「主の憐みによる平和」

 きょうの箇所は、キリスト教の歴史の中で、教会の働きの大きな転換点となった箇所です。きょうの箇所から、使徒言行録の記録自体がエルサレムから離れます。
そして、これまでペトロたちが聖霊に導かれて行ってきた伝道が、
異邦人と、エルサレム以外に住むユダヤ人たちへと変わってゆきます。
「バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい」
ここで聖霊に呼び出された二人は、12使徒ではありません。
今の教会で言うと、二人とも信徒です。
バルナバはマルコによる福音書の著者ヨハネ・マルコの従兄。
サウロは神殿が祭司を養成していた学校で、有名教授ガマリエルに、若い時に入門して学んだエリート。今の日本で言うと、官僚候補生みたいな人でした。
彼らはユダヤ人ですが、キリストが活動しておられたガリラヤ、エルサレム、ベツレヘムなどの場所出身ではありません。
バルナバはキプロス出身。サウロ のちのパウロは、タルソス出身です。
聖霊が二人に与えたのは、これまで信仰生活の拠点にしてきた
アンティオキアを離れて、イエス・キリストを宣べ伝える働きをすることでした。
アンティオキアの教会の人たちはギリシア語を話すことができました。
当時のローマ帝国の公用語はギリシア語で、ローマ帝国は地中海沿岸全域に
広がっていました。この教会の人たちは、帝国内どこに行っても、
誰とでも話せる人たちでした。
この教会には、たいへん多様な背景を持った人たちが集まっていました。
預言者、教師、領主ヘロデの乳兄弟。最も変わった人がサウロです。
彼は以前、キリストを信じる人たちを迫害して牢獄に入れ、処刑してきた人。
使徒言行録8章には「ステファノ殺害に賛成していた」という恐ろしい一文が残されています。そのサウロが9章で回心して、キリストの伝道者になったのです。
キリストを信じる。
この信仰で結ばれた彼らは、とても熱心な信徒で、共に礼拝する仲間でした。
 彼らに、聖霊が語りかけました。
「バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。」
新改訳聖書では、ここを「彼らを聖別しなさい」と訳しています。
聖別とは、聖なる目的のために選別しなさい、ということです。
バルナバは慰めの子と呼ばれていました。
彼は、サウロを、キリストを信じる人仲間たちのところへ連れてきた人です。
サウロは回心して熱心なキリスト教伝道者になりましたが、そのために却って
ユダヤ人たちから憎まれ、殺されそうになって故郷に帰っていたのです。
その後、二人はいっしょに活動してきました。
ユダヤで飢饉がおこって、生活に困る人がたくさん居た時、バルナバとサウロは、アンティオキアの募金活動で集まったお金をユダヤ人たちに
届ける働きをしたことも11章に書いてあります。
バルナバとサウロは、教会の人たちに祈られ、手を置いてから送り出されました。
断食して と、書いてありますから、1回祈って ではなく、
少なくとも1~2日は、みんな食事をすることを止めて
集中して祈ったということです。
食事の支度や食べて 片づける、ということは生きてゆくのに必要な事ですが、
食事のためにかかる時間はけっこう長いもの。
彼らの集中力、熱心さは、このことにも表れています。
さらに、手を置く。これは按手礼をした、ということです。
ナザレン教団の大年会に出席したことのある方は、見たことがあるかもしれません。
役割を与えられる人が、任命者たちから祈られる時、頭に手を置かれて祈られる儀式です。今年3月の大年会で、前任の稲葉牧師も按手礼を受けました。
 聖書に出てくる按手礼の箇所は、預言者としての働きを始める人、
王に選ばれた人など、新しい働きをするよう選ばれた人を任命する儀式として
描かれています。
皆さん、洗礼をお受けになっている方は洗礼式で、三位一体の神の名によって
水を注がれ、牧師から按手され祈られた経験がおありと思います。
按手。神からの祝福を伝え、任命するために、手を置くものは置かれる人に、
信仰を以てその役割を託します。
神を信じ、神の意志を確信して、その人が与えられた役割のために力を与えられることを祈り求め、その人を神がお守りくださることを信じて、手を置くのです。
 牧師として献身したものは、母教会から、祈られ、その人に
神からの恵みと導きがあるように、願いを込めて、送り出されます。
教団の理事に選ばれた人たちは、年会で選出され、着任中の教会から祈られ、
