「神は諦めずに語り続ける」

「神は諦めずに語り続ける」

聖書 サムエル記 上 3:1−10、ヘブライ人への手紙 1:1−4

2019年 1月 13日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

私たちの日常は、言葉に満ちています。

私たちが行くところ何処においても、

様々なものが、様々な人たちが、私たちに語り掛けてきます。

家の中での家族との会話。

駅のホームのアナウンス。

行き交う人々の会話。

テレビを通して聞く言葉。

スマホやパソコンの画面から目に入ってくる情報。

街を歩けば、広告が目に映り、

流行りの音楽が絶えず鳴り響いています。

このように思い巡らしてみると、私たちは普段から、

実に、多くの言葉に囲まれていることがわかるでしょう。

私たちはそれらの言葉を心に留めたり、

右耳から左耳へと抜けていくように、忘れたてしまったり、

まったく気に留めなかったりします。

様々な言葉に、怒りを覚えたり、悲しんだり、

喜んだり、気まずくなったりします。

このように、語り掛けられる言葉に対する

私たちの反応は実に様々です。

さきほど読んでいただいたヘブライ人への手紙は、

「神は、語られた」という言葉から始まっています。

 

神は、かつて預言者たちによって、

多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた(ヘブライ1:1)

 

著者は、この手紙をはじめるにあたり、

この文書が朗読されるのを聞く人々の過去に注意を向けさせます。

「今、神の言葉が語られている」ではなく、

何よりも、かつて、神は多くのかたちで、様々な方法によって、

あなた方の先祖たちに語り続けてきた、と。

このように語ることを通して、著者は、

旧約聖書の時代に、神が人々にどのように働きかけてきたかを

思い出すようにと読者に伝えているのです。

かつて神は、一人の男を選び出し、祝福し、

土地を与えるという約束を与え、旅に出るように伝えました。

神は、ご自分が選んだイスラエルの民を通して、

この地上のすべての人々を祝福すると、約束されました。

律法の書や預言者たちを通して、

神は、警告や希望の言葉を語り掛けました。

時には、幻や夢を通して、信仰者に語りかけることもありました。

また、動物の犠牲という象徴を用いて、神は人間に語り掛けました。

このように、実に様々な方法を用いて、

あらゆる時代に、あらゆる場所において、

そして、あらゆる人々に対して、神はご自分の思いを語り続けました。

神が様々な方法を用いて、

何度も何度も人々に語り続けたのには理由がありました。

それは、そもそも、人々が神の言葉を聞かなかったからです。

それでも、神は決して諦めず、形を変え、様々な方法を用いて、

イスラエルの民にご自分の思いを伝え続けたのです。

自分のもとから離れていった人々を、

ご自分の民として連れ戻すために、

神はいつの時代も語り続けたのです。

愛して止まない人間一人ひとりを、

愛に溢れる、喜びの交わりへと引き戻すために、

神は人間に夢や幻を与え、預言者たちを遣わし続けたのです。

しかし、旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を見る限り、

神に背くことは、彼らの歴史の大半でした。

神が諦めずに何度語りかけようとも、

イスラエルの民は神の言葉を聞かずに、自分勝手に歩み続けました。

神が自分たちに語りかける言葉は、

普段自分たちを取り囲む様々な言葉のひとつに過ぎませんでした。

そのため、イスラエルの民は、自分が好む言葉、

自分にとって都合の良い言葉にばかり

耳を傾けていたのです。

このようなイスラエルの民の歩みは、

私たちと決して無関係ではありません。

私たちもまた様々な言葉をこの耳で聞いています。

多くの語り掛けがある現実の中で、私たちは一体、

神からの語り掛けにどれほど耳を傾けられているのでしょうか。

神の語り掛けに耳を傾けず、自分の生きたいように生きることを好む

そのような自分がここにいることに気付かされます。

神が諦めずに語り続けているのに、耳を傾けられないのは、

何もイスラエルの民だけの問題ではないのです。

ところで、「聞かない」ということは、なぜ深刻な問題なのでしょうか。

「聞かない」ということ。

それは、相手の存在を無視すること、否定することです。

語りかけてくる相手の言葉を聞かないことによって、

私たちは、その人の人格を否定することが出来てしまうのです。

「聞かない」ことは、相手の存在をむなしくする宣言といえます。

「聞かない」ということによって、

私たちは目の前にいる相手を否定しているのです。

ですから、神の言葉を「聞かない」ということは、

神との交わりを拒否する姿といえるでしょう。

神の言葉を聞く存在として造られた、

私たち人間が抱える深刻な問題。

それは、神の言葉を「聞かない」という罪なのです。

しかし、そんな私たち人間を見たとき、

神は交わりを諦めることはありませんでした。

