· 

「希望の主が来られた」

 イエスの「私は天から降ってきた命のパンである」というお話の後、
従ってきた弟子たちはかなり減りました。
イエスが「私の肉を食べ、血を飲む者は、永遠の命を得る」と仰るのを聞いて、離れて付いてこなくなった弟子が多くいた、と、6章の終わりに書いてあります。
確かに、いま、私たちが聞いても過激な表現です。
新約聖書を与えられている現代、人々を驚かせたこのお話に、十字架の犠牲の
意味があることを私たちは知ることができますが、イエスから直に聞いた人が、
ショックを受けたのも無理はないと思います。
離れていった弟子たちの代わりに、イエスを殺そうと考える人たちが居ました。
彼らはイエスがご自分を、「天から降ってきた」と言われたことを、神への冒涜だと考えたのです。
ユダヤ人たちの間で、イエスを殺そうと考える人たちがいることは、
秘密ではなく、だれもが知っていたことが、きょうの箇所でわかります。
 季節の祭りで、沢山の人が居る前で、しかも神殿の境内で
人々に向かって話すイエスを見て、人々は訳が分からなくなりました。
殺されそうになっているのに、あんなに公然と人々の前で話している。
殺されそうになっているのは、あの人ではなかったのか?
いま、生きてあのように話している、ということは、ユダヤ議会の議員たちも知っているはずだ。
議員たちが知っていて、あの人のやりたいようにさせているのは、
実は 議員たちも、あの人が神を冒涜する罪人ではなく、救い主メシアだと知っているからではないだろうか?
でも、おかしい。あの人は、ガリラヤのナザレ出身だと私たちは知っている。
メシアがどこから来られるかは、誰も知らないはずなのに、私たちはあの人を知っている。
あの人は人間のくせに自分を神だと言う罪人?救い主?どっちだ?
あの人は沢山の人にパンや魚を配った人でしょう?
あの人に病気を治してもらった人を私は知ってる。
もし、メシアが来ても、あの人みたいに沢山の奇跡を起こすだろうか?
 話しているイエスの周りには、イエスを疑う者、殺意を覚えるほど憎む者が居ましたが、同時に、イエスを信じる者、メシアかどうか見極めようとする者、
自分はイエスを知っていると言って大声で話すものが居ました。
 ユダヤ人たちは、小さい頃から聖書を学び、旧約聖書の救い主の預言をよく、知っていました。救い主はダビデ王の子孫に生まれる、と聞いていました。
神が遣わして下さる救い主によって、イスラエルは救われ、
王国は再建されると、期待していました。
自分たちの国を今、支配している異邦人の国から奪い取り、
治める強い王が、神によって立てられることを、ユダヤ人たちは期待し続けていました。
その方が来られたら、神からの強い力で、ローマ帝国さえも倒して下さる!
神からの救い主ならば、きっと!と、思い描いていたのです。
ですから、イエスは、人々のイメージする救い主とはかなり、違っていました。
救い主が人間の姿で来られる。救い主が、自分たちの生活する場所に来て下さる。そんなことは、彼らは考えもしませんでした。
昔から約束された神からの救い主は、自分たちの中に居るはずがない!
