アブラハムは、信仰の父と呼ばれています。
彼は、人生の転機として3つの点で、神への信仰を試されました。
一つ目は、自分自身は目的地も知らないままに、自分の一族を連れて
神の示される場所に向かって旅立ったこと。二つ目は、子どもを得られる望みを失ったのち、息子イサクを与えられたこと。3つ目はそのイサクを捧げよ、と、神に命じられたことです。
1つ目の旅。彼の時代、人々は飲む水、生活に使う水を手に入れられるオアシスに、町をつくりました。
アブラハムの故郷カルデヤのウルも、その後に住んだハランも、歴史のある町で、人も産業も、いろいろな神々への礼拝施設もある、
豊かな水源に恵まれた町でした。
水源を離れて旅をする ということは、あえて死の危険に飛び込む、ということです。旅先で 井戸や川を見つけることができなければ 命が危ないのです。
彼は妻や甥の他にも、彼と共に旅立った仲間を連れていました。
この旅は、民族の移動の旅。神の言葉に従う信仰と、生きてゆくために与えられている知恵、体力、家畜や財産の使い方を学びながら進む旅、
共に旅する人々と争わず、仲間を守りながら進む、族長としての旅でした。
彼は行く先々で神に、進んでゆく方向を聞き、神に示される場所につくたび、
神から進む方向を教えられる度に祭壇を築き、捧げものを捧げて礼拝しました。
この礼拝は、「この場所に着きました」という報告の礼拝ではなく、
毎回、その場所にたどり着くまで、その日その時まで、生かされていた喜び、
命が守られ生きていることへの感謝でした。
二つ目の試練、彼と妻には子どもが与えられませんでした。
アブラハムは一族の族長でした。一族の中で子が生まれる時、その出産の世話は族長の妻、サラの仕事でした。アブラハムは、生まれた子に名を付けました。
仲間に子が生まれても、族長である自分には後継ぎがいない。
子どものいない自分の跡を継ぐのは、信頼している僕であると考えていた。
そんな彼に、神は天の星を見せ、
「数えてみなさい。あなたの子孫は、この星のようになる」と言われました。
神からの使いが、彼らの天幕を訪ねて、サラに子どもが生まれることを告げた時、アブラハムは、100歳、妻サラは90歳。
ローマの信徒への手紙はこの時のことを書いています。自分も妻も衰えている、と、アブラハムは考えていました。
この文章を他の翻訳で読むと、アブラハムは自分の体がすでに、死んだも同然だと感じていたこと。妻サラの受胎能力が、すでに死んだものであると知っていた、と、書いてあります。
自分も妻も、人間としての体の機能は死んだも同然だと認識していても、
自分たちに子どもを与えると、神が、仰ったのならば、子どもは得られる。
自分たちの死んだ体を、神は再び生き返らせて、子孫への命の継承をさせてくださる。神は死んだものを生き返らせてくださる方だと、彼は信じたのです。
アブラハムには、さらにもう一つ、大きな試練がありました。
いま、聖書を読む私たちは、先ほどお話したイスラエル12部族につながる彼の子孫を知っていますが、アブラハムにはまだ、やっと授かったたった一人の息子、
イサクがいるだけ。そのアブラハムに、神はそのイサクを、
山で、捧げものとして捧げなさい。神への捧げものとして、神のために
あなたの子、イサクを殺しなさいと言われたのです。
神は、彼が振り上げた刃物を、下ろさせることは ありませんでした。
イサクは、捧げものとして縛られ、自分を焼くために父親が組み上げた
祭壇の上に載せられましたが、生きたまま降りて、父と共に、
自分たちの家に帰ることができました。
アブラハムは、神が彼の子孫を星のようにする、と言われたことを信じた上で、そのたった一人の、息子イサクを、神に捧げるべく連れてゆき、
神の意志に従って、死んで生き返った者のように連れて帰ってきたのです。
アブラハムの生涯にあった3つの大きな死の試練は、
イエス・キリストの生涯と響き合うところがあります。
アブラハムは、オアシスの町を離れて旅立ちました。
イエス・キリストは、神の御座を離れて、限りある命を持つ人として
この世に、お生まれになりました。
アブラハムと妻サラは、産むことができないはずのイサクを授かりました。
