生活習慣を変える、ということは 難しい事です。
日本の家庭では、味噌汁のみそが赤いか白いか黒いか。どんな味付けので育ったかの違いが、ケンカのもとになることもあります。
きょうの聖書箇所では、ユダヤ人と異邦人という生活習慣も言葉も違う人が、
神への信仰によって、お互いを認め合う時におこったことが書かれています。
きょうは11章を読んでいただきました。
ここは10章で起ったことをペトロが、エルサレムのユダヤ人たちが集まる教会で説明している所です。10章にはローマの軍人コルネリウスと言う人が出てきます。
この人は地中海沿岸のカイサリアに住んでいて、ローマ軍の百人隊長でした。
彼がペトロを家に招いたのは、幻に出てきた神の天使に、
「あなたの祈りと施しは神に届いている。ペトロを呼びなさい。彼はあなたとあなたの家族すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」と言われたからでした。
このころペトロはエルサレムを出て、地中海沿岸の街ヤッファで、友人の家に泊まっていました。コルネリウスに天使は、
今、ペトロがどこの誰の家にいるのかを知らせました。この天使の言い方が
「皮なめし職人シモンの家、その家は海岸沿いにある」など、かなり具体的なことは面白いですね。神さまが二人を合わせたいと思っての丁寧な知らせ方です。
百人隊長コルネリウスは、天使が立ち去るとすぐ、
使用人二人と、兵士の神を信じる一人を、ペトロを招くために派遣しました。
コルネリウスからの使いの人たちが来る前に、ペトロも不思議な体験をしていました。
この家の人が昼食の支度をしている間、空腹だったペトロは幻を見て、また声を聞きました。
大きな布のような入れ物に、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた・・・
絨毯だか風呂敷だか、大きなシーツだか知りませんが、かなり大きなものですね。
「あらゆる」という言葉は、選別されていない、という意味でもあります。
ユダヤ人は、律法を守ることで、神の民としてのアイデンティティーを守ってきました。
人間関係・医療・飲食など、生活全般に関わることを律法で判断し
神に選ばれた民として、自分たちの清さを保ってきたのです。
律法によって真の神を信じていない民族とのつきあいは禁じられ、食べる物も、
動物では、たとえば蹄が分かれていて反芻する動物は清い、地を這う生き物は汚れている等として、食べてはいけない生き物を見分けてきたのです。
ですから、この天から降りてきた巨大な布の中の生き物は、ペトロにとっては、
ぞっとするようなゲテモノばかりだったのです。
しかし、聞こえてきた声は、その生き物を「食べなさい」と言いました。
ペトロはそれが神からの声と判っていましたが、
「主よ、とんでもないことです。清くないもの汚れた物はたべたことはありません」
と、はっきり拒絶しました。するとまた、あの声は言いました。
「神が清めた物を、あなたは清くないなどと、言ってはならない」
この幻の中で、ペトロは同じやりとりを3回、したのだそうです。
そのあと、この巨大な布は天に引き上げられました。
我に返ったペトロは、混乱していました。いったい、今見た幻は何なのだろう?
ペトロが空腹も忘れて考え込んでいた時、
ペトロを探していた人たちが、その家にたどり着きました。
聖霊は、ペトロに
「訪ねてきたあの人たちと、ためらわず一緒に旅立ちなさい」と言われました。
もし、あの幻が無かったら、ペトロはその来客との面会も、断ってしまったかもしれません。やってきた人たちは、明らかにユダヤ人ではありませんでした。
コルネリウスの家はカイザリアにありました。
カイサリアは紀元前25年ころから、ユダヤのヘロデ大王によって建設された
都市で、ローマ帝国の支配においてユダヤの首都の機能を持っていた所です。
聖書の後ろの地図で見ても、
ペトロの居たヤッファから、直線距離で60キロ以上。当時の徒歩での旅で、
その日のうちに到着することは難しい距離です。
ペトロは、異邦人の客たち3人を、自分が宿泊していた家に、一緒に泊まらせました。異邦人といっしょに泊まる。これだけでもペトロには思いがけない事です。
次の日、ペトロが3人の使者たちと共にカイサリアに着くと、
コルネリウスは家でじっと待つことができず、街の門まで迎えに出ました。
コルネリウスの親戚や友人たちも、一緒でした。
出会ったとたん、彼が思わずペトロを拝んでしまったことが、10章25節にあります。
ユダヤ人であるペトロには、神以外、人間である自分を拝む、ということはすでに、
異教的な風習でした。
「お立ち下さい。わたしもただの人間です」そう言って、コルネリウスを立たせました。
ローマでは皇帝崇拝が行なわれ、皇帝を拝むのと同様に、
軍の上官を部下が礼拝する、ということは日常の光景でした。ですが、出会ったばかりの、
