ヨハネによる福音書6章は、イエスが五千人以上の人を、
5つのパンと2匹の魚によって満腹させた奇跡で始まっています。
イエスの話を聞きたい、と集まった人々は、5章までにイエスが病気を癒し、
歩けなかった人を歩けるようにした奇跡の話も聞いていました。
イエスと一緒にいれば、病気も怖くない。イエスは私たちを空腹のまま放っておかれることはない。そう考えた人々は、イエスの行くところ、
イエスの弟子たちの行くところに、ずっと一緒についてゆこうとしました。
弟子たちが舟で向こう岸に行ってしまい、イエスもその舟に海の上を歩いて行って乗り込みました。人々がきのう、イエスといっしょにパンを食べた場所に来てみると、イエスも弟子も居ませんでした。
そこで人々も、舟に乗ってイエスを探しました。
人々が追いかけてきたのは、イエスが食べるものを下さったから。
一緒にいれば、飢えることは無い。男だけでも五千人がパンを食べたこと。
彼らの期待が食べ物にあることをイエスはわかっておられました。
歩き回るイエスを追いかけて、暮らしている彼ら。
どこかに腰を落ち着けて働いている人ではないのでしょう。
貧しい彼らがどこにいても、こんなに沢山の人について、イエスに文句を言う人がいたかどうか、聖書には書いてありません。
仕事のある時だけ雇われ、収穫を手伝う人、雇われることができなくても、
畑に落ち穂を拾いに集まる人が、当時は沢山いました。
病気になって働けないと、すぐ、家族が飢えてしまいます。
そんな彼らに、イエスは神の働きをパンに喩えて話されました。
イエスの話は、彼らには魅力的でした。
神が、天から、パンを与える。そのパンを食べれば、永遠の命が得られる。
神の業を行えば、永遠の命に至るパンが手に入る。
そのパンがぜひ欲しい。神の業を行うとは、何をしたら良いのでしょう?
イエスは、神がお遣わしになった者、すなわちイエス・キリストを信じるなら、永遠の命が手に入る。私を信じなさい、と言われました。
食事をする時、目の前の食べ物を食べてもよいか、迷うことはありますか?
食べ盛りの子どもたちが、明日の食事にする予定の食材を食べてしまい、
帰宅した親が真っ青になる、ということはあるでしょう。
食べる、ということは料理の種類はともかく、
食物を口に入れ噛み砕き、飲み込む。この一連の動作です。
食べ物に毒や、嫌いなものが混じっていないか迷う時、私たちは口に入れることができませんし、たとえ口に入れても、吐き出すことになるでしょう。
食べることには、食べ物に不安が無いこと、恐れがないことが必要です。
この食事を作った人は、手を洗っただろうか。
食材は清潔だろうか。料理した後、腐ってしまったりしていないだろうか。
疑っていては、食べることはできません。
私たちは料理した人や食材への信頼によって、恐れることなく食べ物を
口に運びます。一緒に食卓を囲むことには、お互いへの信頼や安心が伴います。
自分が食べることの喜びを、一緒に分かち合えることは、とても幸せなことです。
パンを求めて集まってきた人々は、イエスが言った言葉に、ぎょっとしました。
イエスは、「私が命のパンである」と言い、
自分を食べる者が、世の終わりの日に復活する、と言われたのです。
この喩えを考える時、私は痛みを感じるほどに悲しみを覚えます。
わたしたちの罪は、こんなにも重いのです。
私たちは十字架に架かったイエスの身代わりによって、罪を赦されました。
私たちが持っていた罪、イエスが十字架で負って下さった罪は、
私たち自身が、イエスというパンを、食べるほどに。
噛み砕き、飲み込み消化する。このような扱いを、イエスご自身に行うほどに、
深く、大きな、そして残酷なものなのです。
私たちが罪を犯す時、「さあ、罪を犯すぞ」と思って行うわけではないでしょう。
私たちが生まれながらに持っている、神から離れようとする性質、
神を知ろうとしない性質は、私たちの自覚の無いままに、
イエス・キリストを十字架に打ち付けています。
以前、公開されたパッションという映画で、キリストの受難が描かれました。
あの映画を監督した方は、1シーンだけ、自分の体の一部を映像に残しています。キリストを十字架に打ち付けるローマの兵隊の腕。その腕が、監督のものです。キリストの十字架は自分のため。自分自身の罪が、この方を十字架につけた。
この信仰の表現として、彼は自分の腕で、映画の中のキリストに釘を打ち込んだのです。