 でも、イエス・キリストは、人として生まれ、人として育ち、人として生活されました。食事をし、眠り、疲れも空腹も知っておられました。
天使がイエスの誕生を告げた時、言ったように「神は我らと共にいます」
インマヌエルの主として来られたのです。
人であり、人々が会うことができる方、話しかけることができ、
すぐそばで お話を聞くことができる方、
目で見て、その体に触れることができる方として、人々の前に居たのです。
 ただ、人として居られただけでなく、
イエスはご自分の父なる神について、人々に話されました。
ご自分が話すことは、すべて、神から話すように命じられたことであると。
ご自分を信じる人々には、神が永遠の命を与えて下さると、話して下さいました。
 きょうの旧約聖書の箇所は52章です。このあとの53章は、有名な苦難の僕と呼ばれる箇所です。53章で、後にキリストが経験される苦しみを預言した
イザヤは、当時まだバビロンに捕囚になっていた人々に、52章でエルサレムの回復の預言をしました。いま、私たちがこの箇所を読むと、主という言葉にイエスを重ねて見ることができます。
イエスの時代、イザヤの時代と同じく、人々は自分たちの国を異邦人が支配していることに苦しんでいました。天地万物を創造した、真の神を信じない国によって、自分たちの国が治められている。自分たちが払う税金は、
神のためでも自分たちのためでもなく、異邦人の国のために使われる。
今、生きている自分たちの生活の苦しさから解放されるための救いを求めていた人々は、イエスが伝えた永遠の命に至る救いを、理解しませんでした。
イエスが自分自身を神に遣わされた者であると言っていたことを、イザヤは、
52章6節で言っているのです。
イザヤが預言した良い知らせを告げる者のように、イエスは人々の間を歩き回り、平和と恵みと救いを告げ知らせました。
政治的な王とは成ることのなかったイエスは、メシアとしてキリストとして、
救いの業を完成されました。
ユダヤ人たちは、自分たちの国の回復を望みましたが、イザヤはすでに、イエスの時代のユダヤ人たちの考えを超えた神の業を預言しています。
イザヤ書52章10節にあるように、神の御業は国々の民に現わされ、
地の果てまで、すべての人が私たちの神の救いを仰ぎ見るのです。
 イエスが伝えた救いは、イエスよりも700年以上前のイザヤの預言によっ
て、説明されます。神によって救われた者たちが神から与えられるのは、
地上の国ではありません。死んだら天国に行く。確かに、命の時間の先についても約束はあります。
イザヤの預言にあるのは、命の終わりについての預言ではなく、私たちの礼拝について。私たちが求めるべき救われた者の生き方について、です。
52章11節に、汚れたところから立ち去り、身を清めよ、と書いてあります。
何のために、身を清めるのか。主の祭具を担う者として、歩く道だからです。
イザヤは、異邦人の国で、捕囚として異邦人の神のための生活習慣の中に居た人々に、自分たちの国に帰る日について預言しています。
真の神を礼拝するため礼拝道具を運ぶ人々に、礼拝に相応しく身を清めよと言っているのです。
 本日から、待降節。アドベントの4週間が始まります。
私たちは、今年も救い主が一人の小さな赤ちゃんとして、わたしたち人間と同じように誕生してくださったことを、祝う時を迎えようとしています。
イエス・キリストは、ご自分を神によって遣わされたものであるとはっきりと仰いました。堂々と、はっきりと言うことで、人々はむしろ混乱しました。
イエスが救い主であるかどうかを、知る力、信じる力が彼らには無かったのです。
イザヤは、神の民として、捕囚の民を帰らせるために、
汚れから立ち去れ、と、預言しました。
イエスは、人々が神に相応しくなるために、人間には自分で汚れから立ち上がる力が無いことを知っておられました。
救い主は人々を清めて、神の前に立ち帰らせるために来られました。
イエスが来られたのは、十字架で私たち人類の罪の身代わりになるためです。
十字架によって罪を取り除き、私たちを清め、神に近づくことのできる者として下さるためです。この清めは、永遠の命のためだけではなく、
真の神を礼拝するものとして、神の民に相応しい者として頂くための清めです。
主は、私たちの決断が遅く、理解する力、進む力が弱いことを知っておられます。
私たちの神は、私たちと共にいて下さる神であり、私たち人の中に、イエスを遣わして下さった方です。この方を信じ、この方と共にいれば、
イザヤが書いているように、急ぎ慌てることも、恐れて逃げ出すのでもなく、
主と共に、歩いてゆく事ができるのです。
先を進む主は、私たちの行く方向を示し、さらに私たちのうしろから、私たちの歩みを守られる主です。感謝して、共に歩かせていただきましょう。
お祈りいたします。