「神はあなたを決して見捨てない」
聖書 申命記 7:6−8、マタイによる福音書 26:36−56
2019年 3月 24日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣
マタイは、ゲツセマネと呼ばれる園で、
イエスさまが「悲しみもだえ始めた」と記しています。
悲しみもだえるイエスさまは、
「わたしは死ぬばかりに悲しい。
ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と語り、
弟子たちの前で自分の抱える弱さをさらけ出します。
そして、神の前で、「父よ、できることなら、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈り、
イエスさまは自分の抱える苦しみや悲しみを吐き出しました。
こんなにも弱り果てたイエスさまを
弟子たちはこれまで見たことがありませんでした。
この時、イエスさまはなぜこんなにも苦しんでいたのでしょうか。
なぜこんなにも悲しんでいたのでしょうか。
それは、イエスさまがこれから経験することと関係がありました。
死が、人間の抱える罪や弱さが、この世界の悪が、
まさにこれからイエスさまに襲いかかろうとしていました。
イエスさまは、弟子のひとりである
イスカリオテのユダに裏切られようとしています。
同胞のユダヤ人たちにイエスさまが逮捕されたとき、
他の弟子たちは皆、イエスさまを見捨てて逃げてしまいます。
そして、これから十字架刑にイエスさまは定められるのです。
十字架へ至るその道において、イエスさまは、
周囲の人々から誤解され、あざけられ、
唾を吐きかけられ、ののしられながら死んでいきます。
これまでイエスさまを歓迎し、
イエスさまに期待していたあのユダヤの人々が、
手のひらを返したように、
「この男を十字架にかけろ」と叫び続け、
イエスさまを徹底的に拒絶したのです。
イエスさまがこれから経験しようとする苦しみは、
それで終わりではありませんでした。
愛する弟子たちから裏切られ、見捨てられ、
人々から拒絶されたばかりでなく、
その上、イエスさまは最終的には、
神からも見捨てられます。
イエスさまは、これから経験する
これらの苦しみや悲しみを十分によくわかっていました。
想像すればするほど、胸が苦しくなります。
だから、イエスさまは悲しみもだえながら、
弟子たちに語りかけたのです。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。
ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と。
でも、弟子たちはイエスさまの抱えるその悲しみや苦しみに
寄り添うことができません。
そばで目を覚まして欲しいとお願いされたのに、
彼らは眠ってしまうのです。
そう、イエスさまが悲しみもだているこの時、
イエスさまが抱えたこの苦しみや悲しみに
寄り添う者は誰一人としていなかったのです。
そして、自分が神の前で祈っている間、
いつの間にか眠ってしまった弟子たちを見て、
イエスさまは「心は燃えても、肉体は弱い」と言いました。
この言葉は、心では神に奉仕したいと常に願っているけれども、
体が疲れているためそうすることが出来ないという意味ではありません。
イエスさまのこの言葉が意味するのは、
私たち人間が心に抱える相反する思いです。
神に仕えたい思いと、
自分中心に生きたいと願ってやまない思い。
そのような対立する思いを、
私たち人間は誰もが抱えていると、
イエスさまは弟子たちに伝えられたのです。
イエスさまの願いを聞き入れられず、
イエスさまに寄り添えない弟子たちは、
この対立や葛藤の中で生きています。
彼らはまさに、神の霊が促す生き方ではなく、
自分の思いや罪が促す方向に
押し流されている存在の代表だったといえるでしょう。
このように、イエスさまは愛する弟子たちからも寄り添ってもらえません。
とてもじゃないが耐え切れない、
あまりにも大きな悲しみと苦しみに襲われたため、
イエスさまはこのとき、神の前で強く願いました。
父よ、できることなら、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)
しかし、イエスさまの一番の願いは、
