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「心が求めるから動く」

 アモスは主なる神に示されて、祖国の滅亡を預言しました。
神は人々が暮らす地上に、飢えを送ると言われました。
体のための飲食の欠乏ではなく、心のため魂のための欠乏、
主の言葉を聞くことができない欠乏の預言でした。
人々は主の言葉を探し求め、よろめき歩くと書かれています。
主の言葉を聞くことができない。
これは、人間以上の力を求めているのに、魂の目が曇って神に向き合えなくなる。
信仰の必要がわからなくなる。礼拝に集うことが苦しくなる。
私たち人間は、神によって創造されました。
創造の業を、主は、主の言葉によって行われ、
すべて造られたものは、主の言葉によって、命と役割を与えられました。
主の言葉に飢える、というのは、命を下さる方の言葉が魂に届かない。
魂に、主の言葉を受け止める力がない。
神の言葉によって与えられる命を 受け止めることができないということ。
これは、人として非常事態です。
体が元気で、食事も運動も仕事も問題なくできる時も、
魂に力が無くなると 人の命は危なくなります。
 伝説的なお話ですが、昔、生まれたばかりの赤ちゃんを、実験を試みた王様が居たそうです。人は生まれたときは話すことができないのに、次第に言葉を習得してゆく事に興味を持った王は、生まれたばかりの赤ん坊を隔離し、
言葉をかけることを禁止しました。授乳も沐浴も、排せつの世話も滞りなく受けられ、温かい清潔な部屋に置かれた赤ん坊が、どんな言葉を話し始めるのか。
王の興味から実験台にされた赤ん坊は、生きていることができませんでした。
身の回りの世話は受けられても、禁止された語りかけをしないように
緊張した世話係たちから、語りかけだけでなく微笑みさえ
受けることができなかった赤ん坊は、与えられたミルクを飲む力も
泣く力も出せなくなり、一言も話すことなく死んでしまったそうです。
 愛を受けることができなければ、魂が飢えているなら、人は生きる力が失われてゆきます。微笑みや、語りかけ。心の交流があるならば、人は動く力、
生きる力を発揮することができます。
 ヤコブは手紙の中で、信仰と行いについて話しています。
神のほうを向きたくない。神に興味が無い。神が存在するとは信じられない、
という人には、信仰はありません。
神はご自分を信じ、向き合う人に存在をさらに表して下さいます。毎日の生活の必要は、神がいつも満たしていて下さいますが、その恵みが神ご自身から来ているのだ、ということを、信仰によって理解できるようにして下さいます。
 ヤコブは、行いの伴わない信仰は役に立たない、と言います。
「あなたは信じていますか?」と聞かれて、「はい。信じています」と答えることも、日本の日常生活では難しいこともあるでしょう。
神を信じている自分の心を確認し、信仰を告白し、洗礼を受ける。
洗礼を受けてすぐは、「私はクリスチャンになったのだから」と、まじめに生きよう、周りの人のために配慮できるよう頑張ろう・・・と、真剣に頑張ったことのある人も居るでしょう。
ヤコブが書いている信仰を伴う行いとは、そういうクリスチャンになったことの責任感で動くということではありません。
ヤコブは、行いを伴う信仰を表した人の例として、
アブラハムとラハブについて書いています。
 アブラハムが信仰を持つ者たちの父と言われる存在であることは、
ヤコブの手紙を読んだ人たちはよく知っていました。
ヤコブはアブラハムが信仰によって、自分のたった一人の息子イサクを捧げ、
その行いによって義とされたと書きました。アブラハムは、行く先も知らずに
神に従って故郷を離れ、まだ一人も子どもを与えられていない時に 子孫が海の砂のように多くなるとの神の言葉を信じた人です。
彼の行動が神の力を知っているからと思って読むと、まるで
神の強大な力を恐れて、アブラハムが従ったように思われるかもしれません。
でも彼が故郷を離れて旅に出た時、彼に与えられていたのは祝福の約束でした。
神が自分を選び、地上のすべての氏族の祝福の源とする。
彼を動かしたのは、この約束への喜びと、約束を下さった方への信頼だったでしょう。彼は信じ、神の言葉を受け入れ、決意し出て行ったのです。
また、もう一人ヤコブが書いた娼婦ラハブ。イスラエルの人々が
主の導きでエリコを攻めようとしたとき、周りを城壁で囲まれたこの街の城壁の上に住んでいました。ラハブもエリコの人々も、イスラエルの人々が
指導者ヨシュアと共に近隣の国々を攻め滅ぼしたことを聞いていました。
イスラエルの神は、彼らと共に戦われる。神と共にあるイスラエルは強い。
