アモスは農民でした。羊を飼い、家畜を飼い、いちじく桑を育てて暮らして
いました。当時のイスラエルは近隣の国々との紛争が絶えませんでした。
イスラエルは国内の権力闘争の末、北と南に分裂しました。
北の王権を握ったヤロブアムは、自分の権力を守るため金の子牛の像を祭った礼拝所を作り、イスラエルの民が真の神を礼拝しないようにさせていました。
この国にも預言者 つまり今でいう牧師や司祭はいました。しかし彼らは、
民に向かって語ることも、王に正しい神を信じるように言う事もせず、アモスについて、預言者は王への反逆者であると伝えました。
アモスは農民でしたが、神に命じられ、 命じられた内容だけを語りました。
善を求めよ。そうすれば、万軍の神はお前たちと共にいて下さるだろう。
正義を貫けば、この民のことを、神が憐れんで下さることもあるかもしれない。
善を求めよ悪を求めるな。お前たちが生きることができるように。と、
この単純な奨めは、語られました。
今のままでは生きられない。神が共にいて下さらない今のあなたたちは、
生きるか死ぬか、この瀬戸際に居るのだ、と、言っているのです。
アモスの奨めもむなしく、イスラエルは神のみこころに敵う行いをせず、
周辺国との戦いで神の力をいただくことができず、負け、捕囚となりました。
新約聖書ヤコブ書も、アモスの時と同じ正しくあることを奨めています。
正しさ。ヤコブ書ではこれを神の義と呼びます。神の義を実現すること。
それによって、私たちの魂は救われる。
では、神の義を実現する、とはどんなことをするのか。
御言葉を受け入れ、御言葉を行うこと。
行うために、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去れ、と命じられています。神の言葉は、あなたたちの魂を救うことができるのだから、と。
25節に、あるように 自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、守る。
そういう人は、聞くだけ、形だけの人ではなく、行う人。実行する人です。
アモスの言っていた、「善を愛し、悪を憎め」も、
ヤコブ書にある、「御言葉を、自由をもたらす律法を一心に守る」も、単純そう。
すでに与えられている。私たちの心に植え付けたと言って下さる御言葉を、受け入れ行うこと。それがなぜ、できないのか。
それを妨げている、あらゆる汚れやあふれるほどの悪とは、何か。
何が原因で、あらためて「受け入れなさい」「行いなさい」と言われているのか。
きょうのヤコブ書の箇所の最初の3つの節から、見ていきましょう。
➀聞くのに早く。これは、情報収集をがんばれというのとは、少し違います。
現代、情報収集はしようと思えば いえ、むしろ、しようと思わなくても、
情報はインターネットにも、テレビにも、新聞にも雑誌にもあふれています。
溢れているからこそ、私たちは沢山の情報の表面をなぜるように、
広く浅い話題の中を、人込みをかき分けるように、毎日を生きています。
情報は沢山ですが、すべて受け止めることはできないと、私たちは知っています。
多すぎるからこそ、眼も心も閉じて、入ってくるものを制限するくせがついてしまう。情報の水圧を感じる毎日です。
➀の 聞くのに早く。これは、受け止めるべき聞くべき声を、まっすぐに受け止めなさいということです。
人間の五感はとても不思議な力を与えられていて、聞きたい関心のあることには感覚の矢印が向く。人込みの中でも、待ち合わせた人の顔は見分けられる。
騒音の中でも、自分の名を呼ぶ声は耳に届く。
心が向いているかどうかは、受け止める力に違いが出てきます。
②話すのに遅く。
これは、先ほどの 聞くに早く と合わせて考える言葉です。
会話するとき、特に日本語は、語尾まで聞かないと、yesかnoか、はっきりしないことがあります。
話される言葉にどんな意味合いがあるのか、どんな心が込められているのか、
しっかりと聞いて受け止めてから言葉を投げ返す。
聞いた言葉を心で一度味わう時間を持つと、人の言葉もその言葉の持つ力をも味わえます。聖書を読むときにも「言霊」が心で働く時間を取りたいと思います。
③怒るのに遅く。 たいてい、怒る、という感情は動きの早いものです。
人の怒りは神の義を実現しない。 怒る時、私たちは相手の言葉を聞きません。
話す相手の言葉に、落ち着いて耳を傾けながら
怒りを爆発させることは、難しいことです。
また、怒る時、少しでも相手より早く、言葉を出そうとします。
相手の言葉を聞かず、少しでも相手より早く 言葉を出す。
この、怒りの力が発揮されるところで私たちは、
目は目の前にいる、相手の顔を見ていない、相手の言葉を受け止めていない。
相手の存在を脇に避けて、自分の声、自分の言葉、自分の考え、自分の願いを
目の前に積み上げて、眼を閉じ、耳を塞ぎ、自分の考えや感情を前面に出す。
そこには、神は居られない。そこには愛は無い。そこには素直さは無い。
怒る私たちに、私たち自身は見えず、
私たちを愛して下さる神の声も届かないのです。
自分は、神を信じている。そう言いながら
聞くに早く 話すのに遅く できない時、私たちは自分を欺いている。
聖書が汚れ、悪、という時、それは神から離れること
神を神としないことを言います。
神の言葉を心に植え付けていただいても、神を信じないなら
神を神と考えないなら、無意味です。
アモスの時代、イエスの十字架はまだ、遠い未来にありました。
アモスは、神が共にいて下さること、神が憐れんで下さることを、
そうしてくださるだろう してくださることもあろう
という、希望的な言葉で表現しました。イスラエル捕囚前夜の不安と、
災いの預言を語るアモスには、神の望まれる、神の義を求めて生きること。
神に近づくことができる可能性を語ることしかできませんでした。
ヤコブ書の時代、クリスチャンたちはイエスの十字架を前提とした
救いと、罪の癒しと、永遠に続く約束を知っていました。
ですから、この書には、はっきりとした言い切り方で、
御言葉はあなたたちの魂を救うことができます。と、書けるのです。
キリストの十字架を、私たち現代のクリスチャンは自分たちの信仰を表す形として持っています。十字架にかかられたキリストは、すでに十字架から死んで降ろされ、葬りと復活を経験して、天に帰られました。
私たちの教会の十字架に、キリスト像がついていないのはそのためです。
私たちは、アモスの時代には知らなかった約束のしるしがあります。
自由をもたらす完全な律法。これは、イエス・キリストを表しています。
イエスの十字架は、私たちを罪から自由にし、私たちと神との関係を完全に復活させ、私たちに永遠にまで続く約束を下さった。完全な律法を一心に見つめ守る。
心が 感情がフラフラしてしまうことを不安がる前に、
自分にはどうせ、正しさなんて無いと 自分は悪い者なのだとあきらめる前に、
このイエスについての御言葉は私たちの心に植え付けられていることを知ってください。植え付けられた言葉は、根をはり育ちます。
教会の花壇の花のように、根を張ると育ち、花が咲きます。
御言葉を読み、味わいうと、その御言葉が意味することが毎日の中にあることに気づく。心が御言葉の方向に向くと、人込みの中の待ち人のように、
生活の中に聖書の言葉がみつかります。
私たちのために自由を下さる方を、素直に信じ、落ち着いて、
この御言葉の力で魂が救われたことを、心から喜び感謝しましょう。
植え付けられた御言葉を、生活しながら味わってまいりましょう。
お祈りいたします。
コメントをお書きください