羊飼いアモスは、預言者ではないけれど、神から祖国イスラエルのために預言せよと命じられました。
神はアモスに、イスラエルにイナゴを送ってすべての作物を食べつくす幻と、
火を送って畑も燃やし尽くす幻を見せました。
アモスはどちらの災いについても、「主なる神よ、どうぞ彼らを赦して、止めて下さい。私たちイスラエルは小さな存在。そのような災いを下されたら立っていることができません」と言って災いの計画を思い直していただきました。
しかし、イスラエルの人々が正しくないことは、神がよく知っておられました。
新月祭も、安息日も、イスラエルが人としての日常生活を神のために休む日です。
神を礼拝し、自分たちが日常、犯す罪の赦しを頂くための捧げものをする日です。
しかし、その休みの最中も、神への礼拝に集中するのではなく
「この休みが終わったら、商売をしよう。」と、頭の中では
計画し続けているのが、イスラエルの商人たちです。
神に感謝し、日々の歩みのために祈る安息日も、彼らには
商売をストップされ、稼ぐチャンスを減らされているように見えるのです。
チャンスを逃さないために彼らは安息日にも、
「計る入れ物は小さく誤魔化そう。秤の重りは、重たくしておこう。麦を売る時、普段なら捨ててしまうクズも混ぜれば儲かるぞ。」とか、
「金がない奴は奴隷にしよう。安く買ってやろう」と考え続けています。
祭りが終わったころ、形式通りに捧げられた捧げものの隣で、
彼らの商売の計画は出来上がり、金もうけキャンペーンは即座に発動します。
知恵を使い、相場を見て、しっかり判断して儲ける。
結果として金持ちになった人のことを、世間の人々は勝ち組と呼びます。
けれども主なる神は、イスラエルの礼拝態度に対して言います。
「あなたたちは神である私が選んだ民だからと言って、自分たちは素晴らしいものであると誇っている。その誇りを持っているあなたたちが行っていることは神の選びの民に相応しいのか?私はあなたたちが行った不正も、
弱い人困っている人にあなたたちが行った行動も、何一つ忘れることは無い。
すべて、いつまでも、覚えている。」と。
使徒言行録で、パウロに見いだされたテモテという人は、新約聖書の
テモテへの手紙1を受け取った時、すでに伝道する側、指導する側でした。
テモテにパウロは、信仰は闘いであると言います。
この手紙が書かれたころ、クリスチャンたちは2つの問題の中にいました。
当時、ローマからの公認を受けていなかったキリスト教への迫害、そして、
イエス・キリストが神の子であることを否定する、グノーシスという思想による信仰そのものへの攻撃でした。
どちらの問題に対しても、クリスチャンたちが持っている武器は、信仰告白です。
信仰を告白し、神の子であり救い主である方と自分との繋がりをハッキリさせるために、避けるべきことと 得ようと追及するべきことがありました。
避けるべきことは、誘惑、罠、無分別な欲。
ここには、金銭を含む財産への欲、周囲にいる人と自分を比べて判断し、配慮よりも差別や一時的な利益を求める考え方があります。
自分さえ守れればいい。今さえ通り越せればいい。
そうやって判断した今が、明日 そして将来の
何に繋がるのかは、考えないのでしょう。賢く判断したつもりだと思います。
しかし、その賢さは、エデンで知恵の木の実を見た最初の人がした判断と同じ。誘惑を受けた。罠にかかった。
そう言って、自分自身の無分別や、神抜きでの欲を言い訳しているのです。
追及すべきこととして薦められているのは、
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和 です。
追及すべき最初は、正義。正しい義。義とは、神の性質のひとつです。
あるときは正しく、あるときは間違っている。人間同士の関係ではよくあることです。人間の判断力は、時代や社会状況によって変わります。
今、犯罪と考えられていることで私が子どもの時は問題視されなかったことは沢山、あります。人と人の間では、正義は人の数だけあります。
聖書の言う正義は、絶対無二の動かしようのないもの。
正しさの基準が、時の初めから終わりまで、変わることのない正義です。
次に 信心と信仰。信じる心、信じて目を上げ 主を仰ぎ見る。
信じる私たちの心が揺れても、見上げる目線が揺れても、
信じる対象が揺れないならば、その信仰を受け止める方が動くことが無いなら。変わることが無いなら。信仰によって受けることができる力も、同じように
変わらず、与えられているのです。
3つ目の愛は、神のご性質のもう一つの大切な特徴。
愛が無ければ、義の神である方が、
私たちのように罪深いものを赦すという御業は行われなかったでしょう。
そして、忍耐。忍び耐える心と、