イエス・キリストは おとめマリヤから、聖霊によって誕生されました。
アブラハムは、たった一人の、将来 自分の子孫につながる約束の子、
イサクを、神に捧げました。
神は、一人子イエスを、人類の罪の身代わりとして十字架に架け、
イエスを信じた人々が、永遠の命を得る神の救いの約束を果たされました。
ローマの信徒への手紙が言うように、死者に命を与え、存在していないものを
呼び出して存在させる神が、なさった御業の数々です。
天地万物をその言葉によって呼び出し、創造された方が行われた御業です。
神への信仰によって義とされた人 アブラハムの生涯によって、
人と神の歴史を信仰と愛によって結ばれた神が、
イエス・キリストによって、救いと神の国に繋がる永遠の命の計画を
成就されたのです。
旧約聖書全体を通して、人類に歴史を経験させた神は、約束の救い主の生涯によってその歴史を振り返らせてくださいます。
この歴史の中に、神ご自身が 人として生まれて下さった。
永遠という、時の縛りの無い存在である方が、私たち人に見える姿で、
人の歴史の中に現れて下さったのです。
アブラハムは試練の中でたびたび、自分の生涯を導いて下さる神に礼拝し、
命を与えられている感謝を表した、とお話ししました。
アブラハムは、現実に見ていることとはかけ離れた神の言葉を信じる信仰によって、義、つまり正しい者として神に認められました。
神が、神であるから。天地万物を創り、創ったすべてのものを支配し、光も闇も、
時も、すべてご自身の支配のもとに持っておられる方が神であるから、
アブラハムは、疑うことなく信じ、従う生涯を送りました。
彼は、信仰があるから従い、信仰があるから生き、信仰があるから命をかけて、神の言葉に従いました。
人には、神ご自身を見ることはできません。神のご計画を知ることはできません。神が人に、信じる力 信仰を与えたのは、人の見る力、知る力の及ばない所にいる方である神と、私たち人が霊によってつながるものとして頂くためです。
アブラハムは、信仰の力によって神に従い、神から認めていただきました。
目に見えるものは、信じる必要はありません。
触って確かめることができるものを、信じる必要はありません。
しかし、見ることのできるもの、触れることのできるものは、
形ある やがて失われるもの。壊れ、終わりが来るものです。
永遠に至る命を約束して下さる方は、限りある命の時を生きている私たちに、
信仰を与えて、神と永遠につながる力を持たせてくださるのです。
イエス・キリストは、神と人をこの永遠に終わる事の無い力でつながることができるように、十字架に架かられました。
アブラハムが、信仰によって乗り越える力を頂いた、死の試練。
アブラハムは、神を信じることで力を得ました。
イエス・キリストは、アブラハムをも含む 人という存在が持つ限界を、
ご自身の死によって乗り越えて下さいました。
イエスの死によって、神と人を永遠に切り離す滅びは、その力を失いました。
イエスを信じることで、人間は死んでもイエスへの信仰を通して、
神と繋がることができます。
そしてイエスが死と滅びを人の代わりに経験した上で、復活された。
復活されたイエス・キリストは、神であり人であり、
人の死と命との境目を超えた存在として、死ぬことと滅びることを切り離して下さいました。
罪によって、永遠に神とは関係の無い者となるはずだった人間。
イエス・キリストと私たち人間は、イエスが神のもとに昇られたのちも、信仰によって繋がることができる。イエス・キリストを信じることによって、
私たちはイエスと繋がり、イエスによって、神と繋がり、神と繋がることで神の国の国籍を持つ者となるのです。
私たちの罪は、神であるイエス・キリストを人として十字架につけるほど、
重いものです。
ヨハネによる福音書3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神は、私たち人を世に置かれ、私たちを愛し、私たちが信仰の力によって神と繋がるために、神の愛を、私たちに受けさせるために、
イエスをお与えになったのです。
お祈りいたします。
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