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「弱さを包み込む主イエスの愛」

聖書 イザヤ書 25:4-9、マタイによる福音書 26:57-75
2019年 3月 31日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣

鶏の鳴き声が聞こえると、きっと誰もが朝の訪れを感じ、
夜が明けたことを知ることでしょう。
新約聖書の時代は、私たちが生きる現代とは違って、
夜は深い闇で包まれています。
あったとしても、僅かな光です。
月明かりや、最低限の灯火によって、
夜、人は光を得ました。
だからこそ、朝の訪れは喜びに溢れる時でした。
暗闇に覆われ、恐怖を覚える夜が過ぎ去るのですから。
その意味で、早朝に聞こえる鶏の鳴き声は、
喜びの訪れさえも予感するものです。
でも、この時、ペトロが聞いた鶏の鳴き声は違っていました。
鶏の鳴き声を聞いた時、ペトロは泣き崩れてしまいます。
涙は止まらず、激しく泣き続けます。
そう、鶏の鳴き声を聞いた瞬間、
自分が何をしているのかにペトロは気づいてしまったからです。
鶏の鳴き声が聞こえた時、ペトロはイエスさまが
「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と
自分に語りかけた言葉を思い出しました。
「自分がイエスさまのことを知らないなど言うはずない」。
ペトロは、心から強くそう思っていました。
でも、実際は違いました。
イエスさまが逮捕され、裁判にかけられているとき、
ペトロは周りの人たちから、
「あなたもイエスと一緒にいたでしょ?」と尋ねられました。
その時、ペトロは呪いの言葉さえも口にしながら、
イエスさまとの関係を否定します。
「私は彼の仲間なんかじゃない」。
「ナザレのイエス?
そんな男のことなど知らない。
何を言っているのかわからない」。
ペトロが抱えた弱さが明らかになった瞬間でした。
自分がイエスさまの弟子であると知られたら、
自分も危険な目にあってしまうかもしれない。
すぐさまペトロの頭の中で、損得勘定が始まり、
彼は瞬間的に、イエスさまとの関係を否定します。
それを訂正することなどありません。
ただただ、自分の身を守るために、
彼はイエスさまと自分は無関係であると言い続けます。
そんな時に、鶏の鳴き声が聞こえてきたのです。
「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
イエスさまの言葉も同時に思い出し、
ペトロは自分の弱さや醜さに気づきました。
もう、耐えきれない。
愛する人を簡単に裏切ってしまう。
なんて自分は弱く、惨めな存在なんだ。
ペトロは嘆き、悲しみながら、涙を流し続けました。
イエスさまの受難物語に記されている、
ペトロのこの物語はとても印象的な物語です。
この物語を読む時に、
ペトロと自分を重ね合わせてしまうのは、私だけでしょうか。
きっと私だけではないと思います。
イエスさまのように生きたい。
でも、イエスさまのようにはなれない。
イエスさまが愛したように、人を愛したい。
イエスさまが神に心から従ったように、
神の思いをしっかりと受け止めて、歩みたい。
でも、神に背く歩みをしてしまう。
福音書に記されているイエスさまの姿を見つめれば見つめるほど、
私たちは自分の抱える弱さや
惨めさと出会ってしまいます。
そして、イエスさまの言葉を真剣に聞けば聞くほど、
神が願う存在とは、あまりにも遠くかけ離れている
弱さや欠けた部分を抱える自分と出会うのです。
そうです、ペトロの涙は、私たちの涙でもあります。
自分自身の弱さや、信仰の足りなさを嘆き、
自分の罪深さに悲しみ、傷を負う、
私たちの流す涙です。
目の前の人を愛したいのに、
軽はずみな言葉で傷つけてしまい、
後悔し、自分に失望する、私たち自身の涙です。
神を信じていると言いながら、
神などいないかのように振る舞いがちな弱さを抱える、
私たち自身の涙です。
しかし、神は聖書を通して、
あなたは失望する必要はないと、語りかけてくださっています。
私たちの抱える弱さを、
神はイエスさまを通して包み込んでくださっています。
ペトロがイエスさまを否定した時、
イエスさまは何をしていたかご存知でしょうか。
イエスさまは、裁判の席に黙って立っていました。
根拠のない罪を問われようとも、黙って立っていました。
イエスさまが裁判の席に立ち続けたのは、
神の救いの計画が実現するためでした。
すべての人の罪を背負い、
すべての人に罪の赦しを与えるために、
イエスさまは死刑判決を受け、十字架にかけられました。
神は、私たちを愛し、私たちの罪を赦したいと願ったから、
この計画を実行されました。
イエスさまは、私たちを心から愛しておられたから、
神のこの計画に最後まで従い抜きました。
実に、私たちのこの罪を赦すために、
イエスさまはこの裁判の席に立ち続けてくださったのです。
そして、私たちの抱える弱さをすべて包み込むために、
私たちが抱える傷を癒やすために、
イエスさまは立ち続けてくださいました。
この決断をイエスさまが下したのは、
イエスさまが、あなたを愛しておられるからです。
たとえ私たちが弱く、脆い、信仰をもっていたとしても、
どこまでも愛のない人間だったとしても、
あなたを最後まで愛しぬくとイエスさまは宣言されているのです。
このように、私たちの弱さのすべてを包み込む、
イエスさまの愛が、この物語を通して示されています。
このようなイエスさまの愛を思う時、
私は、使徒パウロが語ったある言葉を思い出します。
パウロはコリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、
「とげ」が与えられたと語りました。
彼は、そのとげを取り除いてほしいと
神に祈り、願い続けました。
パウロが取り除いてほしいと願った、
このとげが何であるかは様々な議論があります。
肉体的な弱さなのか、病なのか、
それとも、何らかの困難があったのか。
実際のところ、パウロが何を抱えていたのかはわかりません。
しかし、パウロはその「とげ」が
取り除かれることを強く願ったことは確かなことです。
でも、彼のとげは取り除かれませんでした。
その理由について、パウロは神から与えられた答えを
コリント教会の人々にこのように伝えました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリ 12:9)

