「背負い、担う神」

背負い、担う神

聖書 イザヤ書 63:7−9、ヘブライ人への手紙 2:10−18

2018年 12月 30日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

この1ヶ月の間、私たちは主イエスの誕生を待ち望み、

そして祝ってきました。

人間となられた神の子を通して、

神が私たちと共にいてくださることを私たちは喜びました。

でも、きょう、改めて立ち止まって思い巡らしたいと思うのです。

神が私たちと共にいてくださるとは、

具体的にどういうことなのでしょうか。

さきほど読んでいただいた、預言者イザヤの言葉を通して、

私たちはその驚くべき恵みを知ることが出来ます。

かつてイザヤは、イスラエルの民に向かってこのように語りかけました。

 

わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を

主がわたしたちに賜ったすべてのことを

主がイスラエルの家に賜った多くの恵み

憐れみと豊かな慈しみを。(イザヤ 63:7)

 

この言葉は、神の愛や神の力に疑問を抱き、

「主の手が短くて救えないのではないか」と叫んだ人々に向かって、

イザヤが語った言葉です。

「神はなぜこんなにも辛く、苦しい中を

私が歩むことを許されるのだろうか?

現実の悲しみや悩みから私たちを救い出すほどの力が

神にはないのではないだろうか?

社会の悪や、私たち自身の弱さの前で無力な私たちを

力づける力など、神にはないのではないだろうか?」

そのような思いを込めて、人々は、

「主の手が短くて救えないのではないか」と叫んでいたのです。

このように神の力に疑問を抱く人々に対して、イザヤが試みたことは、

神の憐れみや慈しみを思い起こさせることでした。

慈しみと訳されている言葉は、

ヘブライ語でヘセドという単語が用いられています。

ヘセドとは、神の契約に基づく愛を指す言葉です。

つまり、感情的に、気分の高まりや浮き沈みによって、

人を愛したり、愛さなかったりするのが神の愛ではありません。

神が私たち人間との間に結んでくださった契約に基づいて、

神は私たちを愛し続けてくださっています。

神の契約とは、イスラエルの民を祝福すること。

そして、イスラエルの民を通して、すべての民を祝福することです。

つまり、神が私たちとの間に結んだ契約のその内容は、

神がすべての人を愛し抜くという約束です。

この契約に基づいて、神は私たちを愛される、誠実なお方です。

そして、神にとって愛とは、具体的な行動を伴うものです。

神の愛は、イスラエルの歴史の中でどのように表されてきたでしょうか。

力もなく、小さなひとつの民族を

ご自分の民として選ぶことを通して、神はその愛を示されました。

人々から何度裏切られようとも、

神は変わらずに、救いの手を伸ばしてきました。

そして、神はイスラエルに語り続けてきました。

「あなた方は確かにわたしの民であり、私の子である」と。

どれだけ神のもとから離れようとも、

どれだけ神を裏切ろうとも、

神は、イスラエルの民をご自分の子と呼び続けました。

まさに、契約に基づいて、神はイスラエルを愛し続けたのです。

しかし、イスラエルの民は自分たちの現実を見つめたとき、

神がこのような方であるにも関わらず、神に疑問を抱きました。

「苦しいことが何度も起こるじゃないか。

悲しいことも、悩ましいことも、相変わらず訪れるじゃないか。

神の手が短いから、神は私たちを救えないんじゃないか」と。

そのような疑問や不満を心に抱く人々に対して、

預言者イザヤは、このように語りかけました。

 

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし

御前に仕える御使いによって彼らを救い

愛と憐れみをもって彼らを贖い

昔から常に

彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ63:9)

 

イザヤが人々に伝えたことは、神が共にいてくださり、

神が私たちと共に苦しんでおられるということでした。

いや、神は私たちと共に苦しむばかりでなく、

苦しみの中にいる私たちを背負い、

私たちの悩みや弱さのすべてを担ってくださる方だと、

イザヤは伝えたのです。

この預言者の言葉が真実であることが、

イエス・キリストの誕生を通して、誰の目にも明らかになりました。

神は、イエスさまを私たちに与えることを通して、

すべての人と共にいることを選んでくださいました。

イエスさまを通して、神は、

すべての人の苦しみを自分のものとして背負い、

その苦しみを担うことを選ばれました。

まさに、神の子であるイエスさまは、

私たちのために苦しむために生まれてきたと言えるでしょう。

では、イエスさまを通して神が私たちと共にいて、

私たちと共に苦しむことに、どのような意味があるのでしょうか。

ヘブライ人への手紙は、イエスさまが経験した苦しみの意味を

このように描いています。

 

