パウロとバルナバは、聖霊によって伝道者として選ばれ、
アンティオキア教会の人々は聖霊に従って断食して祈り、彼らを送り出しました。
キリストの福音を受け入れる人々が行く先々で現れ、信じた人々には聖霊が降りました。
ピシディアのアンティオキアで、パウロとバルナバへの迫害が始まりました。
ユダヤ人たちは彼らの伝道を正しい神の福音とは認めず、土地の人たちを巻き込み騒ぎたてたのです。パウロたちは、福音を伝える相手を、ユダヤ人たちから、
まだ真の神を知らない異邦人たちに変える、と宣言しました。
彼らの伝道はキリストの福音を聞いて喜ぶ人々との出会いであり、
同時に彼らを邪魔し、迫害する人々との出会いでもありました。
キリストの道を歩む人が増えることを望まない人たちは、パウロを殺そうとし、
14章でパウロは石を投げつけられ、石を投げた人たちから「パウロは死んだ」と思い込まれるほどの目にあいました。けれど彼らは伝道することを止めず、
また彼らの話を聞いて信じた人たちも、信じた道で生きることを止めませんでした。
この伝道活動が進む中で、キリストを信じる人々の中に2つの考え方があることが、はっきりしてきました。
キリストを信じていても律法の規定通りの生活を大切にする人々と、
それまで律法を守るユダヤ人の習慣を知らず、パウロたちの話を聞いて信じた人たちです。
これまでの旧約聖書の時代からの信仰を大切にしてきた人々は、律法を守らないままの
救いを想定していませんでした。キリストの道を歩むようになった彼らは、
イエスも律法を守る人たちの中の一人だった、として、律法の規定通り割礼を受けて、
ユダヤ人の仲間に入ることが必要だと考えていました。
しかし、律法を知らないまま、キリストの十字架による贖いと復活による永遠の約束を信じるようになった人たちは、律法の規定を勉強する前に、神から聖霊を与えられました。
パウロたちの伝道の反対者のように見える彼ら、律法を守ってきた人々は、
異邦人に対する伝道そのものを、良くないこととは考えていませんでした。
ファリサイ派のユダヤ教徒たちは、異邦人の地に散らばっていたユダヤ人たちを対象に、
これまでも活動してきた人たちです。そのユダヤ教布教活動の中で、
異邦人たちをユダヤ人たちの信仰共同体に招き入れることも、彼らは行ってきていました。
ただ、それは異邦人に、ユダヤ人が守ってきた律法を守ることによって、
新しくユダヤ人になることを求めるものでした。
これまで、聖書の神、真の神を信じる人々とは、今の私たちが言う「ユダヤ教徒」だけしか、居なかった時代です。
イエス・キリストの福音の伝道がはじまり、それまでユダヤ人の中だけ、ユダヤ人の律法を守る人の中だけで守られてきた信仰が、キリストの道を歩む者として新たに加わった異邦人たちのように、律法を守る生活の経験はなく、けれども神によってその信仰を認められ、
聖霊を受けた人々の存在を知ったとき、
この新しい人たちをどのように考えたらよいのかがわからず、困った事態がおきたのです。
長いユダヤ人の歴史の中で、モーセを通して律法が与えられて以来、
律法を守ることは自分たちが神に選ばれた民であることの保証でした。
イエス・キリストは自分たちが信じ大切にしてきた聖書に預言された方であり、
自分たちの罪が十字架によって赦されたことを、彼らは信じました。
またイエスが死んで甦ったと知り、その証言をする仲間の言葉を信じました。
しかし、彼らユダヤ人にとって、それは、すべてユダヤ教の信仰の範囲内で起こったこと。
イエスも使徒たちも自分たちもユダヤ人であり、律法を守ることは基本!と
考えていました。異邦人が神を信じることは、喜んでいましたし認めていました。
けれども、神が与えた律法を軽く扱う者が、正しい者だとは考えられない。
彼らの思考回路はそこで、迷宮に入ってしまっていました。
異邦人たちが律法を知らないまま、聖霊を受け、さらに彼らに使徒たちが洗礼を授けた。
これは彼らが入り込んでいた迷宮を、さらに混乱させる出来事でした。
神の意志はどこにあるのか。神の御計画はどこに向かっているのか。
神は、私たちを通して何をさせようとしておられるのか。
イエス・キリストの福音を宣べ伝えてきた人々は、エルサレムに集まり、