神は、それでも愛そうと決断し続けてくださったのです。

それでも神は私たち人間を愛し、

私たちと関わりを持とうとし続けたのです。

だから、神は、様々な方法で語り続けたのです。

神の語り掛ける言葉のその背後には、

私たちに対する神の愛があるのです。

たとえ、それが厳しい裁きを含む言葉だったとしても、

その根底には、神の愛が豊かに溢れているのです。

しかし、旧約聖書に記されている歴史が示しているのは、

神がどれほど語り掛けても、神の言葉を聞かず、

他のものにばかり耳を傾け、

心を奪われ、罪を犯し続ける人間の姿でした。

神がいくら語り掛けても、

人々に真の救いをもたらすことができなかったのです。

私たちはこのような現実に絶望しなければならないのでしょうか。

そんなことは決してないと、ヘブライ書の著者は確信しています。

絶望的な状況の中に、確かに希望の光がある。

「光あれ」とこの世界に語りかけた神は、

救いを与えてくださったと確信し、

2節でこのように述べているのです。

 

この終わりの時代には、

御子によって(神は)わたしたちに語られました。(ヘブライ 1:2)

 

著者は、神の言葉に耳を傾けようとしない人々が、

真実な神の民と変えられるために、

御子によって、つまりイエス・キリストによって、

決定的な時が訪れたと語っています。

2節以降は、神の言葉であるイエスさまを通して、

神が私たちに語り掛けてくださったその内容が記されています。

つまり、イエス・キリストを見つめることを通して、

私たちは神の言葉を聞くことが出来ると、著者は主張しているのです。

御子とは、イエス・キリストとは、一体誰なのでしょうか。

著者によれば、彼は、神のもとにいる者です。

イエスさまによって、世界は創造されました。

神は、イエスさまを救い主として、天から地上へと遣わしました。

そして、イエスさまは、「人々の罪を清め」るために、十字架に架かり、

復活した後、「天の高い所におられる

大いなる方の右の座に」座りました。

このようにして、イエスさまを見つめ続けることによって、

私たちは、神の創造のわざを思い起こし、

自分がどのような存在として造られたのかを

思い起こすことが出来るのです。

イエスさまの地上での生涯、そして十字架と復活の場面を思い起こし、

イエスさまがどのようにして

私たちに救いをもたらそうとされたのかを思い起こすのです。

神の言葉を聞かない私たちのために、

イエスさまは十字架にかかり、私たちの罪を赦し、

私たちと神との交わりを回復してくださいました。

そして、イエスさまは、

私たちのこの目を、天の神へと向けるために天に昇りました。

私たちがどこへ向かって歩んでいるかを示すために。

そう、私たちが天の御国へと向かう旅人であることを

思い起こさせるために、ヘブライ書の著者は、

「イエス・キリストを見つめ続けなさい」と、

私たちに語り続けているのです。

「主イエスを通して、神の語り掛ける声を聞きなさい」と。

様々な言葉が私たちの日常に溢れ、私たちに語りかけてくる中で、

この神の言葉のみが、私たちを神の民へと造り変えます。

もちろん、神が語りかける言葉以外からでも、

私たちは一時的な希望を見出すことが出来るでしょう。

今この瞬間、私たちが楽しめる道や、

今この瞬間や近い将来の希望を語る言葉は、世の中に溢れています。

そのような声に耳を傾けることは簡単なことです。

でも、「今」のみを保証するものは、

決して、私たちに永遠を保証するものではありません。

しかし、神が私たちに語りかける言葉は、私たちを神の民とし、

私たちに永遠の命の希望を与えるものではありませんか。

そして、私たちが見つめるように促されている、

神の真の言葉であるイエス・キリストは、

私たちに罪の赦しと復活の希望を与えてくださる方です。

ですから、この方を、イエス・キリストを見つめるということは、

決して盲目的な歩みではありません。

私たちが信じるのは、抽象的な思想でもありません。

キリストがこの地上で何をしたのかを見つめる歩みでもあるのです。

そのような意味で、とても具体的なことです。

敵を愛せと彼は語り掛けてきます。

また、「行きたくない場所へ行け」とも言われます。

キリストを見つめる時、私たちは彼からの語り掛けを聞くのです。

そのような言葉は、今、私たちを苦しめるかもしれません。

しかし、私たちは今だけを見つめて歩むのではありません。

私たちを神の民とするためにイエスさまが十字架にかかり、

死を耐え忍んだ姿を覚える時、

希望を持って、今の時を耐え忍ぶ必要が

私たちにもあることに気付かされます。

私たちは、将来に約束されている希望を見つめて歩む神の民です。

私たちが神の民であり続けるために、

神は私たちに諦めず語り続けてくださっています。

私たちが神の民として抱く希望や喜びを見失わないために、

神はいつも私たちに語り続けてくださっています。

どうか、神の声にいつも耳を傾けることが出来ますように。

神の言葉であるイエス・キリストに

いつも目を注ぎ続けることが出来ますように。