天地万物がこの世に創り出されたとき、神はその段階ごとに良しとされました。光を造り闇と光を分け、1日 という時間を造り出し、それから1日ごとに
ご自分の創造の業を確かめられました。
きょう、お読みいただいた箇所にある言葉を、メッセージの題にいたしました。
きょう、お読みいただいたのは1日目から6日目まで。この次の日、
神は創造の業の完成を確認され、安息されました。
神も安息し休まれるのです。そして、この安息された日を祝福して聖別されました。聖別とは、清きものとして選び分ける、ということ。
清い方とは、神ご自身のことです。神はご自身が安息された日を、ご自身のための日として他の日と区別されました。
この安息日までの創造の業は、説教題の言葉のように、神の目に、
「極めて良い」ものとして造られました。
この創造の業の中に、人間も動物も植物も創られました。
動物、植物、というと昆虫は?とか微生物は?と、子どもたちから聞かれます。
創世記には「動物」というくくりは、まだありません。生き物、獣、家畜と書いてあります。家畜、というくくりも、まだ無かったはずです。
創世記は、モーセ5書と呼ばれる書物の中の一つですが、人間が過去の歴史をまとめて文章に書けるようになったのはずっと後のことです。
そのころの人の知識が、ここに出てしまっているのでしょう。
ちょっと注目したいのは、創られた生き物の中に、這うもの という言葉があることです。創世記の始めに出てくる生き物としてすぐ思い出されるのは、
あの蛇ですね?
創世記3章では、登場するのは神と人の女と男、そして蛇です。
創造の始め、神はもちろん、蛇をも造り、良いものとして確かめられました。
人間もそうです。人は創造され男と女につくられ、創造されたものすべてに対して、神が「極めて良い」と、ご覧になったもののなかに、人も蛇も、すべてがあったのです。
神は人に、28節の言葉で役割を与えられました。
「産めよ、増えよ、地に満ちて 地を従わせよ、 海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ」
これを翻訳される前のヘブライ語で見ますと、
地を従わせよ とは、地を征服せよ という言葉です。
支配せよ とは、治めよ という言葉です。
従う だけでなく 征服 という場合、漢字の征には、悪者を懲らしめる、という意味の他に、行く、旅をする という意味もあるそうです。
神の創造されたすべてのものの所に行く。
この時すでに、神は人に、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と
言われた、イエスの言葉に繋がる思いを持っておられたのでしょうか。
支配する という言葉には、支える と配る 二つの漢字が使われています。
相手を攻め滅ぼすのではなく、支えて、心を配る。
支配するとは、相手をへこませたら終わりではなく、支え、相手に関心を持つ
という意味でもあるでしょう。 私たち人間は、長い間、この言葉を間違って理解してきたのではないか?と思います。
支配する、とは、搾取する とは違います。
地球に対して、生き物に対して、また人に対して、
私たちは神から与えられた支配する、という役割の、正しい在り方ができないまま、神が望まれた支配とは、どのようなことであるのかが解らないまま、
神が置いて下さったこの世の中で、生きてきたのです。
創世記3章で、人間は、支配するべき生き物である蛇の言葉を、神の言葉と比べ、さらに神の言葉よりも蛇の言葉を選ぶ、という間違った行動をしました。
極めて良いものとして造っていただいたのに、
与えられた立場も、与えられた役割も、与えられ続ける神の愛も、
人は受け取り方、扱い方、立つ場所を間違えたままです。
私たちは、聖書から神と人の関係を学びます。読むほどに、苦しくなるくらい、聖書の中の人たちはわがままで、ひどく、悪い人々です。聖書を通読しようとするとき、読むことが楽しく感じられない箇所も、色々あります。
聖書の中の人々の行動を私たちは、自分とは関係のないもの、と考えられない。
また、関係ないと思うべきではありません。
聖書の中で、神から選ばれた民として出てくるユダヤ人たちは、民族としては
とても、小さな群れです。彼らが住んできた場所も、私たちの日本とは違い、
