· 

「イエスについての福音」

 

 フィリポは主の天使の指示によって「寂しい場所」に立ちました。

 

同じフィリポと言う名前の人は12使徒の中にもいますが、

 

今日の箇所で出てくるフィリポは使徒言行録6章に出てくる人で、

 

エルサレム教会の信徒たちの世話係として、ステファノと共に選ばれた、

 

霊と知恵に満ちた評判の良い人7人のうちの一人です。

 

彼らの働きは、のちに執事と呼ばれました。

 

彼らが選ばれたのは、イエス・キリストを信じる人は増え、12人の使徒たちは福音を語ることと生活上の問題の両方の世話はできない、として世話係7人を選びました。7人は、神にも人にも、信頼されていました。

 

彼らが選ばれる前からイエスの福音を宣べ伝えた使徒たちに対して、迫害が始まっていました。大祭司たちは、ローマ帝国が神殿や大祭司の宗教的指導力を制限されることを恐れ、イエスの弟子達がユダヤ人たちの中で紛争の火種になることを抑え込もうとしていました。また、祭司に近いサドカイ派ユダヤ教徒は天使も死者の復活も無いと考えていたため、イエスを救い主として伝える人々が宣教することは、そのまま、政治的宗教的犯罪者であると考えていました。

 

7人のうちの一人ステファノは、キリスト教徒として最初の殉教者となりました。

 

エルサレムに集まっていたイエスを信じる人々はこの迫害で、

 

ユダヤとサマリアの地方に逃げて散らばってゆきました。

 

でも、逃げて行った人たちは逃げてゆく途中もイエス様を伝え続けました。

 

大祭司やサドカイ派によるキリスト教への厳しい処罰は、

 

イエスの福音が伝わるきっかけになったのです。

 

フィリポはサマリアでイエスを語りました。

 

聖霊の力はフィリポと共に働き、何人もの病人が癒される奇跡が起きました。

 

フィリポの働きを聞いて、使徒のペトロとヨハネがサマリアに行き、

 

サマリアの人々も、ちょうどペンテコステの日のように聖霊を受けました。

 

 フィリポの伝道は大成功でした!けれども神様は、

 

フィリポをすぐ、この大成功の場所から、あの寂しい場所に連れて行ったのです。

 

 人けのない、街道沿い。そこに馬車に乗った団体が通りました。

 

フィリポは聖霊に促され、その馬車に近づき、乗っている人が聖書を音読していることに気づきました。

 

彼は、すぐ、馬車の中の人に、話しかけました。

 

「読んでいることが お分かりになりますか?」

 

こんな寂しい場所で、急に現れた通りすがりの人であるフィリポを、

 

自分の馬車に乗せてしまう。この馬車の中の人は大胆ですね。

 

読まれていたのはイザヤ書53章。

 

なぜ、馬車に乗っていた宦官は、この箇所に心を惹かれたのか。

 

イザヤ書53章に書かれている人は、「苦難のしもべ」と呼ばれています。

 

罰を受け、子孫について語ることを許されず、死にゆく人。

 

子孫を望めない人。なぜ、預言者はこんな人のことを、ここに書いたのか。

 

この箇所はこの宦官の心をとらえました。

 

みなさんは、宦官というのはどのような人であるか、ご存知ですか?

 

彼はエチオピアの女王の全財産を管理する役割を任されるほどに信頼された、

 

エチオピア政府の中で、女王に最も近いところに居る人でした。

 

私はいま、「彼」という三人称でこの人のことを話しました。

 

この人は、確かに男性です。そして、女王の 女性の 王の 側近です。

 

宦官は、歴史の中のいくつかの国で、存在した人たちです。

 

戦争で捕虜になった人 または 死刑に次ぐ重い罰が必要とされる

 

刑の判決を受けた男性を、去勢する。

 

つまり子どもを作る能力を外科手術で、体から取り去ってしまう。

 

子どもを造る力を奪われた男性のことを、宦官と呼ぶのです。

 

現代では考えられない刑罰です。犯罪者が対象でも戦争による捕虜が対象でも、

 

世界的に人権を守ることが常識となりつつある現代では、

 

行われなくなった制度です。日本では行われた記録は見当たらないようです。

 

聖書の時代にはまだ、いろいろな国でそうした立場に置かれる人がいたのです。

 

もともと男性ですので、女性よりも体力があります。位の高い女性の傍で、

 

男性が近づいてはいけない場所で働く者として、宦官は用いられました。

 

このため、この箇所で出てくるエチオピアのように

 

女性が王として君臨している場合、または王の妃やそばめたちが居る後宮

 

大奥で、宦官は働きました。

 

彼らの働く場所で、その国の王族は自分たちの子育てをし、王家の子どもたちの世話も、宦官たちの仕事でした。

 

 フィリポと出会った彼は、宦官でしたが、エチオピアの王の側近として国の中で王に次ぐ権力を事実上、持っていました。

 

この有能な賢い人、馬車に乗っていた人は、フィリポに聞きました。

 

預言者は、誰について言っているのですか?

