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「惜しまない愛」

「惜しまない愛」

聖書 申命記 15:7−11、マタイによる福音書 26:1−16

2019年 3月 10日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣

 

「もったいない!」

「何でこんな無駄遣いをするんだ!」

「どうしてこんなに時間やお金を無駄に使ってしまうのだろうか?」

誰もがきっと、これまでに、

そんな思いを何度も抱いてきたことでしょう。

そのような思いを私たちが抱いてしまうのは、

自分たちが持っているものには限りがあると気づいているからです。

何もないところからお金が降ってくることはありません。

好き勝手欲しいものを買っては、破産してしまいます。

時間が無限にあるわけもなく、

私たちには与えられているのは、

1日に24時間、1年に365日です。

すべての物事に時間的な制約や期限があります。

何よりも私たちの身体は衰えていくものです。

この地上での生命や身体を永遠に用いることが出来るわけありません。

人それぞれに与えられている能力や才能だって、

自分という人間の体力や時間をすり減らして用いていくわけですから、

確実に限りのあるものです。

この世界に存在するすべてのものには限りがあります。

そして、私たち自身に出来る限界もあります。

だからこそ、私たちは物事に優先順位をつけて、

大切だと思うものを大切にします。

そして、優先度の低いものに財産を注ぐことは

無駄や浪費だと感じるわけです。

そんな私たちにとって、

名もなき女性がイエスさまに高価な香油を注いだ物語は、

私たちが当然と思っている価値判断やそれに基づく行動が、

「本当にそれで良いのか?」と、

私たちに改めて問いかけてくる物語だと思います。

ある女性がイエスさまに高価な香油をかけたとき、

イエスさまの弟子たちは「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。

高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と、

疑問の声を上げました。(マタイ26:8−9)