キリストは、十字架で身代わりになるために生まれなさいました。
「私は命のパンです」とは、「さあ、私を信じて食べなさい」ということです。
私たちがイエス・キリストを信じるとは、この命のパンには毒など入っていない。
このパンは永遠の命を与えるパンだ。と、信頼して食べる、ということです。
私たちは、料理する人を信頼し食材を信頼して毎日、食事します。
命のパンを用意し、与えて下さったのは、天の神。
天の神が私たちに与えて下さったのが、イエス・キリストです。
神ご自身が、命のパンの料理人で、この食事は、天の国の食卓に繋がっています。
私たちは、イエス・キリストを与えられ、天の国の食卓に招かれました。
いつも、聖餐の式で、皆さんと共に確認していることです。
神の国に迎え入れられる一人一人は、キリストによって神の家族に迎え入れられた存在です。神の子が、命がけで招いて下さったから、私たちは神の家の客であるばかりでなく、神の家に住むものなのです。
キリストは神の家を、建てて下さった神のために、その家に住む人々、私たちを、
その家に住むにふさわしい者へと、清めて下さったのです。
神は、天地万物を創り、私たちを創り、私たちが持ってしまった罪を赦すため、命のパンとしてイエス・キリストを与えて下さり、赦されたものとして私たちが住まう天の国を建て上げて下さいました。
神は、天の国を用意して下さっています。でも、その国に入れていただくのは、私たちの命の日のおわりが来た時です。
いま、生きている私たちには神の家族であることの意味は無いのでしょうか?
イエス・キリストが、復活して天に帰られた時、私たちに約束して与えられた聖霊が、私たちと共にいて下さる。
では、聖霊は私たちと、どのように一緒におられるのでしょう?
ヘブライ人への手紙3章6節に、そのことが書いてあります。
3章6節は、私たちこそ神の家なのです。と、書いてあります。
キリストは、ただ、私たちを清めただけではない。
命のパンとして、私たちに命を与えて下さるだけではない。
私たちが信頼してキリストを受け入れた時、
キリストご自身が、私たちの中の土台の岩となり、神はその岩なるキリストの上に、家を建てて下さいます。私たちの中に、神が建ち上げる家。
私たちと共にいて下さる聖霊が住まう家です。命のパンは、私たちを清め、
私たちが聖霊を住まわせることができるほど、神が私たちの中に留まることができるほどに、私たちを清めて下さり、私たちが家となるのです。
イエスを追いかけてきた人々は、聞きました。
私たちはなにをしたらよいでしょうか?神の業を行うこと。
神がなさる行いを、私たちも行い、イエスに倣って生きることです。
イエス・キリストは、神の御心を行うために天から下って来られました。
命のパン、イエス・キリストを食べる。
食べるとは、その食べ物をつくった料理人と、その食材を信頼して食べ、
それによって栄養を採り入れ、自分の体を造り上げ、力を得ることです。
私たちは食事をしないと、動く力が得られず、体の疲れも癒せず、
全身の細胞を新しく作り変えてゆく、命の活動ができません。
私たちが日常、食べているものによって、私たちの体の細胞は入れ替わり、
私たちの肉体は日々、古い細胞を捨てて新しい細胞を造り出しています。
私たちの肉体が、毎日新しく作り変えられているように、
私たちがイエス・キリストを通して与えられる恵みは、私たちの霊と信仰を日々、
新しくし、私たちはしだいに、神に近づく力、神のお働きに気づく力を与えられます。
食べるとは、料理人と食材を信頼して受け入れること。
私たちが出会うすべてに、神の御心が働いていること、神の力がすべてのものに現れていると、毎日、新たに気づきながら、生きること。
神が私たちに住まわせてくださっている神の霊、聖霊によって、神のお働きに期待する力を与えられ、神に感謝する力、神に祈る力を与えられて生きること。
生きて、神への信仰をさらに強めていただきましょう。
一歩先にある時間が、私たちに驚きや困難を運んでくるときに、
その苦しさ、悲しさを神に打ち明けることができるように。
神の業とは、神が遣わして下さった方を信じること。
信じ、受け入れ、神によって生きること。
私たちのきょうに、神が現わして下さる神の業に、きょうも信頼と期待をもって、生きてゆきましょう。
お祈りいたします。
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