ヨハネによる福音書は、言(ことば)の存在から始まっています。
聖書はどこから読んでも読む人に対して、その書物のストーリーの前提の説明はありません。今回のヨハネによる福音書も、言 神 人間 そして 父という単語が説明なしに使われています。
読む人には何の話が始まったのか、これではわからないですね。言が肉となる。父なる神の独り子としての栄光、恵み、真理。
こうした単語のほとんどは、理解するために鍵が必要です。
今日読んでいただいたヨハネによる福音書には、5通りの表現があります。
言、父の独り子、ヨハネが「わたしより優れた方」と言った方、
イエス・キリスト、父のふところにいる独り子である神。
この5つの表現、すべて同じ方について言っています。
この方は、教会が十字架の印であらわしている、イエス・キリストです。
きょうの箇所で、この方についての情報が、名前以外にもいくつかあります。
・いままで神を見た人はいないが、この方が神を示した。
・この方はわたしたち人の中に宿った。つまり、存在した。
・この方には父なる神の栄光があり、恵みと真理とに満ちていた。
・この方が、神を見たことの無かった人々に神を示した。
この方を、自分より優れた方だと人々に語ったヨハネは、バプテスマのヨハネ
と、呼ばれる人です。
バプテスマのヨハネは、イエス・キリストに洗礼を授けた人です。
イエスの洗礼式のことは、マタイによる福音書3章に書いてあります。
イエスが洗礼を受けた時、そこにいた人々は天からの声を聞いた、と、
マタイによる福音書は書いてあります。その言葉は洗礼式後、水から上がった
イエスに向かって、「これは私の愛する子、私の心に適うもの」という声でした。
天からの声は、イエス・キリストが神の子であると言っているのです。
これは、神からの声であると思われます。
ヨハネによる福音書は、万物が言によって、つまり神の子によって成ったこと、神の独り子は神から遣わされた人によって証されたことなどを書いています。
神の独り子、イエス・キリストが神から遣わされてこの世に、人として生まれたことは、新約聖書を通して書かれ、伝えられています。
神が万物を造ったことは、旧約聖書にも書いています。
聖書は書かれた最初、旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシア語で書かれていました。ヘブライ とは、ユダヤ人を他の国の人が呼ぶときに使った言葉です。旧約聖書はユダヤ人の使う言葉で書かれました。ユダヤ人が読むために
書かれた書物だからです。
新約聖書の時代、地中海沿岸はローマ帝国の支配下にありました。
ローマ帝国は多民族国家で、沢山の言語が使われていましたが、公用語として
ギリシア語が使われていました。キリストの福音を宣べ伝えた人たちは、ローマ帝国がつくった街道を通って帝国中を歩き回り、
帝国内にいる人々が読むように新約聖書に編集された書物をギリシア語で
書きました。書かれた内容は、一つ一つの手紙を運んで行った人々によって、読む人々に説明され、教えられました。
私たち日本人は地中海沿岸にも、聖書を書いた人のそばにも居ませんから、
聖書の言葉は難しいと感じられても当然です。最初に書いた人々は、
イエスの誕生の2000年後に、日本で 世界で、自分の書いた文章が読まれるとは考えもしなかったでしょう。
神が存在すること。その神が天地万物のすべてを造り出したことを、
イザヤは 知らないのか、聞いたことは無いのか、と、問いかけています。
私のように、日本でキリスト教徒の一人もいない家で生まれ育った者には、
「はい、聞いたこともありませんし、知りません」と言うしかない。
教会に初めて行った頃の私のように、聖書の持つ前提条件が、一つもわからない、
理解できない人は沢山います。
聖書の前提を知らない人も知っている、当たり前と思っている事はあります。
自分が生きていること。空に太陽や星があり、地球上には多様なたくさんの自然があること。毎日が太陽の動きや星の動きによって1日ごとに進み、
命あるものはこの世にあらわれ、また死んだり枯れたりして消えてゆくこと。
すべて、私たちは見て、また教えられて、知っています。事実、また常識です。
でも、なぜ存在するのか。なぜ生まれ なぜ死に、なぜ現れ なぜ消えるのか。
何のために居るのか。何のためにあるのか。
理由については、完全に説明できる人はいません。
