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「知恵を尽くしてほめたたえる」

 ほめたたえる という言葉を、説教題に入れました。
ほめるとは、良いと思った物事や人物を良い、と認めるだけでなく、その良さを、
言葉や態度に出して表現することです。
さらに、ほめたたえる とは、ただ良い と思っただけではありません。
その良いこと素晴らしい物事を実際に行った人、作り上げた人の行動やそこに至る努力、配慮などを思い、その良さ、完成されたもの起こった出来事の素晴らしさを、尊いものと思うこと。貴重な得難いものと思うこと。その思いを、表現することです。
 旧約聖書、創世記44章をお読みいただきました。
ここで褒め称えられ、起こっていることを解決する力があるとされているのは、当時エジプトの王に最も近い立場にあった一人の大臣です。
この大臣について、44章で話している人は18節で、「あなたはファラオに等しい方でいらっしゃいます」と言っています。彼らはカナンに住む羊飼い一家の
息子たち12人。彼らの父の名はイスラエル。
当時、彼らが居たカナンもエジプトも、周辺諸国も、数年にわたり農作物が取れず家畜に食べさせるエサも手に入らない状態が続いていました。
エジプトでは飢饉の前年まで続いていた大豊作の間に、多くの穀物や食料が王の倉庫に保存され、国内に安定して供給しているだけでなく、外国からの食糧買い付けにも対応していました。
カナンにいたイスラエルは、息子たちにエジプトから食料を買ってくるように言いました。息子たちは無事にエジプトで食料を手に入れましたが、末の弟が盗みを働いた疑いがかかりました。この人は自分の一番下の弟が、この大臣の逆鱗に触れて奴隷とされることから赦してほしいと願っているのです。
言葉を尽くし礼儀を尽くして大臣に、弟を助けて下さるよう、頼んでいた兄の名はユダ。この人は、のちに新約聖書マタイによる福音書の冒頭の、イエス・キリストの系図に名前が出てきます。イエスの人としての祖先の一人です。
ユダはこれより前、もう一人、弟が居ました。この弟はユダを含む、兄たち10人から嫌われ、殺されそうになった事があります。
その時、ユダは弟を殺さずに、外国に奴隷として売るアイディアを出し、
弟は売られてしまいました。
父イスラエルは大変悲しみました。父の悲しみを見たユダは、エジプトでもう一人の弟が奴隷にされようとした時、さきほどの44章の言葉を言ったのです。
年取った父の悲しみ、弟の危機。ユダは、弟を助けて下さったら、今度は自分が弟の身代わりに奴隷になると、大臣に言いました。
 きょうの新約聖書の箇所は、コロサイの信徒への手紙3章です。
これはパウロが獄中で書いた手紙の中の一つです。キリストを信じる信仰を伝え続けてきたパウロはキリスト教迫害の中、逮捕され投獄されました。
パウロは自分たち宣教者が捕まっている間も、信仰生活を続けている信徒たちを心配していました。
コロサイの信徒への手紙は信仰生活について指導し、信徒たちの信仰が揺れないよう、間違った指導者に惑わされて混乱しないように書かれた書物です。
 この時代が、キリスト教迫害の時期のはじめであることを考えると、ローマの皇帝やユダヤ教の指導者たちなど、信徒たちを取り巻く状況は、きょうの旧約聖書の箇所よりも厳しいように思われます。
イスラエルの息子たちは、自分たちの一族が、飢え死にする瀬戸際に居て、
食料を手に入れられる唯一の方法であるエジプトで、指導者から犯罪やスパイの疑いをかけられ、苦しみの中、言葉を選んで危機を乗り越えようとしました。
指導者が捕らえられ、自分たちも信仰者としてどう生きていったらよいかわからない、コロサイの信徒たち。
パウロは彼らに「迫害を受けないように気をつけなさい」とは言っていません。パウロは信徒たちに、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。
と指導し、互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。
と、信徒たち同士が敵対したり争ったりしないよう教えました。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させる絆です。
キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。
