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「復活の主の福音」

1 聖霊によってアンティオキアの教会から選び出されたバルナバとパウロは、
バルナバの故郷キプロスから船で、ピシディアに渡りました。
エルサレムからも、アンティオキアからも遠く離れた場所ですが、この土地に
はすでに、ユダヤ人が礼拝する、会堂が建っています。
 パウロは以前はユダヤ教ファリサイ派の学者でした。
ファリサイ派は福音書を読む限りでは私たちに、あまり良い印象を与えません
が、ファリサイ派は広く伝道活動を行っていて、キリスト誕生以前からの神を
信じる人々の群れは、このころすでに、ローマ帝国の至る所に広がり、ローマ
本国にも神を信じる人々は居て会堂も建っていました。
ユダヤ人は10人集まったら一つ、会堂シナゴグを建てます。
エルサレムの神殿に毎年行くことが距離的にも難しい人々は、
自分たちの礼拝のために会堂と呼ばれる集会施設を建て、そこで礼拝しました

会堂がある、ということはユダヤ人が10人以上居る、ということです。
使徒言行録を読み進めると、時々、この会堂という礼拝施設が出てきます。
ここは、パウロたちキリストの福音を伝えるキリストを信じる人たちにとって
、確実に神を信じる人たちに出会える場所でした。
 私たちが神を信じ、教会で洗礼を受けると、時には家族や友人などから
キリスト教の信者になるというのはどんなことか、聞かれることがあります。
しかし、日本に住む私たちにとって、これまで教会に通ったことの無い人、
聖書を開いた経験のない人にキリスト教を伝える、ということはとても難しい
。。
私たちは洗礼を受ける時すでに、信仰の前提として神の存在を信じています

信じていますが、この、良い知らせ福音を親しい人に語ろうとするとき、
私たちは大きな壁にぶつかります。
私たちが福音を語りたい相手は、神を知らない。神の存在を認識していない。
神様を理解していない人に、神を知らなければ理解できないことを語る、
この難しさにぶちあたるのです。
 パウロたちの時代、彼らのまわりに神を知っている人はいました。
パウロたちには、現代日本の私たちと違って、神の存在から説明しなければな
らないわけではありませんでした。彼らが聖霊によって、良い知らせを語ろう
とした相手は、神を知っているけれど、キリストの十字架からは遠い人達でし
た。
自分たちは神に選ばれた偉大な父アブラハムの子孫であるということを、
自分たちの誇りとしている人々です。

 

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自分たちの先祖がエジプトで奴隷として苦しんで居た時には、
神さまはモーセを送って救い出してくれたのだ。自分たちはダビデ王という神
から愛された偉大な王のいた民族の出身だ。自分は神に愛される神の民だ、
と、信じている人々でした。
 パウロも同じ民族の人として彼らのその誇りを知っています。
だからこそ、呼びかける時にも、
選ばれたイスラエルの一人である彼ら、アブラハムの子孫である彼らの
プライドに訴えるかたちで話しかけました。
イエス・キリストは我々イスラエルの民に、神から遣わされた方であります。
この方はダビデ王の子孫です。
 パウロはもう一つ、ここで話を聞いている人々は、エルサレムという自分た
ち民族の信仰の中心地であり神殿のある街から遠く離れた地域に住むユダヤ人
であることを考えに入れて、27節以降のように、訴えかけました。
エルサレムに居た人々は、このイエスを認めなかったのだ。
彼らは、神から遣わされたこのイエスを、異邦人であるローマの総督ピラトの
手をかりて、殺してしまったのだ。しかし神は、イエスに救い主として十字架

死ぬという命運を与えることで、ご自身の計画を完成させた、と。
 ローマの属州である土地で、ユダヤ人たちはローマに対して日常的に恐れと
不安のストレスをかかえて暮らしていました。
また、エルサレムという自分たちの宗教の中心から、自分たちは離れた場所に
いるのだ、という、エルサレムへの憧れとそこに住む人への格差意識を抱えて
生きていました。パウロのこの話し方は、土地のユダヤ人たちを惹きつけまし
た。
 パウロはイスラエルの歴史から語りだし、この誇り高い神を信じる人たちに
、自分たち人間の罪は、聖書の預言通り、イエス・キリストに於いて解決され

神によって赦されたことを話して聞かせました。
救い主イエスは十字架で死んだだけでなく、死から甦られたこと。
そしてエルサレムでイエスの死を実際に見た人々は、復活の主と何度も出会う
経験をしたこと。その経験によって、
「その人たちは今、民に対してイエスの証人となっています。」 
と、語ったのです。
神が人としてこの世に来られる。
その神が、人類すべての罪の身代わりの捧げものとして十字架で死ぬ。
その死は滅びで終わることなく、イエス・キリストは復活し生きたものとして
神のもとに帰り、さらに聖なる神の霊が、私たち人類と共にあるために、
キリストの願い通り神のもとから遣わされた。