エリコの人々は、イスラエルに対して戦って勝てるとは思っていませんでした。
でも、このエリコの人たちの中でイスラエルの人たちに、自分や家族を助けてくれと頼んだのはラハブだけ。エリコを探りに来たイスラエルのスパイたちの言うことを聞き、行動したのは彼女だけ。彼女と彼女の家族だけでした。
自分の住んでいたエリコを、神がイスラエルに与えたのだ。イスラエルの神こそが天地万物の神である。このことをラハブは知っていて、はっきりと口に出しました。真実 神であると信じた方に、ラハブは自分と自分の家族を救って下さるよう願いました。戦いの前夜、親族たちは彼女の家に集まりました。
ラハブは決断し、言葉に出して誓い、その決断に家族も従ったのです。
この時から、ラハブとその一族はイスラエルに寄留し、共に行動しました。
ラハブは信じて助けられ、このときスパイとしてエリコに潜入したうちの一人と結婚しました。彼女の名前は、マタイによる福音書のイエス・キリストの系図に出てきます。
ヤコブが言うように、行いのない信仰は役に立たない。行いとは、生き方です。
ラハブは故郷と真の神の民が戦う時までに耳にしたイスラエルの神のお働きを心にとめていました。
 ヤコブは辛らつにも、「悪霊でも知っている」と言った、
神の力を知っている。神がお一人であることを知っている。ということ。
それだけでは、信仰があるとは言えません。信仰に生きているとは言えません。
聖書には神の言葉が書かれている。開いて読まなくては、その言葉を受け止めることはできません。
 イエスが話された種をまく人の喩えのように、御言葉が心に撒かれても育つことができないとき、植物の種ならば育たないのはその植物ですが、
御言葉の場合は蒔かれた心が、成長できず栄養を受け取ることができません。
私たちは御言葉の種を受け止め、さらに自分でも主の御言葉を読み、聞き、
積極的に主からの栄養を摂取すべきです。
 私の母は、酸素吸入器を使用している肺に病を抱えているものです。
酸素が吸えない。呼吸しても酸素を取り入れることができない時、人も動物も、目に見えて苦しそうにすることは無いそうです。
酸素が取り入れられないと、体の機能が働かなくなり、パタリと倒れてしまう。
そのとき、すぐ対応できないと危ない。息が吸えなくて苦しむのはドラマだけ。そう言って、医師からも看護士からも注意するよう言われました。
私たちの魂も、欠乏し飢えるとき、命の源である神との関係は失われます。
酸素が欠乏した体が、動くことができないように、
命の神とつながりのない魂は、心と体を動かす力は無く、行いを生み出すことはできません。 信仰は生きていますか?魂が飢えてしまってはいませんか?
イエスはご自身を、命の泉の源であるといわれました。
おなか一杯美味しい食事をした人が、気持ちに余裕がでて怒ることが無いように、魂が命の水に満たされているとき、命は余裕を持つことができます。
私たちは生活の中で経験したもの食べたものを、「ぜひ、それが食べたい!」と、強く思う時、それは好きなもの、美味しかったものですね。
食べたことのないものを、「ぜひ」と思うことは、ほとんど無いでしょう。
経験した喜びは、心を動かし、心が欲すると私たちは動くのです。
 実は、神への信仰も、経験によって力を増します。
神を信じて生活し、自分の思い願いを 祈るたびに神に伝えていると、
神が応えて下さること。神が聞いていて下さる、
私たちに興味を持っていて下さることを、知ること気づくことができます。
ぜひ、皆さま、ご自分の祈り、願いをメモし記録してみて下さい。
記録しないで祈ると、私たちはすぐ、忘れてしまいます。
神が祈りを聞き、叶えて下さっても、私たちは祈った内容を忘れてしまって、
祈りが聞かれても感謝できないのです。
神に祈り、聞かれる経験をする。不安や悩みを神に打ち明けて、
解決や対応方法が見つかる経験をする。そういう経験を積み上げてゆく時、
私たちの信仰は強くなり、祈りを聞いて下さった神への愛が強くなり、
まっすぐ、神に向き合えるようになります。
聞かれた祈りだけでなく、聞かれなかった祈りも、記録して振り返ると、
神の計画が動く、その道筋が少し、見えることもあるのです。
 信仰は生活するものです。神と共に生きることです。
神から命の栄養を頂きながら、神が私たちの人生に与えて下さっている恵みを振り返る時、神が確かに、この自分を愛し守り導いて下さるのだと確認できます。
神の愛の記憶が、私たちに与えてくれる力で心が動くとき、
私たちの次の一歩の力は与えられます。
神に向き合い、神に願い求めてゆく歩みを、続けてまいりましょう。
お祈りいたします。