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「救いの光の誕生」

 

小岩キリスト教会201901221キャンドルサービス「救いの光の誕生」 中村文子牧師

 

ヨハネによる福音書1:1-5(新共同訳 新約聖書163頁)

 

ルカによる福音書2:1-7(新共同訳 新約聖書102-103頁)     

 

ろうそくの光が灯されると、その周りの暗さは際立って感じます。

 

現代、特に市街地には暗闇はほとんど存在しません。

 

照明がすべて消えていても、家電や情報機器の作動を示す光は、

 

家の中にも家の外にもたくさんあります。

 

最近人工の明かりがすべて無い環境にあった記憶と言えば、

 

震災の時、そして災害時にすべての電気の流れが止まった、

 

ブラックアウトの時などがあるでしょう。

 

小さな子どもでなくても、闇には恐ろしさが伴います。

 

人間の目は、光を捉えて物の形や色合いを見分ける能力を持っていますが、闇の中では視力は、ほぼ役に立ちません。

 

 さきほど朗読していただいた聖句の中に、命は人間を照らす光であった、

 

という言葉があります。

 

闇の中に光があって形や色合いが理解されるように、

 

命あるものは生きている時間の中で、すべてのものを経験し、自分にとって出会うもの一つ一つがどのような意味や役割を持つのかを知り、理解してゆきます。

 

先ほどの聖句で、この命を内に持っていたのは、

 

(ことば)であると書いてあります。言は神であった。

 

神は天地万物を創る時、一つ一つのものの名前を呼び、この世の中に呼び出すかたちで存在させました。

 

神の口から発する言葉には、人格のようなパーソナリティーがありました。

 

神はこの言というパーソナリティーに、人間と同じくこの世で

 

生きるために、人としての体、人としての命を与えられました。

 

言は、人としてこの世に生まれ、人の母から生まれました。イエス・キリストです。

 

 イエス・キリストという命ある言は、私たち人間の社会の中に生まれ、人としての人生を歩まれました。

 

イエス・キリストという命は、天地万物の創造の時、何もないところから、沢山の命を呼び出した、神の言でした。

 

 イエス・キリストは、皆さんに知られているところでは、クリスマスにマリアの子として生まれ、やがて人々に神の教えを語り、弟子を持ち、いろいろな奇跡をおこなった人です。

 

その弟子のひとりに裏切られ、十字架につけられて殺されました。

 

最近では、色々なところでイースターのイベントが行われるようになり、

 

十字架で死んだキリストが、復活し生き返ったことを知っている人も増えてきたようです。

 

いま、短くまとめたイエスの人生は、クリスマスもイースターも、

 

世界中の人に祝われています。

 

ローマの国勢調査のために長旅の途中だったマリアとヨセフは、出産のための病院どころか、泊まる宿ですら無い状態でした。人間となった神の言の誕生した場所は、

 

マリアとヨセフ以外、だれも知らない所でした。

 

闇の中で灯った蝋燭の火のように、小さく、弱い存在として、生まれました。

 

 神がなぜ、人となる必要があったのでしょう。

 

人間は、皆、心の中に、その存在の中に、闇を持つ者です。

 

神の言は、人間を照らす光であった、と書いてあります。

 

人間は、命の光をうけて、自分たちの中の闇を照らしていただく必要があります。

 

なぜなら その闇の中に、神が言によって、この世の中に呼び出した

 

大切なものが存在するからです。

 

神の言の光によって、私たちは、自分の中にある神の造り出されたすばらしいものの、

 

形や色を、見分ける力を受ける事ができるのです。

 

人間に、人間の心の中の闇を知らせ、その闇を取り去るために、人間の持つ闇を光である方が引き受けて、私たち人間が気づいていなかった神のすばらしい宝が、

 

見えるようになるために。神であった方が人としての人生をすべて、経験するために。

 

生まれて下さったのが、クリスマスなのです。

 

 闇は、恐ろしいものです。そこに、何があるか、良いものか悪いものか 

 

わからないからです。クリスマスに生まれた方は、命の光である方です。

 

私たち一人一人の中に、日々、神が造り上げていて下さる、良いもの、素晴らしいものを、

 

この光の中で見る、体験をしてゆきたいものです。