裁くという言葉は、裁判の判決を思い出させる、厳しい印象の言葉です。
聖書で言う裁く とは、良い・悪いの判断をすることを言います。
自分の好みや自分の価値観を、毎日の生活の中での決断に反映させてゆく事は必要なことです。習慣の違い、健康上の違いなど人によって必要なもの、欲しいものは違いがあります。人それぞれに好き嫌い、欲しい欲しくないなどの違いがあるのは当然のことです。でも、自分が好きかどうか、自分に必要かどうかだけで、目の前のものを良い、悪い、と決めてしまうことはどうでしょう。
正しい判決、正しい判断のために必要とされているのは、立場の違いを超えた、
共通の判断基準が必要です。
きょうの新約聖書の箇所でパウロは、コリントの信徒たちが彼等の所に来た伝道者たちそれぞれの考え方、伝え方の違いで派閥ができてしまっていることを問題にしています。
コリントの信徒への手紙1の1章から、パウロが話題にしている派閥争い。
コリントの教会は、「パウロ派」「アポロ派」「ケファ(ペトロ)派」「キリスト派」に分裂し、他の派と付き合おうとせず、他の派を批判し、一つの教会の中で
争いが起きていたのです。
パウロもアポロもペトロも、神を信じ、キリストを信じ、キリストの十字架によって救われ、神の福音を伝える者となりました。
彼らが人々を救ったのではなく、神が行われた救いの恵みを、コリントの教会に伝える働きをしたのです。
1章でパウロは、分裂の中に居る人々に、キリストは分割されたのか?
あなた達のために十字架につけられたのはパウロだったのか?
あなた達は救い主キリストの名ではなく、パウロの名による洗礼を受けたのか?と、コリントの教会に問いかけています。また、3章でパウロは、
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さったのは神です」と言っています。
メッセージの伝え方、話し方、声や存在感、どれについても
全く同じ人はいません。みなさんもこれまで、この教会を牧会されてきた
牧師方それぞれ、違いがあり聞きやすいと感じる時、解り難いと感じる時があることを経験して来られたことと思います。
私の出身教会でも、これまでの80年ほどで、6人の牧師が担当されました。
4章1節でパウロが言っているように、神を信じる者は、
神のご計画を委ねられた管理者として、キリストに仕える者です。
牧師も信徒も、人として神から頂く恵みによって生きる者です。それは、
コリントの教会も小岩教会も同じです。
パウロは管理者として忠実であることが、自分たちに求められていると書いています。キリストを伝えてきた自分の伝道活動について、人間から裁かれることを問題にしない、とパウロは言います。
裁く人がコリントの教会のメンバーであっても、教会の外の裁判所の法廷であっても、また、パウロ自身であっても、それは神の前に問題ではないのです。
人間に良い・悪いの判断をされることは、その人の価値、その人の存在の意味を最終的には左右しないのです。人間が良いものとして褒めることも、悪い者として けなすことも、その人が神の前に義であるかどうかの判断にはなりません。
何が良い義なるものであるかを判断することは、全てのものの存在の始めから終わりまでを見通す力を持ち、見通せる立場に在るものでなければできません。
私たち人間は、生きている時代や、その時の状況、その場にいる人の価値観に
左右されます。何が義であって完全に正しいか、判断する力は無いのです。
神は天地万物を創造された。これは、当然、私たち人間が見てきた、
知っていることの中で理解していることではありません。
神が全てのものを創り、存在させたことを神によって与えられた聖書によって、私たちは学び、知り、信じています。
見て判断できること、経験して判ることではない。だから、
私たちが神を知るためには、信仰が必要なのです。
パウロは管理者に要求されることは、忠実であることだと言っています。
忠実という言葉を調べてみました。
日本語の文字を見ても、忠 は、心の真ん中、と書きます。
心の真ん中に実(じつ)がある。この「じつ」は、
真実 誠実 の「じつ」と同じで、心がこもっているさまを表すそうです。
忠実 は、相手を必要とすることです。
パウロが忠実に従う相手、アポロもペトロも従っている相手は、もちろん、
イエス・キリストです。
主が来られた時、主は闇の中に隠された秘密を明らかにし、人の心の中の企てさえも明るみに出される、と、パウロは言いました。
全ての始めから知っている神である主が、ふたたび来られて、