働きにあたります。
特に理事長には各地域の聖会や牧師会、そして牧師が在任していない教会を
訪問する働きがあります。
同じように、教会は礼拝ごとに祝祷を行い、信徒一人一人を祝福し送り出します。
私たちは教会に行く 教会から帰るという言い方をします。
けれど実は、私たちは教会に 来て 帰る のではなく、
教会に帰り、教会から、神から与えられた場所に祈られて遣わされてゆくのです。
もちろん、その場所は私たち一人一人が居るべき場所ですから、
教会からその場所に「帰る」という考え方は間違いではありません。けれど、
教会は出かけてゆく先、ではないのです。
神の家である教会に、救われて天国の国籍を与えられた信徒一人一人が、
家庭として与えられた場所に、与えられた職場に、置かれた地域に、
祈って送り出されるのです。
イエスは弟子たちを送り出すとき、狼の群れに
羊を送り込むようだと言われました。
 羊と言う動物は、かなり眼が悪いそうです。視界は1メートルほどだといいます。
ですから、離れた所に居る羊飼いの声は聞こえても、姿は見分けられません。
羊は牧場で羊飼いの声を聞き、
集められた仲間の羊と共に、牧者に守られて過ごします。
目の前にいる仲間の羊の体を見ながら、みんなといっしょに歩くのです。
走ることも飛び跳ねることもできる。でも、仲間から離れたら、たちまち迷子です。
 私たちはこの羊に例えられました。
教会で受けた祝福を持って、与えられた役割を行う中で、私たちはあの羊のように、
周囲の人を見ながら動くことに伴う、危険の中にいます。
牧者であるキリストを知っている者の中で、互いに愛ある思いやりをもって生きる。
この生き方をそのまま、それぞれの家庭や職場に遣わされ行うことは時に危険を伴います。、神さまが存在されることが当たり前な場所と、「神さま」を話題に出すことも躊躇してしまう場所では、言葉も行動も、なかなか同じようにはいきません。
愛をもって、配慮ある心で生きることは、
神無きところでは人としての力の隙を見せる事となってしまうこともあります。
狼の群れに入った羊のように、喰われることを恐れて隠れるように生きるのか。
かえって、自分も狼のような力を持つ者として、互いに喰い合うものとなるのか
それとも、
どこにいても、話しかけ導いて下さる羊飼いの声を注意深く聞いて、
羊飼いが共に居て下さることを信じ、羊飼いに伴われ護られて、
どこまでも歩き走り、飛び跳ねる羊として、自らの弱さそのままに生きるのか。
 送り出される一人一人が、弱いものであることを知っているからこそ、
私たちは互いに祈り合い、また礼拝ごとに新たに祝祷を受けて出てゆくのです。
私たちを呼んで下さる羊飼いは、私たちが祈る声を聞いていて下さる方です。
そして、私たちが危機にあるとき、迎えに来て、
その肩に担いで連れ帰って下さる方です。
きょうの旧約聖書の箇所は、ダニエルの祈りです。
ダニエルは捕囚の地バビロンで、きょうの旧約の箇所のような祈りに導かれました。
ダニエルが王の悩みを解決できない限り、彼だけでなく彼の仲間も他のバビロンの賢者たちも、命の危険にさらされていたのです。
神からの知恵を授けていただいたダニエルたちの祈りは、
ダニエルたちバビロンで捕囚となり
さらにバビロンの王に仕えていた仲間だけでなく、同じように
王の命令で殺される運命にあったバビロンの占い師や祈祷師、
賢者たちをも助けることになりました。
 私たちはそれぞれ、与えられた場所で与えられた働きにあたります。
与えられた場所だから、
ただ、そこに行って動く。いつもの場所だから知っている仕事だから。
でも、いつも同じようにものごとが進むとは限りません。
神さまから祝福を受ける。そして恵まれる。
そこに働かれる聖霊は、いつも私たちを見守り、私たちの必要に
心を配っていて下さいます。
祈りましょう。「守ってください」「今の時を有難うございます」
「優先順位を教えて下さい」「疲れました」「助けて下さい」・・・
どのような祈りも、聞かれています。
さらに、私たちはひとりひとり、教会をつくりあげるメンバーとして、
互いのために祈り、
その祈りによって支え合うことができる力をも、与えられています。
たとえ神の御心にかなう場所に向かうのであっても、
ダニエルも、パウロも、仲間の祈りを必要としました。
教会の祈りは神の働きを信じ期待しての祈りです。
私たちには、共に居て導き見守って下さる聖霊という牧者が居られるのですから。
お祈りいたします。