彼らはいろいろな争いの中で生き残って来ました。彼らは、自分たちは神に愛され、選ばれた民であると自覚しています。でも、たびたび、信仰がぐらつき、
周囲の国の神々の像に心を奪われ、何人もの預言者たちは神への信仰に立ち返るよう指導し続けました。
私たちはイエス・キリストが、彼らも私たちも、罪から救うために来られたことを知っています。彼らも救い主がいつか、来られることを信じてきました。
救い主が来られて、すべての人を救って下さる。
救い主は来臨され、私たちは毎年、クリスマスを祝います。
私たちの罪は赦され、私たちの国籍は地上から天に移されました。
信仰が、神と人を真に繋ぐのだということを、イエス・キリストによって、
私たちは知りました。でも、それは、この世の始めには、当然のこととして、
人間も、知っていたことです。
神から「極めて良かった」と言っていただいて、人間はこの世に存在するようになりました。さらに神は、救い主を遣わして下さって私たちに救いと、将来への希望を頂きました。
私たちは毎日の暮らしの中で、良いこと、困ったこと、悲しいことに出会う時、
神に祈る、という方法をもいただいています。
さらに、きょう、黙示録の御言葉をお読みいただきました。
きょうの箇所は、神のご計画された新しい天と新しい地が表れ、
この世の始めのエデンの園以上の、完成された神の国が、
実現するありさまが描かれています。
神のご計画は、終わってはいないのです。
イエス・キリストが来られ、私たちに助け主である聖霊が与えられ、
それだけですべて、ではないのです。
私たちは、神の似姿として創造されました。
でも、当然のことながら、神ご自身のようにこの世の始めから終わりまでを見通す力はありません。私たちは、神の似姿であって、神ではないのですから。
神は、私たちの弱さ、不安定さをよく、ご存知です。
ですから、この黙示録のように、将来起こることの完成予想図を、
私たちが知ることができるよう、聖書に加えて下さったのです。
聖なる都が天から降る、私たち人間に約束される未来は、人の目の涙をことごとくぬぐい取り、死も悲しみも労苦もないと、約束されています。
6節にある、「命の水の泉から価なしに飲ませよう」という言葉は、
イエス・キリストがサマリアの女と出会って、語られた言葉を思い出させます。
神は、物事の最初と最後を、この世の始まりから終わりそのものを、
ご自身のこととして知り、現す方、
アルファでありオメガである。初めであり終わりである方です。
この約束のはじめに書かれている言葉を、きょう、週報に本日の黙想として書きました、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいてその神となる」。
神が望まれるのは、神ご自身が人と共に住み、人と共に居ることです。
一緒に居たい。聖書は、神から人へのこのとてもシンプルな、愛の手紙です。
共に居て、神の造り出したすばらしい天地万物を、共に楽しみ、共に喜ぶために、
私たち人を、神はご自分の似姿に造って下さいました。
私たちが、自分自身の力では、見ることも知ることもできない神のご計画を
知らせるために、神は私たちをこの世に置いて、罪とその救いの道を知らせて下さいました。罪とは、人間社会で言う悪いこと とは違います。
神が置かれた、人として相応しい所に居ないこと。それが、聖書が言う罪です。
神から離れること。神の御心にそわない生き方。これが神を悲しませる罪です。
神は、私たちの内に神ご自身が住まわせたご自身の霊に対してさえ、嫉妬心を持たれるほどに、私たちを愛し恵みを与えて下さる、と、聖書に書いてあります。
神が望まれるのです。私たちと一緒に居たいと、思って下さるのは神なのです。
神は、人間同士のように届かぬ愛で人に怒りをぶつける方ではありません。
この世の始めから、私たちが気づいても気づかなくても、私たちに命を与える神です。すべてご自信の造られたものを私たちに託し、
お創りになったすべてのものと、聖書を通して、御心を示して下さる。
私たちに、今、今年も、求められているのは神を愛し信じることです。
極めて良いものとして、私たちすべてのものを創られた方に、感謝と愛をもって、
祈ることから今年も始めてゆきましょう。
お祈りいたします。
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