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、

忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、

すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、

試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

(ヘブライ2:17−18)

 

ヘブライ人への手紙の著者は、

「イエスさまは神のみ前で忠実な大祭司である」と、私たちに伝えます。

大祭司は、神の前に犠牲を捧げ、

人々に向かって罪の赦しを宣言し、

神と人の間に立って、人々のために祈る存在でした。

イエスさまはそのような働きを、

遠い天の上から行っているわけではありません。

私たち人間のただ中に立って、

イエスさまは大祭司としての働きを行いました。

罪の赦しは、当時の祭司が行っていたように、

動物を犠牲に捧げ続けることによって行ったわけではありません。

イエスさまは、自分自身が罪の赦しの犠牲として

十字架にかけられたことを通して、

すべての人の罪の赦しを実現しました。

十字架の上での死を迎えるまでに

様々な苦しみを経験したことを通して、

イエスさまは、私たちが生涯を通して経験する苦しみが、

どれほどのものなのかを身をもって体験されました。

その意味で、イエスさまは、私たちが苦しんでいる姿を

遠いところから見つめて、祈っているわけではありません。

イエスさまは、私たちのただ中に来て、

私たちの苦しみのすべてを背負い、自分のものとして担い、

ご自分も苦しみながら、とりなし祈ってくださっているのです。

つまり、イエスさまを通して神が共にいるということは、

神が共にいてくださると私たちがぼんやりと考えて、

心に温かな気持ちを抱くというような、

抽象的なものでは決してないのです。

私たちが思うよりも、もっともっと具体的なものです。

神が私たちと共にいて、私たちの苦しみも、嘆きも、悩みも、失望も、

すべて共に背負い、すべて共に担ってくださるということです。

イエスさまは、その苦しみや嘆き、悩みや失望が終わる日まで

私たちと共に歩んでくださいます。

そして、苦しみや嘆きが喜びへと変えられたとき、

その現実を共に喜んでくださいます。

この1年を振り返る時、私たちは様々なことを経験してきました。

喜ばしいこともあれば、悩みで溢れる日々もありました。

今もそのただ中にある方もいるかもしれません。

心に蓋をしてしまいたくなるような経験だってあったかもしれません。

私たちの人生は、実に、悩みも、悲しみも、苦しみも

尽きることがありません。

次から次へと私たちのもとにやってくるのです。

しかし、イエスさまが私たちのもとに来てくださったことを通して、

ひとつのことが明らかになりました。

私たちが経験する喜びも、抱える苦しみも、悩みも、

流す涙も、心の重荷も、すべて神は知っていてくださいます。

そればかりでなく、神は、

そのすべてを共に背負い、担ってくださるというのです。

私たちの神は、私たちが苦しみのただ中にあるとき、

私たちと共に苦しんでくださる方なのです。

そして、苦しみや悩みだけでなく、私たちに

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう」(マタイ 11:28)と語りかけ、

私たち自身を背負って、神は私たちと共に歩み続けてくださいます。

この1年、神は私たちを背負い、担ってくださいました。

喜びのときも、苦しみのときもです。

そして、これからも変わらず、

神は私たちを背負い、担い続けてくださいます。

私たちの生涯の終わりの日まで。

天の御国へと向かって歩む、私たちの旅路の終わりまで。

神はいつまでも私たちを背負い、担い続けてくださるのです。

ですから、私たちは日々の重荷や苦しみを

イエスさまのもとへといつも持っていきましょう。

イエスさまが必ずその苦しみや悩みを共に担ってくださるはずです。

そして、あなた方が神に祈れないほどに心沈み込むときは、

あなた方を背負いながら、神は歩んでくださるのです。

神は、私たちを背負い、私たちの苦難を担ってくださる方だからです。