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「十字架だけが誇り」

サムエル記下18章に出てくる王子アブサロムは、ダビデ王の子どもたちの中でも、特に美形で有名な人でした。ハンサムとかイケメンという表現がありますが、彼は容姿も美しく、髪の毛も豊かなことを聖書が話題にしています。
 アブサロムは、憎んでいた兄弟を謀殺し、父であり神から王として立てられていたダビデにクーデターを起こし、政権を奪い取りました。
ダビデとアブサロムは戦いました。アブサロムは軍師が提案する平和を生み出す戦死者の少ない策よりも、多くの兵を自ら率いる華々しい策をとりました。
 本日の新約の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙6章。この手紙のまとめの章です。11節で、この部分がパウロの自筆であることがわかります。
パウロは、持病をもっていました。おそらくは持病が原因で、ほとんどの手紙は口述筆記で、実際に筆を執ったのは別な人物です。
しかし、ここでパウロは自分の言葉が文字になるまでに、一旦、他人の筆を通すことを望まず、たとえ文字が乱れても読みにくくても、自分の思いを手紙にぶつけることを選びました。それだけ必死で、パウロは伝えたかったのです。
 パウロが、「肉において人からよく思われたがっている者たち」と書いた人々は、この時代にガラテヤにも及んでいたキリスト教迫害を恐れる、ユダヤ人キリスト者たちの中に居ます。ガラテヤでキリストを信じるようになった異邦人たちに対して、彼らがどんな行動をしていたかが問題なのです。
ユダヤ人たちは神から律法を授かった民族であることを、誇りにしてきました。
「たとえキリストの十字架の贖いを信じても、律法の規定通り割礼を受け、体も
ユダヤ人と同じ、神に選ばれた民の一員になるべき。」と、聞くと、
ユダヤ人ならば、そう考えるのだろうな、と、もやもやしつつ、納得してしまいそうになります。けれど、
この6章12節以降を読むと、この もやもやを超えた疑問に突き当たります。
キリストの十字架ゆえに迫害されたくないばかりに
あなたがた異邦人クリスチャンに、無理やり、割礼を受けさせようとしている。
彼らユダヤ人クリスチャン自身、実は律法を守っていない。
あなたがたの肉について誇りたいために。
何ですって?と、聞き返したくなるところです。
当時、ローマ帝国ではユダヤ教は公認宗教として扱われ、迫害の対象ではありませんでした。キリスト教は当時、既存のユダヤ教からの分派団体として扱われ、
ユダヤ教のメンバーとしてユダヤ教内部で認められているかどうかで、迫害の危険のある無しが決まる状況でした。
ですから、ユダヤ人として生きてきたクリスチャンたちは、最終的に「自分たちは割礼を受けたユダヤ人だ」と、言うことで逃げることができる可能性がありました。しかし、クリスチャンとして兄弟姉妹として交わりを持つ人たちの中に、
異邦人のクリスチャン。ユダヤ人でないクリスチャン。割礼を受けていないクリスチャンが居たら。その異邦人クリスチャンの仲間だ、と、言うことで、自分たちが迫害される可能性がある。それならば、この異邦人クリスチャンたちにも割礼を受けさせれば!
ユダヤ教では、ほかの宗教からの改宗者に律法の規定を守らせることで、宗教的にユダヤ人と認定する、という考え方があるのです。
 しかし、
キリストの十字架のゆえに迫害を受けたくない。とは!
自分たちの罪の身代わりに、キリストが十字架にかかって下さった。
このことを信じてクリスチャンとなったはずの人たちです。
キリストと共に十字架につけられた。このことを信じたはずの人々が、十字架のキリストを信じる信仰を持っていることがバレたら、
迫害され殺されるかもしれない。
確かに、命の危険を目の前にしたら、仲間を裏切る人、嘘をつく人が現れても不思議ではない。事実、キリストの弟子たち自身、キリストご自身の十字架前夜に、キリストのもとからちりぢりに逃げてしまった裏切りは、
福音書に記録されています。
けれども、自分の命の危険を避けるために、兄弟となった人々に割礼を受けるように勧める、とは。それも彼らは、ユダヤ人として割礼を受けることで、
神に選ばれた民族の一員になる。このことが、クリスチャンとしての信仰生活に、必要なことであると言って、異邦人クリスチャンたちに薦めていたのです。
 わたしたちは、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに、十字架にかかって下さったことで、救われました。キリストが死んだことで赦され、
神との関係を回復され、復活されたことで永遠の命の希望をいただき、
キリストが天に昇られたことで天の神の国への希望をいただき、
復活のキリストが約束の聖霊を送って下さったことで、私たちは神と共にある人生を送ることができるようになった。このことを、私たちは信じているのです。キリストを信じ、キリストに救われることで、私たちの救いは完成しています。一体どこに、ユダヤ教の律法が関与する隙が残されているというのでしょう?
