裁き、神の怒りを引き起こした原因は、
ゼファニヤによれば、他でもないイスラエルの民の側に、
つまり人間の側にありました。
ゼファニヤが生きた時代は、ユダの王ヨシヤが治めていた時代です。
ヨシヤ王は、エルサレムの神殿で律法の書を発見し、
その律法の書を読んで心を打たれ、
ユダの国に宗教改革を行った王として知られています。
ヨシヤ王が宗教改革を行う道筋を整えるために、
神が遣わした預言者が、ゼファニヤという人物でした。
つまり、大規模な宗教改革を行う必要があるほど、
腐敗し、不信仰な歩みをしていた南王国ユダにおいて、
ゼファニヤは預言者としての活動を行い、
イスラエルの民に向かって叫び続けたのです。
この都は神の声を聞かず
戒めを受け入れなかった。
主に信頼せず、神に近づこうとしなかった。(ゼファニヤ3:2)
それでは、このような事情があるにも関わらず、
なぜゼファニヤは、今日開かれた箇所においては、
「喜べ、大いに喜べ」と語っているのでしょうか?
それは、3章14節以降に記されている言葉が、
ヨシヤ王の宗教改革が始まった後に語られた言葉だからです。
ヨシヤ王の行った改革は、イスラエルの民の間に、
再び信仰を呼び起こすものでした。
その意味で、喜ばしい結果が得られた出来事でした。
しかし、その一方で、ヨシヤ王を中心に進められた改革は、
身や心を引き裂くような思いを人々に与えたでしょう。
これまで当然のように行ってきたことを
神の前で悔い改め、新しく歩み始めようとするとき、
手放さなければならないもの、
諦めなければならないものがあったことでしょう。
ですから、改革を行っているその時期は、
決して、手放しで喜べるような時ではなかったと思います。
しかし、神に立ち返り、神と共に歩みだそうとする人々の姿を
神は心から喜ばれました。
だから、神は、預言者ゼファニヤを通して、
イスラエルの民に向かって語りかけたのです。
「神の怒りは過ぎ去ったのだから、もう恐れる必要はない。
だから、喜べ、大いに喜べ。
神はあなたのゆえに喜び楽しみ
愛によってあなたを新たにし
あなたのゆえに喜びの歌をもって
楽しまれるのだ」(ゼファニヤ3:16−17参照)と。
このように、神に喜ばれ、
自分自身も喜び続けるような関係を
保ち続けることが出来るならば、何の問題もないように思えます。
しかし、聖書に記されている歴史を思い起こすとどうでしょうか。
改革を通して築き上げた、神との良好な関係は、長続きしませんでした。
イスラエルの国も、ユダの国も滅びました。
その理由のひとつは、彼らの不信仰によるものだと証言されています。
国は滅びた一方で、神を信じるユダヤの民は、
神の憐れみによって残されましたが、彼らは何度も不信仰に陥りました。
キリスト教会の歩みだって同じです。
およそ2000年の歴史において、
神に心から信頼できる時期もあれば、
それが出来ない時期もありました。
キリスト教会の歴史だけでなく、
私たちが自分たち自身の歩みを振り返り、今の自分自身を見つめる時、
決して、神の裁き、神の怒りが過ぎ去ったなどと
喜べないように思えることもあるでしょう。
それにも関わらず、
「神は、あなたのゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」と、
ゼファニヤが語るのはなぜなのでしょうか?
私たちのゆえに、神が喜ぶなどあり得るのでしょうか?
様々な罪や過ちを抱えるて生きているのに。
神を信じていながら、神などいないかのように生きてしまいがちなのに。
偏って人を愛したり、自分のことしか考えていなかったりするのに。
不完全な信仰者なのに。
あまりにも欠けや傷の多い、信仰者の群れなのに。
ですから、神が私たちに語りかけてくださった、
「あなたのゆえに喜ぶ」とは、実に、疑問の絶えない言葉といえます。
しかし、それにも関わらず、
神が私たちのゆえに喜んでくださるという言葉は、真実な言葉です。
それは、決して、私たちが自分たちの努力によって、
神の喜びを勝ち取ったわけでもなければ、
根拠のない喜びというわけでもありません。
神の側から私たちに働きかけ、
この言葉を、「神が、私たちのゆえに喜ばれる」という言葉を、
真実な言葉としてくださったのです。
神は、2000年前、ご自分の独り子であるイエス・キリストを
私たちのもとに送ることを通して、
ゼファニヤの言葉を実現してくださいました。
神は、イエス・キリストのゆえに、
私たちのことを喜んでくださっています。
それは、イエスさまが、
私たちと神との間に立ってくださったからです。
イエスさまが、十字架にかかり、
私たちの罪や過ちのすべてを赦してくださいました。
そのため、イエスさまのゆえに、
私たちは神から喜ばれる存在とされているのです。
まさに、イエス・キリストを通して、
ゼファニヤの言葉が真実な言葉として響き渡るのです。
「イエス・キリストのゆえに、
神の怒りは過ぎ去ったのだから、あなたはもう恐れる必要はない。
だから、喜べ、大いに喜びなさい。
神はあなたのゆえに喜び楽しみ
愛によってあなたを新たにし
あなたのゆえに喜びの歌をもって
楽しまれるのだ」(ゼファニヤ3:16−17参照)と。
そして、新約聖書の時代、使徒パウロは、
ゼファニヤの言葉に声を合わせ、
フィリピの教会と、キリストを信じるすべての者に向かって、
このように命じました。
主において常に喜びなさい。
重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4:4)
私たち信仰者に、神が与えてくださった贈り物の一つは、
どのような時にも、どのような場所においても、
どのような状況に立たされていたとしても、
常に喜ぶことが出来るということです。
私たちの喜びは決して、虚勢でも、現実逃避でもありません。
ゼファニヤが「イスラエルの王なる主は
お前の中におられる」と語り、
イエスさまが私たちのもとに来てくださったことによって、
明らかにされたように、
神は私たちといつも共にいてくださいます。
ですから、私たちはキリストと共にあり、
共に歩む喜びにいつも包み込まれています。
たとえ、今、私たちを取り囲む現実が
悲しみや嘆き、苦しみであったとしても、
パウロが言うように、「あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。
たとえ、死の恐怖が私たちを襲うときも、
私たちは恐怖を抱えながらも、
同時に、喜びを抱くことが許されています。
イエス・キリストにあって、復活の生命が約束され、
天の御国へと神が受け入れてくださる希望を
私たちは持っているからです。
悲しみや嘆き、悩みや不安、死や恐怖は、
いつも私たちから希望を奪い去ろうとするでしょう。
でも、私たちは、キリストにあって喜ぶことが出来ます。
神の守りを信じ、神の約束に
決して揺るがない希望を見つめることが出来るからです。
ですから、常に喜びなさい。
キリストにあって、神が共にいてくださることを喜びなさい。
いつもキリストにあって、心の底から喜び踊りなさい。
どうか、神によって与えられたこの喜びだけは、
決して失うことがありませんように。