彼らがこのような発言をするのも当然です。

ユダヤの社会において、貧しい人々を助けるために施しをすることは、

善い行いのひとつとして認識されていました。

マタイは、この女性の行動が

どのような動機でなされたかについては語りませんが、

おそらく、イエスさまに尊敬や愛を示すものとして、

当時の人々は彼女の行動を受け取ったことでしょう。

でも、その様子を見た弟子たちはこの女性に問いかけました。

「イエスさまに対する愛を示すにしても、

貧しい人々や苦しんでいる人々がいることがわかっているのに、

このような高価な香油をすべてイエスさまのために使い切るのは、

果たして善いことなのか?」と。

でも、弟子たちのそのような発言を聞いていたイエスさまは、

彼女の行いについて、「この人はわたしに良いことをしてくれた。

わたしの体に香油を注いで、

わたしを葬る準備をしてくれた」と言います。

イエスさまが生きたユダヤの社会において、

死者の葬りも善い行いのひとつと数えられていました。

何よりも、これから暴力にさらされて、

死ぬことになる自分を葬る準備として、

彼女は高価な香油を自分に注いでくれたのだと、

イエスさまは彼女の行動を受け止めました。

そう、彼女のこの行動は、

イエスさまがこれまでご自分の死について語ってきたことを

真剣に受け取った応答なのです。

もちろん、イエスさまはこの時、貧しい人々への施しと、

死者の葬りの準備のどちらが善いことかについて語ってはいません。

イエスさまは「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、

わたしはいつも一緒にいるわけではない」と語り、

どちらが緊急性のある事柄なのかに注目をさせています。

ですから、この物語を通して、

貧しい人々の存在がないがしろにされているわけではありません。

貧しい人々への施しよりも、死者の葬りの方が、

イエスさまのために直接何かをすることの方が、

より尊く、素晴らしいことだと順位づけられているわけでもありません。

そうではなく、イエスさまが死に向かおうとしているその現状に、

緊急性を感じたこの女性が、自分に出来る限り、精一杯の愛を込めて、

イエスさまに愛を示したというのがこの物語が伝えていることです。

つまり、この物語は、死者を葬ることも、

貧しい人々に施しを与え、手を差し伸べることも、

イエスさまのために直接何かをすることも、

どれも善いことであると伝えています。

ですから、その時々において、何が正しかったかで判断するよりも、

それが真実な、心からの愛に基づいているかどうかで

イエスさまは私たちの行いを判断されるのでしょう。

高価な香油を注いだ女性の物語は、

偏った自己愛に満ちた、ふたつの物語に挟まれています。

ひとつ目の物語には、祭司長たちや長老たちが

イエスさまを捕らえ、殺そうという相談が記されています。

しかし彼らは、祭りが行われている間にイエスさまを逮捕すると、

民衆の反感を買い、

自分たちの立場が危うくなってしまう危険があったため

人々の目を気にして、その計画を実行に移すことを先延ばしにしました。

神が自分たちの行いや決断をどのように受け止めているかよりも、

人々の反応の方が気になって仕方がない、

自分の立場を守ろうとする、

ユダヤの宗教的指導者たちの姿が描かれています。

そして、高価な油を注いだ女性の物語の後には、

イスカリオテのユダが祭司長たちとの間に、

イエスさまを銀貨30枚で引き渡す約束を結ぶ物語が描かれています。

イエスさまを引き渡そうとしたユダの動機はわかりません。

しかし、マタイによれば、

イエスさまを銀貨30枚で引き渡す約束を結び、

彼は自らの貪欲に溺れてしまうのです。

そして、それらの物語に挟まれている、

高価な香油をイエスさまに注ぐ女性の物語において、

イエスさまの弟子たちは、イエスさまに気に入られ、

自分たちこそがイエスさまの教えを受け取っている優秀な弟子だと、

イエスさまや周りの人々から認められたいと願って、

優等生の模範解答をしています。

このような価値判断を持つ人々に対して、

自分を中心に世界が回り、自分のことばかり愛する人々に対して、

イエスさまに香油を注いだこの一人の女性の行動を通して、

別の道があることが示されました。

「イエス・キリストに従って歩もうとする道は、

自分自身のためだけに与えられたものを用いる道ではない。

今自分に与えられているものを、

イエスさまのために、神のために用いる道だ」と、

この物語は私たちに宣言しているのです。

それでは、神のために与えられているものを用いる道とは、

一体どのような道なのでしょうか。

イエスさまは、旧約聖書を通して示された神の命令を要約して、

私たちにこのように伝えました。

 

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、

あなたの神である主を愛しなさい。』

これが最も重要な第一の掟である。

第二も、これと同じように重要である。

『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:37−39)

 

神を愛し、隣人を自分のように愛する。

これがイエスさまが私たちを招いておられる道です。

このような道を歩む私たちに対して、

この物語は、私たちにいつも問いかけているのです。

「今、自分に与えられているひとつひとつのものを

あなたは一体誰のために用いるべきなのだろうか。

今日、あなたたちは一体誰に愛を示すべきなのだろうか。

誰と一緒に過ごし、誰のために時間を割くべきなのだろうか。

これからの人生において、何のために

与えられているお金や物、時間や能力を用いるべきなのだろうか」と。

究極的に、それは神のためになるようにと願いながら用いて欲しいと、

そのような願いをもって、マタイはこの物語を私たちに紹介しています。

他人の目から見ると、神の愛に促されるそのような行動は、

時として、無駄なことのように見えるかもしれません。

周囲の声に耳を傾け過ぎて、愛する機会を逃してしまう場合もあります。

だからこそ、私たちは神に祈り求めながら、

日々の働きに励みたいと思うのです。

大切なものは数多くあります。

どうか、その中から本当に必要なものを選び取って、

愛を注ぐことができますように。

神の導きの中で、愛すべきもの、愛すべき存在、

愛すべき環境を見つけた時に、

惜しまずに愛を注ぐことが出来ますように。

「主よ、どうか惜しまずに愛する心を私たちにお与えください」。