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「教会から遣わされる」

教会は出かけてゆく先、ではないのです。
神の家である教会に、救われて天国の国籍を与えられた信徒一人一人が、
家庭として与えられた場所に、与えられた職場に、置かれた地域に、
祈って送り出されるのです。
イエスは弟子たちを送り出すとき、狼の群れに
羊を送り込むようだと言われました。
 羊と言う動物は、かなり眼が悪いそうです。視界は1メートルほどだといいます。
ですから、離れた所に居る羊飼いの声は聞こえても、姿は見分けられません。
羊は牧場で羊飼いの声を聞き、
集められた仲間の羊と共に、牧者に守られて過ごします。
目の前にいる仲間の羊の体を見ながら、みんなといっしょに歩くのです。
走ることも飛び跳ねることもできる。でも、仲間から離れたら、たちまち迷子です。
 私たちはこの羊に例えられました。
教会で受けた祝福を持って、与えられた役割を行う中で、私たちはあの羊のように、
周囲の人を見ながら動くことに伴う、危険の中にいます。
牧者であるキリストを知っている者の中で、互いに愛ある思いやりをもって生きる。
この生き方をそのまま、それぞれの家庭や職場に遣わされ行うことは時に危険を伴います。、神さまが存在されることが当たり前な場所と、「神さま」を話題に出すことも躊躇してしまう場所では、言葉も行動も、なかなか同じようにはいきません。
愛をもって、配慮ある心で生きることは、
神無きところでは人としての力の隙を見せる事となってしまうこともあります。
狼の群れに入った羊のように、喰われることを恐れて隠れるように生きるのか。
かえって、自分も狼のような力を持つ者として、互いに喰い合うものとなるのか
それとも、
どこにいても、話しかけ導いて下さる羊飼いの声を注意深く聞いて、
羊飼いが共に居て下さることを信じ、羊飼いに伴われ護られて、
どこまでも歩き走り、飛び跳ねる羊として、自らの弱さそのままに生きるのか。
 送り出される一人一人が、弱いものであることを知っているからこそ、
私たちは互いに祈り合い、また礼拝ごとに新たに祝祷を受けて出てゆくのです。
私たちを呼んで下さる羊飼いは、私たちが祈る声を聞いていて下さる方です。
そして、私たちが危機にあるとき、迎えに来て、
その肩に担いで連れ帰って下さる方です。
きょうの旧約聖書の箇所は、ダニエルの祈りです。
ダニエルは捕囚の地バビロンで、きょうの旧約の箇所のような祈りに導かれました。
ダニエルが王の悩みを解決できない限り、彼だけでなく彼の仲間も他のバビロンの賢者たちも、命の危険にさらされていたのです。
神からの知恵を授けていただいたダニエルたちの祈りは、
ダニエルたちバビロンで捕囚となり
さらにバビロンの王に仕えていた仲間だけでなく、同じように
王の命令で殺される運命にあったバビロンの占い師や祈祷師、
賢者たちをも助けることになりました。
 私たちはそれぞれ、与えられた場所で与えられた働きにあたります。
与えられた場所だから、
ただ、そこに行って動く。いつもの場所だから知っている仕事だから。
でも、いつも同じようにものごとが進むとは限りません。
神さまから祝福を受ける。そして恵まれる。
そこに働かれる聖霊は、いつも私たちを見守り、私たちの必要に
心を配っていて下さいます。
祈りましょう。「守ってください」「今の時を有難うございます」
「優先順位を教えて下さい」「疲れました」「助けて下さい」・・・
どのような祈りも、聞かれています。
さらに、私たちはひとりひとり、教会をつくりあげるメンバーとして、
互いのために祈り、
その祈りによって支え合うことができる力をも、与えられています。
たとえ神の御心にかなう場所に向かうのであっても、
ダニエルも、パウロも、仲間の祈りを必要としました。
教会の祈りは神の働きを信じ期待しての祈りです。
私たちには、共に居て導き見守って下さる聖霊という牧者が居られるのですから。
お祈りいたします。