と、むしろ愛と平和で、信徒一人一人が結び合わされることを求めました。
キリストの平和に与る。つまり、キリストが平和の主としてもたらした、
和解の福音が、信じた者たちの内で働くように。
自分たち信徒同士が平和に過ごすだけでなく、信じた者たちを通して
キリストの平和の影響が広がってゆく事を求めたのです。
 さらに、キリストの言葉 つまり聖書の御言葉を、
信徒たち一人一人が学び、学んだ御言葉によって生きるように。
信じた者の中で働く、神の霊の働きを、信じた者たちが
聖書の言葉によって認識し、その毎日が豊かなものとなるように。
そしてさらに、互いに与えられた恵みを分かち合い、理解した福音を
お互いに伝えあうこと、教え合うこと、ともに高め合う関係を求めました。
 キリスト教徒として生きることが、生活の自由を奪う可能性のあった時代、
信仰を理由に敵対する人に対して、戦う方法ではなく平和に、やさしく、
豊かに生きることを求めました。
 パウロが、キリスト教徒が最も恐れるべきと考えていたのは、迫害ではありませんでした。マタイによる福音書10章で、イエスが言っておられることです。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」
もし、人として、命を問題にしているのならば、パウロはコロサイの信徒たちに、
キリストの平和を語ることも、キリストの言葉を豊かに持つことも、奨めることは無かったでしょう。
 コロサイの信徒への手紙3章18節からもう一度、見てみましょう。
コロサイの信徒たちへの手紙は、今、キリストを信じるすべての人に対して、こう言っています。
あなたがたは神に選ばれた。あなたがたは聖なる者とされた。あなたがたは愛されている。心を柔らかく へりくだる愛を持ちなさい。
あなたがたは神に愛されているのだから。
主が私たちを赦して下さったように、私たちも赦し合う。
私たちの心をキリストの平和が支配するなら、私たちは主が私たちを招いて下さった平和の中で、招かれ一致することができるのです。
キリストの平和とは、私たちが持つ罪を赦し、神と人の関係を回復して下さった、
キリストの十字架による平和。救い主が人の身代わりに与えて下さった命によって、神と人、人と人の間に回復された、愛による平和です。
私たちを選び、愛し、赦し、招いて下さった方が、キリストの愛によって一致させ、完成させて下さる。
私たちの魂を生かす力、滅ぼす力を持つ、わたしたちを含むすべてを創って下さった神の力、神の意志、神の愛によるのです。
 イスラエルの息子ユダは、かつては自分たちの憎しみのために弟を売り飛ばしても、平気な顔をして家に帰ることができる人物でした。
ユダを変えたのは、自分たちの父親が息子を愛する愛のために、命さえも失いかねないほどの悲しみを持っていることを知ったからでした。
ユダが、父親にも弟にも愛情をもって行動することができる人物になっていることを示したとき、ユダの目の前にいた恐ろしい権力者である大臣は、自分こそが、かつてユダが売り飛ばした、死んでしまったと思われていた弟のヨセフであることを明かしました。
イスラエルの一族は生きていたヨセフによって、滅びの危機から救われました。
 コロサイの人々はキリスト教迫害の中で、信仰を持つことを恐れ、
指導者であるパウロたちが逮捕されたことで怯えていました。
神は、私たちを創り、生かし、それぞれの場所に遣わしました。
コロサイの人々を力づけた手紙に、パウロが書いたように、
私たちは最強の味方を得ています。
天地万物をつくり 私たちの魂を生かす方が、ご自身の意思で、
私たちを選び、愛し、赦し、招いて、完成させて下さるのです。
愛する者たちを、ご自身に象って造られた方は、私たちに命を与え、
私たち自身の愛する者たち・・・家族、友人、仲間と共に生きる場と時を与えて下さいます。
そして、この方が私たちを愛する愛を根拠に、私たちに与えて下さった、
キリストの愛による完成を喜ぶ。その力を与えられています。
ほめたたえる とは、起こったことを、ただ良い と思ったからするのではありません。その行われた良いこと素晴らしい事を実際に行った方、行い続けて下さる方の行動やそこに至る思い、完成されたものの素晴らしさを、尊いものと思う心、貴重な得難いと思う思いを、表現することです。
与えられている命と言葉と思いを込めて、私たちに与えられている知恵の限りを尽くして、三位一体の神の愛と日々完成されてゆくその御業を、称えましょう。
お祈りいたします。