この苦しみや悲しみが去っていくことではありませんでした。
「しかし、わたしの願いどおりではなく、
御心のままに」と、イエスさまは続けて祈っています。
神の願いこそが、実現しますように。
これが、イエスさまが何よりも求めたことでした。
神の願いとは、すべての人の罪を赦し、
救いの喜びと永遠の命の希望を与え、
神との愛に溢れる、生きた交わりを開くことでした。
このような願い、神の救いの計画を実現するために、
神はイエス・キリストを用いられたのです。
すべての人に救いの道を開くために、
私たちの罪のすべてをイエスさまは背負われました。
私たちの抱える罪が赦されるために、
罪のないイエスさまが罪人として十字架にかけられて、
すべての人と神から見放されて死ぬ必要がありました。
だから、イエスさまは悲しみ、苦しみました。
しかし、そうは言っても、
神の計画が実現されるためとわかっていたとしても、
自分が犠牲となり、神からも人からも見捨てられることは、
とても耐えられるものではありません。
イエスさまは、神でありながら、全き人となられた方です。
ですから、この苦しみに
イエスさまが耐えられるはずはなかったのです。
それなのに、なぜ神は、
ご自分の愛する子を見捨てるという、
この決断を下すことが出来たのでしょうか。
そして、差し迫る死や、神と人々からの拒絶を前にした時、
苦しみや悲しみを覚えながらも、なぜイエスさまは、
神のこの決断に心から従うことが出来たのでしょうか。
それは、イエスさまがあなたを愛しているからです。
神が、あなたを宝の民とみなしてくださっているからです。
旧約聖書の申命記によれば、
宝の民とは、イスラエルの民のことを指します。
イスラエルの民がそれほどまでに大切にされたのは、
イスラエルの民を祝福することを通して、
地上のすべての民を祝福するという
神の計画、神の約束があったからです。
つまり、その意味で、神にとって、
すべての民が神の宝の民であるといえるでしょう。
ですから、神はあなたを見捨てたくないのです。
あなたをどこまでも愛し抜きたい。
だから、神はイエスさまに私たちの罪を
すべて背負わせる決断をされたのです。
だから、イエスさまは神の意思に従いました。
イエスさまの十字架の死と、それに至るすべての苦しみこそ、
神があなたを愛されたという決断であり、
神はあなたを決して見捨てないという証しなのです。
私たちの人生は、
このような、神の愛に包まれています。
神は最後の最後まで、あなたを決して見捨てません。
たとえ、死の力が襲って来ようとも、
イエスさまに結ばれているあなたたちには、
復活の希望が与えられています。
永遠の生命の希望が与えられています。
驚くほどに、信じられないほどに、
私たちは神から愛されているのです。
この驚くほどの神の愛は、
あなたを変える力を持っています。
神の思いと自分の思いが対立する時、
自分の思いを優先し、神など無視して生きてしまうのが私たちの現実です。
しかし、神の愛に包まれる今、
あなたは神の思いに従うことが出来ます。
イエスさまの犠牲を通して、罪が赦され、
あなたは新しい者とされたのですから。
あなたは今、主キリストにあって、
新しい者とされているのです。
神があなたを見捨てず、
愛し続けておられるからです。
どうか、あなたを決して見捨てることなく、あなたを愛し続け、
あなたを日々新しい者に、キリストに似た者に造り変える、
神のみわざにいつも信頼して、日々歩むことができますように。
祈りましょう。
【祈り】
恵み深い主である神。
あなたがどれほど苦しみを覚えながら、
私たちを愛しぬくために、
イエスさまを十字架にかけることを決断されたことを
私たちは知りました。
私たちがどのような存在であろうとも、
私たちを愛し、私たちを決して見捨てない、
あなたのその愛と憐れみを覚えて感謝します。
どうか私たちがあなたのその愛に応える生き方を
選び取ることができますように。
何よりも、あなたの思いを知って、
神の喜びを求めて、日々歩むことが出来ますように。
私たちの歩みを導いてください。
そして主よ、どうか今語った言葉を確かなものとして、
聞いた者の内に真理を証しし、
聖霊によってその者の心に記してください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。