柔和さ。柔らかく私たちを受け入れ、平和のうちに過ごさせて下さる優しさは、
キリストの十字架に、最も表れています。
テモテはこの手紙を受け取るまでに、すでにイエス・キリストの福音を多くの人の前で語りました。信仰を持つことを理由に、迫害を受ける時代。
迫害によって命を落とす人が多くいた時代。伝道することが命がけの時代。
テモテのこの働きを、パウロは
多くの証人の前で、立派に信仰を表明した、と喜びました。
そう言ったうえで、パウロはテモテに、正義・信心・信仰・愛・忍耐・柔和を追究し、信仰の戦いを戦い抜くように命じました。
この命令に、パウロはたいへんな立会人を二人、立てています。
一人目は、万物を生かす神。すべてを創り出し、全てのものに命を与える方。
もう一人は、キリスト・イエス。
特に、この方が十字架を目前にして、ポンテオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証された方であるとして立っていただきました。
ここで、イエス・キリストではなく、キリスト・イエスと言って、
この方の名前の意味するところを、パウロは強調しています。
キリストとは、ヘブライ語でいうメシア。救い主の意味だと言われていますが、
もともとは「油を注がれた者」「任命された者」という意味でした。
油を注いで任命するとは、サウロやダビデを始めとする人々を
イスラエルの王として任命する時に、行われた儀式です。
キリスト を強調して呼ぶ場合、救い主であることだけでなく、真の王として
居て下さる方として呼んでいるのです。
また、イエスという名前。これは現代のイスラエルでも大変ポピュラーな名前だそうですが、ヘブライ語で発音するとヨシュア。「ヤハウェは救い」という意味です。キリスト・イエス。王であるヤハウェは救い と、呼ばれる方。
神とキリストを立会人として、テモテが戒めを守れ、と、命じられた。
この命令の継続する期間を、パウロは主イエス・キリストが再び来られる時まで、
と、言っています。
パウロはこの命令は、永遠の命を手に入れるため、だと言っています。
永遠の命。そう聞くと、それがあれば死なない、死ぬ心配をしなくてよい、と、
考えます。でも、私たちはイエス・キリストが十字架の死を経験したのち、
私たちの代わりに陰府に降り、さらに復活して生きた者として天に昇られたことを、聖書を通して学んできました。
永遠の命、と、聖書が言うとき、対極に永遠の死、というものがあります。
永遠の神の祝福に入る命と、永遠の神から離れた滅びに至る死。
神からの愛を受け続ける命と、神と再びお会いすることも関わることもない死。
人間を、ご自身の愛を受ける者として
創造された方と対話し、愛による交わりを受けるために。
永遠の命を受ける、とは、
人が、人として創造された当初の目的のままに、
神から永遠に愛される存在になる。
さらにキリストの犠牲を越え、神の子として回復して頂く、ということなのです。
この世の終わりに、キリストが再臨する時まで、ただひたすら戒めを守り続けることを求められている。そう考えると、パウロには申し訳ないですが、
息切れします。神から愛されている、と言いつつ、終わりの時まで苦行が続く?
私は6章15節に、希望があると思います。
神は定められた時にキリストを現わして下さいます。
定められた時。これは、世の終わりだとは書いていません。
私たちが自分の持つ不正義や信仰の迷いを乗り越えて、神に近づくことを
願って生きるなら、神は定められた時にキリストを現わして下さる。
この定められた時は、一度きりのものではないと思います。
まるでヤコブが神と格闘し祝福を勝ち取り、スラエルという名を付けて頂いた時のように、私たちの信仰の闘いの中で、神から全てのものを豊かに与えられて
私たちが毎日の暮らしを楽しませて頂く。
神に望みを置き、真に永遠の命を目指して生きる時、私たちの足元は
神の愛への信頼によって強くされます。
毎日の歩みの中で、私たちは不安になって歩みが止まる時にも、
「大丈夫!神様は助けて下さる」と、自分を励まして、毎日、
助けられた記憶を積み重ねてゆく時、足元はさらに確かになり歩みは進みます。
私たちはその歩みの中で、救いの主、イエス・キリストをそれまでにも増して、
知るようになります。世の終わりにまで至る歩みの中で、
まるで、あちこちに隠された宝を見つけながら歩くように、
キリストの導きと愛が、生活の中に日々、現わされてゆく。
キリストと共にいる日々が喜びとなる経験が、先へ先へと続いてゆく。
私たちの今日は、神の愛を喜びながら未来へ、永遠の時に繋がってゆくのです。
お祈りいたします。
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