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「父と聖霊がイエスの証明」

 もし直接、生きているイエス様に、地上で生活しておられたイエス様に
お逢い出来たら、自分はもっと早く 信じていただろうと、思ったことはありませんか?実際に、肉眼でイエス様のお姿を見て、逢えた人は羨ましい、と。
12弟子も、たとえばイエスが語る姿を、神殿に居て見かけた人でさえ、
羨ましく感じたことはありませんか?
現代の私たちは、お生まれになったのは正確には、何時なのかも、
そのお顔も、姿も、声も、見ることも聞くこともできません。
 イエスの時代、実際にイエスに逢った人の中にも似たようなことを言った人がありました。イエスの語る姿を見て、お話に感動した女性が言ったそうです。
「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
しかし、イエスはその人に、
「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と仰いました。
 きょうお読みいただいたペトロの手紙2、ペトロは私たちとは逆の立場で、
苦労している様子が覗えます。
確かに、彼はイエスの生涯の目撃者です。イエスの、いわゆる「公生涯」と呼ばれる30歳以降の3年間。そのごく初めのころに ペトロはイエスに出会い、
イエスに従いました。イエスは高い山に登って、モーセとエリヤに会って話したことがありました。このことは、4つの福音書のうち、マタイ・マルコ・ルカ
つまり、ヨハネによる福音書以外に書いてあります。
山に登った時、イエスは弟子たちの中から、ペトロ、ヤコブ、そしてヨハネを
連れてゆき、彼ら3人の目の前で、イエスは姿が変わりました。
顔は輝き、服は真っ白に輝いた、と、書いてあります。
同行したヨハネが、自分の書いた福音書にこの時の体験を書いていないことは不思議ですが、私はつい、
なんで弟子たち3人は、モーセやエリヤを見分けることができたのだろう?
モーセはイエスよりも1600年ほど前の人ですし、エリヤもイエスの生まれる900年ほど前の人ですのに。イエスはモーセやエリヤの名前を
呼んだのかしら・・・とか考えてしまいました。
ペトロの実体験としての思い出は、人々の信仰を呼び覚ますことは無く、
受け入れてはもらえませんでした。今風に言うと、
「ペトロさん、私たちにイエスを信じさせたいからって、
そんなに話を盛らなくてもいいですよ。モーセやエリヤまで出さなくても!
盛り過ぎです!」と言う反応だったのです。
ヨハネはもしかしたら、この反応を予測して、書かなかったのかもしれません。
ペトロたちは、イエスが天に帰られた後も、聖霊が下ってからも、
彼らが持っていた聖書は今でいう旧約聖書を、学び続けていました。
イエスの弟子だった仲間たちや、彼ら弟子たちの弟子として、
イエスのことを学ぼうとする人たちと共に、聖書がイエスについて、
どのように預言し、その預言がイエスに在ってどんなふうに実現したのかを、
ペトロたち実際に逢った人たちの記憶、実際に逢った人たちが書き残したものを通して、学んでいました。イエスが地上に居なくなってからの日々、
ペトロたちはイエスの記憶を、人々に語り続けました。
 イエスご自身、きょうのヨハネによる福音書の箇所で、証しについて話して
おられます。イエスは、ご自身について証しされない。イエスがご自身の口から、
イエスがなさった奇跡について話したのは、その奇跡に含まれた福音について、弟子たちに確認させた時と、ユダや人たちが起きた奇跡をさておいて、
安息日だ、律法だ、と、イエスが福音を語ることを邪魔した時だけです。
 イエスは、天の父、真の神を人々が正しく信じるように願いました。
イエスの時代の誰も、イエスに実際に逢っても、信じなかったのです。
イエスに従いイエスを神の子 救い主であると信じた弟子たちも、
復活した主に再会し、イエスの十字架の意味を知ってから、
イエスが約束した聖霊を、彼らが受け取ってからようやく、本当の意味で、
信じました。聖書はイエスについて書いてあるのだと、ペトロたちが知って信じたのは聖霊によってイエスを、父なる神を知る力を頂いてからでした。
ペトロのようにヨハネのようにヤコブのように、イエスがモーセやエリヤと
話していた不思議を肉眼で見る経験をしても、
その不思議の起こっている場所で、全身でその不思議を経験しても、
彼らが、旧約聖書が語っているイエスを認識したのは、
聖霊によって神である方を指し示して頂いてから。
聖書の中に、神の真実を読み取る力を得ることができたのは、