全世界初の教会会議がここに開かれたのです。
今年は、小岩教会にとって、想定外が続いてきた年だと思います。
年明けには、今 現在のように、新しい牧師とともに2019年度を始めることになるとはお考えでは無かったことと思います。
変化は、驚きと思考の混乱の中で、前に進むことを私たちに求めます。
証として、私事ですが、例話としてお話させていただきます。
今年は2019年。2014年の7月から5年が経過しました。
私が離婚して実家の名字に戻ってから5年です。結婚20年目でした。
家族も本人たちも、これからの生活の選択肢に、どのようなものがあるのか。
いろいろな人に相談しつつ、自分たちの決断をしました。
私は、この家庭を守ることが、自分に神から与えられた働きなのだと
信じて来ました。20歳の時、献身し神様と教会のために働くことを願い、
けれどその道は開かれず、望む方向ではなく与えられた道を歩くことに
神の計画があるのだ、と信じて守り続けてきた生活でした。
けれど、その日、自分が守ってきた方向に自分の将来がつながってはいないのだ、と、突然、はっきりと知りました。パートナーだった人が「仕方ない」と言って手放した生き方から離れるため、一連の手続きを終わらせた時、ふと、
私は気が付きました。これまでの生活を守るための努力は、必要なくなった。
で、あるならば、私は今まで、選ぶことができないと思って諦めていた道を、
見直すことができるのではないか?と。 祈り、考え、さらに祈る間に、神は私に、
相談すべき相手を、ふさわしい立場に置いて、私にその時を与えて下さいました。
長い間、閉ざされ、もう開くことはないのだと思っていた扉は開きました。
私は、最初に献身の決意をしてから34年を経てこの働きに加えて頂きました。
エルサレム会議において、律法を守ってきた人々も、エルサレム教会でイエス・キリストの目撃者として教えてきた使徒たちも、異邦人に伝道してきたパウロやバルナバも、
互いの立場と考え方を出席者全員に説明しました。
出席していた全員が、これまでキリストの福音が語られた現場で、何が起こったのかを聞きました。それぞれの立場で、それぞれの信仰で、いま、何が必要だと考えているのかも、
共有したのです。
皆の意見が出そろったとき、ペトロは、ペテロの伝道によってローマの百人隊長コルネリウス一家が信仰を持った時のことを語りました。
ペトロが彼らに「信じているか」と聞く前に聖霊が彼らの信仰を認め、
彼らに聖霊が降ったのを見て、ペトロたちは、この一家の信仰をが神に認められたと知って
彼らに洗礼を授けクリスチャンとしました。
彼らは彼らが持つ信仰によって、聖霊なる神に選ばれた。
ペトロは神による選びを追って認識したに過ぎないのだ、と。
ペトロが会議の出席者全員に思い出させたのは、彼ら自身が救われたこと。
その救いは律法を守ったことでも彼ら自身が努力したからでもなく、
11節にあるように、主イエスの恵みによって救われたのだ、ということだったのです。
イエス・キリストの死と復活、そして昇天によってキリストを信じる人々は新しい歩みを始めました。使徒言行録に残された彼らの歩みは、聖霊降臨の日以来、
聖霊なる神主導で進んできています。
このあと、パウロたちはさらに伝道を進め、この福音はローマにまで伝わり、
やがて、私たちがいるこの教会にまで繋がっています。
エルサレム伝道会議において、彼らは自分たちの救いの原点を確認しました。
私たちの歩みは、私たち自身の望みや計画、拘りや習慣によって決まるのではなく、
主イエス・キリストの十字架と復活の恵みにより御業によるのです。
私自身、自分の人生設計、行動計画を把握しようとするとき、悩みますし祈ります。
動くはずがないと思っている見通しが、神の計画と違っていたと知ったあの時以来、
私は期待といくらかの諦めを以て、神に向かって言うことがあります。
お創りになったのはあなたです。
製造者としての責任を持っていてくださることを信じます。と。
私たちの土台は、主イエスの恵みです。
キリストの福音によって私たちは、全能の神のみ腕の中に置かれています。
お祈りします。
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