人間は、神と対話する者として創られました。神は人間に、お創りになったすべての生き物を支配する働きを任せました。支配するとは、管理し
責任を持つ事です。人間は神にかたどって造られ、全ての生き物を管理監督する責任を与えられました。神は人を信頼し、任せて下さったのです。
責任ある立場に立つ場合、任された物事を扱う本人も、
管理する対象以上に厳しく、自分自身を管理する必要があります。
聖書の中で、神から罰せられ、罪あるものとされた人たちは、
私たち現代人も持っている責任者の常識を超えてしまった場合がほとんどです。
アダムたちは、管理を任せた神にではなく、自分が管理すべき神に造られた生き物の一つである、ヘビの言葉を聞いてしまいました。
旧約聖書に出てくる王たちも、また預言者たちも、神が彼らを信頼して与えた立場と責任を、果たしきれませんでした。彼らはその責任を果たすために、
責任を与えた方に指示と助けを求めるべきだったのです。
しかし、彼らは与えられた立場を、自分の権利、権力として扱い、自分の権威を人である国民に認めさせることに懸命になりました。
目に見えない神ではなく、彼らが戦った敵が持っていたような、木や石や金属で造った神々の像を国中に建て、言葉を発することのない像の大きさや目に見える美しさで、自分の権力を、表そうとしました。
本来は、神の神殿に仕えていた預言者たちの中にも、神に祈り神に聞くのではなく、王の言葉を聞き、王の権力を守るための言葉を話す者たちも出てきました。
神によって創られ、すべて神によって「良し」とされたもの。
そのすべてを、人として、真の神を信じる者として、神の信頼のもとに管理し
責任を持つ者。それが、私たち人間の、本来の姿です。
神と共に、神が造り上げるものを喜んで、名前をつけて呼ぶ者だった最初の人。
彼らも後の子孫たちも、神の信頼にふさわしい生き方をしては来ませんでした。
キリスト教の聖書が とても特殊なのは、神と人間の関係の良いところばかりを書いた書物ではない、というところです。
特に旧約聖書は、神と人との関係が、人の生き方や判断によって、いかに離れたものになっていったか。神が人をいかに愛し、導いてきたか。
人がいかに、神の愛と信頼から離れていったか。その記録とも言えるものです。
聖書の後ろのほうに、新約聖書があります。
新約と旧約の違いは、イエス・キリストが生まれる前か、後か、ということです。
聖書の旧約 新約 のやく は、約束の約。
翻訳の訳ではありません。英語のtestamentは、辞書では
遺言、遺書、聖書、証、信条、告白と出てきます。
旧約も新約も、約束の記録、後の人々に伝える遺言であり、
聖書を書いた人々が、自分たちの信じるところを書き記したものなのです。
信じることの遺言が、人の神との関係の失敗の記録である。
これは驚くべきことです。人としての存在の、悲しむべきことです。
旧と新の約束の記録であるとすると、それぞれの約束は、
何を指すのでしょう?
旧約は、先ほどの創世記で与えられた責任の約束であり、
後に民族としてのイスラエルが、出エジプトの旅の中で与えられた律法、
人が神に従う上で守るべきとして与えられた規定を意味します。
この規定は、聖書の中の創世記から申命記までの5つの書物に書き記されているものです。イスラエルの人々はこの規定を持ち、守る民と呼ばれ、律法を持つ人々と呼ばれてきました。
けれども、先ほどから、聖書は人が神の信頼に従わなかった記録であるとお話してきました。そうなると、聖書は約束規定を載せた書物であると同時に、
その約束を守らなかった記録である。ということになります。
約束を与えられ、しかし約束を守れなかった人間を記録した書。
旧約と呼ばれる律法の約束は、守られなかった約束の記録なのです。
では、新約とは。新しい約束とは何でしょう?