聖書は、この「なぜ」と「何のために」を、すべて神につなげます。
神が天地万物を創造した。神が愛を注ぐ対象として人を創り出した。
日本にはキリスト教徒は1パーセント居るだけであると言われています。
聖書の言う、すべての理由である神。そして神と人を繋ぐ存在として神から遣わされたイエス・キリスト。この方について信じている人は、日本に1パーセント居るだけだ、ということです。
ヨハネによる福音書に、いきなり出てくる 言 神 人間 そして 父、
言が肉となる。父なる神の独り子としての栄光、恵み、真理 などの言葉。
理解するためには、鍵が必要だと申しました。 その鍵は、信仰です。
信仰が無くては、神に喜ばれることはできない。と、聖書に書いてあります。
神に喜ばれる、どころか 信仰が無くては、神の存在自体も、
自分たち人間の存在理由も、どれも、わかりません。理解することはできません。
何のために生まれて どうして生きるのか。
アンパンマンのテーマにもありますが、人間が長い歴史の間、知識を蓄え、
調査し、調べ、探し続けても明確な答えを得ることができなかった問です。
神による万物の創造を信じないならば。神が存在し神によって全てのものが造られたことを否定するとしたら。
まるで、思春期の若者が発する問いのような言い方ですが、
この否定によって、良い結果、前向きな解決は得られるでしょうか。
アンクルトムの小屋という、アメリカに奴隷制度があった時代のお話の中で、奴隷の小さな女の子トプシーとクリスチャンである主人の会話があります。
「おまえは神様を信じているの?」「いいえ、神様を信じたことなんて無いわ」
「では、お前はだれから生まれて いま、居るんだい?」
「だれからも生まれてないわ。私、生えてきたの」
「なんだって?草みたいに生えてきたんだって?」
女の子は主人と、一緒にいる奴隷のトム爺やから神様のお話を聞いて、
神様を信じるようになり、夜 暗くても泣かず、嘘もつかない子になり、
まじめに働くようになります。
自分の存在に、何の理由もなく 生きること 死ぬことに意味が無いと考えることは、自由なことのように感じることもあるでしょう。
何にも束縛されず、何に従う必要もない。親も国も自分を決めつけることは無い。
でも、それは全くの「零」0 ではない。
生まれてきた意味も、死んでゆく意味も、存在する理由もないということは、
生きていることの意味も無いということです。
聖書は、すべて意味あるものとするところから始めます。
イザヤは、天の万象を創造し、それらを数えた方について書きます。
神はすべて創造したものを、名を呼んで引き出された方です。
私たちの体一つをとっても、構造のひとつひとつ、よくできていて、
素晴らしい働きをしていることは、調べれば調べるほどわかってきます。
その、一つ一つが 奴隷のトプシーのように、自然に生えてきた、と考えるのか、
造り、整えた方が居て、そべてのことは守られ導かれている と考えるのか。
聖書は、すべて、理由と目的があり、計画があると考えるところから始めます。
ヨハネによる福音書は、神がイエス・キリストを通して、恵みと真理を私たちに現わした、と書いています。
神が居る。神の計画があって、私たちは存在し、生きている。
この前提の上に、恵みがあり、真理があります。
イザヤは 神を信じる信仰を、「主に望みを置く」と表現します。
神は、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えます。
その力について、イザヤは鷲が翼を張って天高く上って行く有り様に譬えます。
1日の働きには1日分の、疲れも悩みも伴います。この疲れも悩みも、
無意味な、無駄なものではない、と、言って下さる方、生きているきょうを、
意味あるものとして受け止め、恵みと真理によって導いて下さる方は、
確かに居られます。聖書がすべての前提とする神が居られます。
この神は、天地万物を創造し、限りある命を持つ人間に寄り添い、
信じた者の命と存在に、意味と目的を与えて下さる方です。
自動的に、いつのまにか、ではなく、私たち一人一人を愛して、
名前を呼んで導いて下さる方です。
主なる神に望みをおき、日々の歩みに意味と力を頂いて生きて行きましょう。
お祈りいたします。
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