私たちの心の内、魂の内の思いまでも見通し、判断されるのです。
きょうの旧約聖書 マラキ書には、キリストの来臨の様子が太陽に喩えて
書かれています。
神を認めず高ぶっている者、悪を行う者には燃え上がる焼却炉の中の炎のように熱い火。この世の終わりに、神はこの炎のように不正義に対して容赦のない
裁きを行われます。この世の終わりまで待つことなく、神を知ろうとせず、神を求めることのない者は、命の日に明確な幸せを見出す光を、持つ事ができません。
しかし、神を信じる者、神の名を呼ぶ者、神を畏れ敬う者には、神の存在は太陽のように輝くものなのです。
裁きに、明確で正しい判断基準が必要であるとお話しました。
私たち人間がすべて、罪あるものであることは、聖書に明確に書かれています。
はっきりと罪あるものである私たちを救うためのキリストの十字架は、
すでに神により、私たち人間の歴史の中にはっきりと示されています。
神の義、神の正しさは容赦ないものです。ほどほど、てきとう、まあまあ、ということはありません。
正しくない者は、神の裁きの炎で、永遠の命への道、神の国への道が焼き捨てられ、神の愛を受けることはできません。
イエス・キリストは、ご自分を道であり真理であり命であると仰いました。
道である方が、義の太陽として輝いて現れる。日の出の太陽の輝きが、朝焼けのように赤く、輝きだす。それが、クリスマスのもう一つの意味です。
神の救いの業が、長い歴史の中の約束が、人となって表れた。生まれて、私たち人間の中で育ち、やがてご自身の生まれたわけ、人として存在されることの意味を、私たちに語り伝えて下さる。十字架を通して、神の国への道が新たに開かれる時。その始まりを祝うのも、クリスマスの持つ意味です。
私たちの存在の中に隠されていたもの、秘められていたものをくっきりと照らし出す方は、照らし出し明るみに出した罪を赦すために、神によって用意された犠牲の捧げもの、贖いのための神の子羊です。
きょうお読みいただいた旧約聖書の箇所の最後、マラキ書3章23節24節は、新約聖書で、バプテスマのヨハネの誕生を予告した天使が、ヨハネの父ザカリヤに向かって用いた言葉です。
イエスも、バプテスマのヨハネは再び現れる預言者エリヤであると語り、
マラキ書の言葉を弟子たちに思い出させました。
預言者エリヤは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、再び遣わされる。
クリスマスに待ち望まれている救い主なる主は、大いなる恐るべき方なのです。
なぜ、恐れられるのか。
世に置かれた私たちを、神が裁かれる。その裁きを行い、裁きの結果を現わす方として、来られる方が義の太陽である方、すべてを明るみに出す方だからです。
罪の闇の中に輝きだす太陽は、すべてのものを明るみに出すだけではありません。私たちが、生まれたての子牛が飛び回るように、喜びに跳ね回る。
マラキ書にはこんな楽しいイメージが描かれています。
何が、私たちをそんなに喜ばせるのか。
生まれて初めて立ち上がった大地の上で、まだ弱弱しい足で踏ん張り、
さらに飛び回る子牛。
義の太陽の翼に癒しがあり、赦された私たちは罪から解放されて自由になり、
完全な価値観を持つ方に、完全に義である、正しく全く問題の無い者と
認めていただくことができるからです。
義の太陽は大いなる恐るべき主であるのに、なぜ、癒しと解放が起こるのか。
私たちのお迎えする主は、義の太陽であると同時に、
神の遣わされた生贄の子羊であり、救い主は贖い主であるから、です。
コリントの教会が人間的価値観によって惑わされ、分裂し教会内で争ったように、私たち人間は自分たちの目と判断力に頼ることで神からの義を受け取ることのできない、悩みと迷いの中に迷い込みます。
その迷いと悩みの解決は、明確に私たちの中を内側のその奥まで届く、
義の太陽の輝きによって明るみに出されます。
明るみに出される私たちの罪の前で、主は私たちのために贖いの業を行うため、
すべての人を罪から癒し、義として回復させて下さる。
私たちの罪は、まるで太陽の光を浴びるようにはっきりと、
たちどころに癒されるのです。
私たちは自分たちの罪を覆い隠すのではなく、救い主の前に持ち出し、
救いと癒しを受けます。主に、向き直りましょう。主に心を向けましょう。
主の救いを宣べ伝えましょう。クリスマスに与えられる大きな喜びは、
すべての人を照らし、癒す、救い主の輝きによるのです。
お祈りいたします。
コメントをお書きください