イエス・キリストを通して明らかにされた神の愛は、
ふたつの側面を持っています。
第一に、神は、私たちのありのままを受け止めて、
愛してくださっています。
神は、弱さを抱えているあなたを愛しておられます。
罪深く、貪欲さや醜さを抱える私たちを
神はどこまでも愛しておられます。
そして、そればかりでなく、
神は、私たちの弱ささえも用いることができます。
あなたが弱さを抱えているからこそ、神はあなたを用いられるのです。
私たちは自分が抱えるこの弱さの中に、
神の恵みを見出すことが出来るのです。
私たちの力が及ばないところにこそ、
神の働きを見出すことが出来るのです。
そして、それは同時に、あなたは変わることが出来るという
神からの約束でもあるでしょう。
私自身が、自分だけの力で変わるのではありません。
聖霊の助けを通して、
神は私たちを日々新しく造り変えてださるのです。
私たちが集う、ナザレン教会が信じる、
いや、すべての教会が信じる、「聖化」という教理は、
とても希望に満ちている聖書的確信だと思います。
たとえ私たちがどんな弱さを抱えていたとしても、
私たちがどのような存在であったとしても、
私たちは聖霊によって、キリストに似た者へと
新しく造り変えられていくと約束されているのですから。
何と、慰めと希望に満ちた約束が
私たちには与えられていることでしょうか。
愛する皆さん、
あなた方は自分にどのような弱さや
欠けている部分があると感じているでしょうか。
主キリストにあって、私はあなた方に勧めます。
その弱さや欠けを神の前に差し出しなさい。
自分の力で何とかしようとするのではありません。
神の力によって変えていただくのです。
「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と
パウロに語りかけてくださった神は、
今日も、あなた方に向かって手を伸ばしてくださっています。
キリスト・イエスによって表わされた神の愛は、
あなたの弱さも欠けもすべて包み込むものです。
どうか、あなたがあなたであることを
心から喜ぶことができますように。
あなたが抱える欠けや弱さが、
神によっていつも取り扱われ、
あなた方はキリストに似た者へと
今、少しずつ変えられています。
神に与えられているこの希望が、
あなた方の心にいつも喜びと感謝を生み出していきますように。