 パウロは、15節で、割礼の有無は問題ではない。新しく創造されることが大切であると言っています。新しく創造される、とは?
私たちは、十字架のキリスト、復活のキリストによって救われたことを確認しました。私たちはキリストと共に、十字架で死んだのです。
そして、復活の主と共に生きたものとなりました。
この、私たちの鼻に、神はアダムを創造したとき命の息を吹き込んだ、
あの時とちょうど同じように、私たちに聖霊の命の息を吹き込み、
神の命に生きる者として下さった。これが、新しい創造です。私たちキリストを信じた者にとって、聖霊降臨は、命の息を吹き込まれることなのです。
キリストへの信仰を持つことを理由に、迫害されることを恐れる。
その、恐れそのものは人間として当然と思います。
だれでも死は恐ろしい。特に、殺されることへの恐れは、この時代、現実であり差し迫ったものでした。けれども、
信仰によって兄弟となった人々を騙して、必要のない割礼を受けさせてまで、
キリストの弟子である自分を隠したいと考える。
その人は本当に、キリストと共に十字架で死んだものと言えるでしょうか?
キリストの死によって、新しい命を受け、新しく創造されたものであると言えるでしょうか?キリストにある愛が見当たりません。信仰はどこでしょう。
 本来、十字架は呪いのしるしです。木にかけられるものは呪われる。
私たちが受けるべき呪い。神との完全な断絶を、神の子である方、神ご自身である方が受けて下さった。この十字架以外に、私たちが罪によって失っていた神との関係を回復させていただいた、そのことの印は存在しないのです。
 自らの死を恐れるゆえに、主にある兄弟姉妹を苦しめる。
キリストの十字架を救いの証としている、その信仰を恐れて隠す。
その十字架を恥じる態度は、本当に罪に死んでいると言えるでしょうか。
十字架でキリストが解決した呪いから、彼らは解放されているのでしょうか?
 ダビデ王は、アブサロムを愛しました。彼が王である自分に謀反を企てても、戦いの勝利よりもアブサロムの死を悲しむ盲愛ぶりで、兵士たちを困惑させたほどです。この父の愛も、アブサロムを救うことはありませんでした。
アブサロムは、長く美しい髪を誇っていましたが、戦いの中で、この髪が木の枝に絡まったことで、彼は命を落としました。
私たちは人として体を与えられ、能力を与えられ、生きています。
生まれたことで与えられた姿かたちや能力は、神のため人のために生きる力として与えられた恵みです。与えられたものであって、誇るものではありません。
与えて下さった神に感謝し、神を称えるべきなのです。
アブサロムの人生には、賛美が欠けていました。
 私たちクリスチャンが、キリストによって救われた、と、言う時、
それは新しく創造された命を生きている、ということです。
それにはまず、十字架の主と共に、あるかどうか。
十字架の死を、自分の身に受けているかどうか。
あなたは死んでいますか?  十字架はあなたを救いましたか?
主にあって、信じた私たちの鼻にあるのは、聖霊による命の息でしょうか?
 パウロは、その信仰生活で幾度も、迫害や妨害に会い、幾度も鞭で打たれ、
石打の刑にも会い、体中にその傷跡を持つ人物でした。
彼は、その迫害の傷を、イエスの焼き印と呼んだのです。
焼き印とは、奴隷が売られ、買い取られた時、主人の家の印を体に焼き付けることで、奴隷の持ち主がわかる。その印のことです。
私たちは、キリストに救われたもの。キリストの焼き印を心に持ち、キリストに繋がれて生きる者です。
わたしたちを生かすのは、十字架。私たちの救いは十字架による。
神と私たちを繋ぐのは十字架。
私たちが辿るのは、キリストが十字架を担いで歩かれた道を追ってゆく道です。
 私たちは、神から創られたもの。
私たちがこの神の愛を喜ぶことは、十字架によるのです。
自分を誇るのは十字架の故です。
命を誇るのは十字架の故です。
神が、私たちのために、ひとり子イエスを十字架で身代わりにしてまで、
私たちを愛して下さっていること。これ以上の誇りは、この世にありません。
お祈りいたします。