旧約と新約とは、一つの出来事によって、隔てられています。
それは、新約聖書マタイによる福音書、ルカによる福音書が書き記し、
世界中が12月にはその言葉で祝い、世界中に知られていることです。
クリスマス。これは、イエス・キリストがこの世に誕生したことを祝う、
礼拝を意味する言葉です。新約聖書のはじめに並ぶ4つの福音書は、
あるものはキリストの誕生から。あるものはキリストが伝道を始めた時からを記録しています。
イエス・キリストは、人としてこの世に生まれ、多くの人に神の福音を語り、
十字架にかかり、死んで葬られ、3日後に復活し、生きた者として多くの信徒の目の前で、天に昇りました。
キリストの生涯、キリストの死と復活は旧約聖書に預言されていた言葉と、
イエス自身が語った福音によって、旧約の時代に律法に従って捧げられた、
神への供え物の完成であると、書かれています。
旧約の時代、神との約束を果たしきれない人間のために、罪を赦し神を礼拝する権利、神に近づく権利を回復するために、牛や羊などの捧げものをすることが律法の規定として与えられていました。
まだ建物としての神殿を持たなかった時代も、エルサレムの神殿建設が成されてからも、人々は年に一度、自分たちの罪の身代わりとして家畜を捧げることによって、神への自らの不誠実な罪を告白し、赦しを乞うことが彼らの習慣でした。
神の子として預言の実現として生まれ、育ち、自ら神の民、神を信じる人々、
神に誠実に向き合うことのできない罪に捕らわれ、
罪の赦しを求めても、毎年の捧げものによっても、完全な救いを得られなかった人々に、救いを与えるために来た、ということを、
イエス・キリストは弟子たちに、また集まってきた人々に語り続けました。
罪の赦しを得るために、捧げものが必要である、という考え方。
その捧げものを代金として支払うことによって、罪の力に捕らえられ、罪の奴隷となっていた人を買い取る。買い取られた人は、その支払われた捧げもの。
代価として渡された捧げものの価値と同じだけの救いを得る。
旧約の時代以来、毎年の捧げものが必要だったのは、人間の罪の贖いのためには、
家畜の捧げものでは価値が低く、完全に買い取ることができないものだから。
人間の罪の身代わりになれるのは、一度も罪を犯したことのない人間が、身代わりとなるのでなければ、完全には買い取ることはできない。
罪からの完全な救いは、「罪を犯したことのない人間」という、存在するはずのない身代わりが必要なのです。
神が、私たちを創り、愛し信頼して、神が造られたすべての管理者にされた。
神にとって、この信頼にこたえることのできない人間は、それでも愛する、
信頼を寄せる対象であってほしい存在なのです。
この世に、いるはずのない、身代わりになることができる存在を、用意することができる方は、私たち人を創られた神、ご自身しか、いらっしゃいません。
神の御子イエス・キリストは、この世に人として生まれるずっと前から、
神と共におられ、神はこの方によって天地万物を創造されました。
創世記の1章に、神が「光よあれ」といわれてから、言葉によって創造のわざを進められたことが書いてあります。
神の言葉。これは、イエス・キリストご自身の事です。
聖書を神の言葉と呼びます。これは、聖書はイエス・キリストご自身のことが書いてある。イエス・キリストの救いを必要とした人々の記録であり、
イエス・キリストが何のためにどのように来られ、どのように生き、語られ、
教えられているか。その生涯の意味が、書かれているのです。
きょう読んでいただいたコロサイの信徒への手紙にあるように、
私たちを神が造り、こうして命を与えられているのは、
キリストによって私たちが完全に赦され、生かされている
キリストの愛を経験するため。神と人が、本来の信頼し合い愛し合う、
平和な関係を与えられるため。
私たちは、私たちを神が愛したいから、創られ生きているのです。
神の愛と信頼と、神によって人に与えられた任務は、イエス・キリストによって、回復しました。イエス・キリストが死んで、私たちの罪は赦され、イエス・キリストが復活して私たちは死んだ後も神の国で、神と先に天に帰った先輩方と共に生きる、永遠の命の約束をいただきました。
そしていま、私たちは神の霊である聖霊によって、
毎日の歩みを導かれ、守られています。
聖霊はイエスが復活された後、必ず助け手を送ると約束された結果。
キリストが天に昇られた結果として与えられました。
キリスト教の神は、人と約束する神です。
人と約束し、その約束のために、ご自身の命をかけて下さる神です。
この方を信じ、今、天の国で、神の約束した永遠の命を経験している方々を、
きょう、私たちは記念し、やがて共に神の国に集う時をめざして、
今の時を生きているのです。
神への心からの感謝をもって、お祈りいたします。
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