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この、良い知らせは彼らユダヤ人にとっても、彼らと共に礼拝してきた、
神を畏れる異邦人たちにとっても、想像を超えたことでした。
 ユダヤ人たちは律法を守り、捧げものをし、祭司に祈ってもらうことで神か
ら、清い者、神の選びの民として相応しい者と認めていただけるよう、努力し
てきました。自分たちの祖先が礼拝した神は、自分たちを選び出して下さった
自分たちの神。しかし、自分たちは毎年の捧げものとする動物の犠牲を繰り返
すことで、
ようやく神を礼拝することができている。
信仰生活を続けることに疑問を感じることは、誰にもあることです。
教えられ信じて行ってきた礼拝に、どのような意味があるのか。
自分たちの感じていた疑問の答えを、この日、聞くことになったのです。
この会堂でパウロの話を聞いた人々は、
自分たちの求め続けた、神に近づくことができる清さを与えるためにキリスト
が神から遣わされたことを知りました。
自分たちが読み学んできた聖書に書いてある預言。
この預言の実現を見た人が、いま、そのことの証人として、自分たちに知らせ
るために来たのだ、と、彼らは知り、喜びました。
 使徒言行録を読んでいて しばしば悲しくなるのは、パウロたちが一生懸命
イエスの死と復活を語り、多くの人がその話に耳を傾けても、
必ず、人の間から邪魔が入ることです。
 この13章で人々はパウロたちに、次の安息日にも同じことを話してくれ、と
頼み、町中の人が聞くために集まって来ました。でも、パウロたちの話した福
音を受け止められない人はいました。
神を信じていてもキリストの福音を受け止められなかった人々は、その話を、
他のユダヤ人が聞くということを望みませんでした。
彼らは自分たちと一緒に礼拝してきた人々が、パウロたちの語る復活された救
い主についての福音を受け入れることを、
邪魔するだけでなく、昔からの仲間たちに、
パウロたちを迫害するよう扇動しました。
なぜでしょう。自分たちの過去が、否定されたように感じたのでしょうか。
パウロたちはこのことをきっかけに、よりユダヤ人の少ない地方へと伝道活動
を広げてゆくようになります。
 イエス・キリストが十字架で死んで、わたしたちの身代わりになった。
この犠牲の死、という考え方は神の福音の中でも、比較的受け入れやすいこと
かもしれません。命あるものの死、ということは人間の一生の終わりに必ず来
ることです。
 ユダヤ人たちは、現代の日本人と違い、人間の罪が、神と人の間に断絶をも
たらしていることは知っていて、その罪のために毎年、律法の規定に従って捧

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げものをしてきていたのです。
救い主を、神が遣わされることを知っていたユダヤ人にも、
イエスが人となってこの世に来られた神である、十字架にかかって死んだ神の
子イエスは復活した、ということは、信じることの難しいことだったのです。
パウロたちの伝道はたびたび妨げられ、パウロはこのあと、迫害によって、あ
ぶなく死にそうになります。しかし、、神を信じキリストの弟子として生活し
始める人は行った先々に与えられました。
 パウロが、復活の主イエスの目撃者たちを、
「その人たちは今、民に対してイエスの証人となっています。」と語ることに
よって伝えたように、私たちはこの福音を伝える時、神を信じキリストによっ
て救われて生きている人々の存在が、証拠となります。
信仰の先輩たちの存在は、今の私たちが持っている、伝道の大きな財産です。
信仰によってしか、受け入れることも認めることもできないことはあります

キリスト教の環境にない日本人にとって、神が存在する、ということを大前提
に生きるキリスト教徒の存在は、すでに理解の壁の向こう側です。
私たちはキリストによって、この理解の壁を越えてきた者たちです。
 ダニエルが信仰によって神からネブカドネザル王に伝えられる知らせを受け
取ることができたように。そして王も、ダニエルがその信仰によって神と親し
くつながっていることを感じ取ることができたように。
私たちをこの福音につなげてくれた、信仰の先輩たちの存在は、
私たちに与えられている約束の確認になります。
私たちはみんな、イエスの「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」と
いう宣教命令の結果です。
 私たちはイエス・キリストの十字架によって罪を赦された者。
この神を信じ、救われた者です。
そして、そのイエス・キリストは、神によって死者の中から復活させていただ
いた方。私たちと聖霊によって今も、共に居られる神です。
お祈りいたします。