 

宦官である彼には自分の子孫、という言葉は、もう、一生、関係のないものです。

 

与えられた権力が如何に華々しいものであっても、

 

その立場を継がせる子ども、伝える子孫は彼には望めないのです。

 

 彼はエチオピア人。しかし、エルサレムの神殿に祀られている神、

 

天地万物の創造主である方を信仰するユダヤ教徒でした。

 

自らの信仰のため礼拝するためだけに彼専用の馬車を仕立て、

 

礼拝し帰るまでの旅の間、彼が国を離れることを許すほどに、

 

女王カンダケから信頼されていたのです。

 

彼には共に旅する召使もいたことでしょう。

 

彼の、この聖書箇所に対する欲求、彼の飢え渇きは、

 

突然、自分の馬車に乗り物にも乗らずに走り寄ってきた

 

フィリポの存在の不思議を超えるものでした。

 

フィリポは宦官の質問に答えて、イエスについて語りました。

 

預言者イザヤが書いている言葉の通りに、イエスは黙して語りませんでした。

 

この方が黙したまま、受け入れた十字架上の死を身代わりにして、

 

人類すべての罪が赦されたこと。

 

神の子が人としてこの世に生まれ、人間として、本来は私たち人類が

 

受けるべき苦しみを代わりに受けて下さり、神と人との関係が回復されたこと。

 

まさに、私たち人類が、キリストの十字架によって、

 

死から命へと、買い戻されたこと。このキリストは死んだだけではなく、

 

復活して、彼を信じた人々は永遠の命と天国に繋がる希望を与えられたこと。

 

フィリポはこのエチオピア人に自分が信じ、従っている

 

イエスについての福音を語りました。

 

 イザヤ書53章は、イエスが生まれるよりも600年以上も前に書かれたと

 

言われています。イエスがキリスト救い主であったことに気づいた使徒たちや

 

キリストを信じた人々には、イザヤ書53章の存在は、驚きだったことでしょう。

 

あまりにイエスの生涯と合致した内容です。キリストとしてのイエスの生涯を学ぶために、たいへん良い、整ったテキストでもあります。

 

 この宦官がこの箇所に惹かれていたことは、このイエスを語るフィリポに

 

とって、とてもラッキーな事だったでしょう。そして、宦官にとっても、

 

イザヤ書53章に書かれた苦難の僕と、同様の生き方をした人が、

 

確かに居ること。その方が神の子であり、その方を信じることが

 

永遠の命に繋がる。自分たち人間が、罪から救われ、永遠の神の愛を受けることができるという、十字架のキリストへの信仰を、新しく知る時となりました。

 

 このエチオピア人は、自分に導き手として与えられた、

 

フィリポと共に居るこのチャンスを、逃しませんでした。

 

進んでいった所の、水の流れる場所が、彼の洗礼の場所となりました。

 

彼が洗礼を受けるとすぐ、 フィリポは突然、主の天使によって、

 

いなくなってしまいました。

 

 導き手は消えても、これまで将来に希望を持てなかった宦官の

 

悩みは、終わっていました。

 

この人は喜びにあふれて旅をつづけたと、使徒言行録は記しています。

 

フィリポは行った先々で福音を語り、彼が聖霊によって連れ去られた後には、

 

新しくイエス・キリストを信じた人々が残されています。

 

 いま、エチオピアはキリスト教国です。

 

サハラ砂漠より南の国で唯一、ヨーロッパの国々の植民地となる以前からキリスト教国でした。国の宗教としてキリスト教が公認されたのは4世紀ごろ。

 

その公認までの400年がいつから始まったのか、

 

国の歴史として明確な記録は無いそうです。けれども、聖書の中には、フィリポが福音を語った相手が、エチオピア人の女王の側近だったと記録されています。

 

ここにイエスについての福音が、伝わった記録があるのです。

 

 世界の国に、イエスについての福音は何らかの形で伝わっています。

 

私たち日本人にも、この福音は伝わってきたのです。

 

みなさんは、ご自分が、信仰につながるきっかけをいつ、受け止めたか、

 

覚えておいでですか?

 

信仰を持ってから今まで、どのような導きが自分に与えられたか、

 

覚えておいでですか?

 

伝えた人にも、受け止めた私たちにも、その時必要な助けがあり、

 

導きがありました。 その導きは、現在の、この礼拝の時に繋がっています。

 

私たちにも、私たちへの導き手として用いられた人にも、

 

フィリポや宦官と同じ、聖霊なる神が働いておられるのです。

 

私たちを助け、また私たちを通して 働いて下さる方からの力を、

 

いただいてまいりましょう。

 

お祈りいたします。

 

コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    水口栄一 (金曜日, 01 5月 2020 21:09)

    私はジョン・ベイリーさんの本で朝夕祈りを続けています。これからもずっと祈りを続けて静かな生活を過ごしたいと思います。