ごく普通の田舎者のペトロを、ローマ軍の百人隊長が拝んだのです。
コルネリウスが神のみ告げを、いかに真面目に受け取っていたかが伺えます。
その行動にあらわれたコルネリウスたちの信仰に触れて、
ペトロはどんなに驚いたことでしょう。
コルネリウスの家で、集まっていた大勢の人に、
ペトロとコルネリウスは、お互いがなぜ出会ったのかを語りました。
彼らがペトロから聞くことができると期待していたのは、
どのような話であったか。それが、本日、司会者にお読み頂いた
11章14節です。「あなたと家族の者すべてを救う言葉を話してくれる」
コルネリウス一家が、「神を畏れる者」となったのが、
彼らがユダヤ人の地に来てからか、またそれより以前かはわかりません。
神を信じるユダヤ人たちを、コルネリウス一家は尊敬し、礼儀正しく対応しました。
コルネリウスは家族ぐるみで信仰熱心なこと、自分の財産からの寄付を惜しまないこと、神に絶えず祈っていたことを、人々は知るようになっていきました。
幻の内に天使を見た時、彼は怖くなった、と書いてあります。
神は彼に、彼の信仰生活の努力を神が認めておられることを、天使を遣わして
知らせたのです。
あの幻の天使の言ったことは本当か。天使を見たのは、間違いではなかったか。
待っていたコルネリウスのもとに、
使いの者たちは、本当にペトロと言う人をみつけて帰ってきました。
この時、コルネリウスが言った言葉が、すばらしいと思います。10章33節
「よくおいでくださいました。今 わたしたちは皆、
主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
コルネリウスたちがペトロの話を聞いて心にいだいた、イエス・キリストの死と復活の福音への信仰に、聖霊が先に応えられました。
ペトロの話が続いている最中、ペトロといっしょにいた人々は、
話を聞いているコルネリウスたちのようすに驚きました。
ちょうどペンテコステで自分たちが経験したと同様、コルネリウスたちは、
聖霊によって話し賛美する状態になったのです。ペトロは神の救いが起きたことを知り、
彼らに洗礼を授けました。
11章で、ペトロたちはエルサレムにいたユダヤ人に、
「あなたたちは異邦人のところへ行って、一緒に食事をした」と言って非難されました。
ユダヤ人たちの不安は、ペトロにも十分、理解できます。
ユダヤ人たちがその生活習慣を棄てることは、彼らの民族の危機を意味してきました。
律法を守ることは神の前で、神の民としての彼らの生き残りをかけたものだったのです。
けれども、ペトロたちには、コルネリウスたちへの聖霊降臨の現場に居て
主イエス・キリストを信じることが、
異邦人であるかユダヤ人であるかを超える力をいただくことであると知り、
それをエルサレムの仲間たちに伝えたのです。
キリストの十字架と復活には、信じる者たちを罪と死とあらゆる悪の力から切り離し、異邦人であるかユダヤ人であるかも超えて、神の民へと造りかえる力があるのです。
あらゆる生き物が入った布の幻を見て、その生き物が律法で食用を禁じられていることを判断できるユダヤ人ペトロと、
天使の幻に導かれて出会ったペトロを、思わず拝んでしまうコルネリウス。
人間同士としてだけ出会えば、友情が芽生えるきっかけなど見つからない関係でしょう。
実はユダヤ人は、昔からこの民族の壁を超える信仰の力を知っている民族でもあります。ユダヤ人たちが理想の王としているダビデ王の家系には、
異邦人の血が混じっています。ダビデの曾祖母にあたるルツはモアブ人。
ユダヤ人たちから見れば異邦人です。
きょうの旧約聖書ルツ記1章16節は、ルツがユダヤ人の姑ナオミの信仰を見て、自分もこの人の信じる神を信じ、その神の民となろうと決断したところです。
ダビデを王に選ぶ預言者を、神は
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言って導かれました。
わたしたちは自分自身を神に相応しい、清いものであると言うことができるでしょうか?コルネリウスと比べても、わたしたちは、
まわりから認められるほど熱心な祈り手でしょうか?
わたしたちの信仰は神に対して、熱心でしょうか。
けれどもわたしたちも、わたしたちすべてを救う言葉を聞くために、
日曜ごとにあつまり礼拝しています。
わたしたちはダビデの子と呼ばれた救い主、イエス・キリストによる新しい神の民です。
わたしたちが礼拝するのは、十字架と復活の主です。
救いとは、立場も民族も生活習慣も超えて、
神に立ち返り、神に愛される者として回復されることです。
神は今も、わたしたちの信仰に聖霊によって応えて下さるのです。
わたしたちすべてを救う方に従う生活を今週も続けてまいりましょう。
お祈りいたします。
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