イエスの十字架の死と復活を目撃した彼らでさえも、聖霊の働きを通してでなければ、信仰に至る理解を得ることはできなかったのです。
 私たちは、彼らと違い、地上で生きていたイエスに逢っていません。
ペトロたちが私たち人類の仲間として、実際に神の子に逢う体験をし、
イエスの奇跡を見、イエスの十字架の目撃者になった、ということを、
聖書を通して知ることができるだけです。
ペトロの手で、ヨハネの手で、弟子たちの手で書かれた新約聖書を通して、
イエスの生涯を学び、またペトロたちと同じように、旧約聖書を学び、
私たちはイエスについて、神について、教えていただくのみです。
 聖書に書いてあることを、弟子たちも福音書の書き手たちもその信仰の基礎にしています。イエスも、聖書の言葉によってご自分の教えの確かさを人々に確認できるよう、教えられました。
イエスはこの聖書が、イエスご自身について証しするものだと言われました。
 イエスの時代の人々、イエスと同じ土地で暮らしていた人々は、
旧約聖書を幼いころから学んできた人々です。彼らと共に生活してきたイエスは、彼らが神から彼らへの重要なメッセージに気づかないことを悲しんでいます。聖書は神の言葉、聖書は神から人へのラブレターであると言うなら、
聖書によって証されるイエス・キリストは、生きた人として地上にやってこられた神の言葉、聖書の言葉の完成者であり、聖書を、神の言葉を理解するうえで、最高の手引きなのです。しかし、聖書から永遠の命を読み解きたいと願う人々は、
彼らの中にいるイエスに振り向くことはありませんでした。
今、私たちは新約聖書を旧約聖書に照らして読む、
旧約聖書を新約のキリストの福音で読み解く、ということができる時に生きています。聖書を読み、祈る毎日の黙想の中で、私たちは私たちのその日、その時の必要に答えて下さる神の声を、聖書を通して聞く、そういう経験をすることがあります。私たちは聖書を読み、礼拝に集い、
信仰を持つ仲間と語り合い祈り合い、それによって、力を得ます。
神が私たちに与えて下さった場所で、私たちにできる働きによって、神に仕えるためです。 何が、私たちを力づけるのでしょう?
私たちはどうやって、聖書を読み、どうやって聖書から神の御言葉を聞き出すのでしょう?私たちが聖書と、教会とを与えられ、祈り生活することで、
神の救いを喜ぶことができるのはなぜでしょう?
 イエスに出会い、イエスと暮らした人々には見つけられなかった、
イエスの十字架の福音を、私たちが受け止めている。
これはすでに、奇跡ではありませんか?
私たち自身を招いて下さる神のご計画を、今の時代の私たちが体験し、
私たちが十字架によって救われていることを喜ぶことができています。
これは、神が、私たちに与えて下さった、信仰の力です。
ヘブライ人への手紙に、「信仰が無ければ、神に喜ばれることはできません」と書いてあります。神を信じその導きを感じることが、私たちと神とを近づけ、
神の力を受け止めることができるのです。
 神は、天地万物を創造されました。神は、イエス・キリストを地上に送り、
私たちの罪を赦して下さいました。
神は、イエス・キリストが地上に残した約束を守り、聖霊を与えて私たちに信仰を与え、信仰を強め、信仰によって導いて下さいます。
 イエスによって十字架の贖いが完成されても、神が神の国を用意し、私たちを招いて下さっても、私たちが一心に聖書を学んでも、
もし、私たちに信仰が無ければ、神からの祝福も恵みも、私たちに届くことは
ありません。信じていなければ、聖書は歴史的な記述のある本でしかありません。
イエスの十字架の苦しみも意味を失います。
私たちが例えば全人類への思いやりを持ち、生活のすべてを捧げて奉仕しても、
信仰を持たないままの働きは、良いものであっても私たちを神の国に到達させることはできないのです。
 私たちは神を信じています。
この言葉を、皆さんの前で口に出し、皆さんの中で「そうです。私は神様を信じています」という確認が行われているのならば、そこには喜びがあります。
信仰を表す言葉を投げかけた私の喜び、投げかけられた言葉によって、自分たちと神のつながりを確認した皆さんの喜び。
そして、私たちを愛し、私たちのためにすべての祝福を用意し、注ぎ続けて下さっている、父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神の喜びが、そこにあります。
 私たちは、神を信じています。この信仰という奇跡の賜物によって、
私たちはイエスの降誕を喜ぶ力を与えられ、喜びをもって
この降誕を待つ季節、待降節の礼拝に与っているのです。
信仰という奇跡を、きょうも感謝をささげましょう。
お祈りいたします。