バプテスマのヨハネは、イエスについてはっきりと、
「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。
この言葉を聞いて、バプテスマのヨハネの弟子二人が、イエスに従いました。
きょうの箇所でバプテスマのヨハネは、イエスのことを2回も、
「私はこの方を知らなかった」と、言っています。
彼はこの福音書が始まって2段落目で、すでに神の言と呼ばれたイエスについて証ししています。
知らなかった、と2回も言う相手について、証言できるのはなぜでしょう?
この福音書に出てきた始めから、ヨハネはイエスについて証言することを自分の役割としています。彼はイザヤ書の言葉通り「主の道をまっすぐにせよ」と、人々に呼びかけました。人々は救い主メシアがいつか、来て下さることを待ち続けていましたから、叫び始めた彼を見て、とうとうメシアが来られた!
と、喜びました。でも、
バプテスマのヨハネは「わたしはメシアではない」と言いました。
彼の自己紹介は、消去法です。救い主メシアではない。
救い主より先に神から遣わされると書かれたエリヤではない。と否定しました。ただ、「荒れ野で叫ぶ声」であると名乗ったのです。
ユダヤ人たちは、自分たちが住んでいる土地が神から自分たちに約束された土地であると信じていました。
この土地は、神が「父祖アブラハム」に与える、と約束した土地です。
アブラハムは、旧約聖書のはじめに神から呼び出されて、旅に出たイスラエル人の先祖です。アブラハムはこの土地にたどり着きましたが、彼の子孫は、
いろいろな事情で、この土地を離れ また戻ってくる歴史を重ねてきました。
新約聖書で、イエスが生まれたころには 約束の地に住んでいますが、
この国を支配しているのはローマ帝国です。
ユダヤ人にはこの土地の主権はありませんし、王はローマが任命した王です。
ユダヤ人たちがイメージする救い主とは、これまで自分たちの国を支配してきた異邦人の国から救うユダヤ人の王が現れることでした。
バプテスマのヨハネは、人々に洗礼を授けるようになるまで荒れ野にいた、と、書かれています。後の時代で言う修道僧のように、人間たちの住むコミュニティを離れて、自然の中で自給自足をしながら聖書の研究をしていたようです。
荒れ野で隠遁生活を送りながら、自分自身に与えられた神からの役割を学んでいました。その学びの中で、救い主が神の国の福音を宣べ伝える準備として、
人々に罪の悔い改めをさせ洗礼を授けて人々を清める。神からの救い主に会うために、身を清めて待つ人々を整える、という働きに導かれたのです。
ヨハネが、救い主のために道を整える働きをすることは、
ヨハネの誕生を予告した天使の言葉にも、父であり祭司であるザカリヤの賛歌にも表れています。
イザヤは荒れ野で、主なる神のために準備せよと叫ぶ声があると書きました。
主の栄光が現れるための準備をせよ、と。
バプテスマのヨハネは、人々が神に立ち返るように と 叫びました。
ユダヤ人たちは、自分たちは神の民である、と思っていました。
けれどもヨハネは、マタイによる福音書の3章に書かれているように、
「自分の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな!と彼らに言いました。
ヨハネのところに来た沢山の人々は、罪の告白をして洗礼を受けました。
バプテスマのヨハネは、彼らが持つ自分の民族・祖先を理由にした自信は、
すでに彼らの偶像になっていることに気づいていました。
イエスの教えを通して言うところの偶像、とは、神から私たちを引き離すもの。
人間を在るべき場所、居るべき神の前から離れさせ、人間の目を、関心を神から逸らすもののことです。
彼らにヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言いました。
ユダヤ人たちは、罪の告白をすることや、清めの供え物をすることに慣れていました。習慣として、神殿で礼拝するたびに、捧げものをしていたのです。
彼らが自分たちを約束の民だ、という時、彼らの民族・祖先は、彼らにとって
自分の清さのための保証でした。ヨハネは民族としての誇りや神殿での礼拝を欠かさない者であるという自信は、神の前では役に立たないと明言したのです。
神の裁きが迫っている、聖霊と火で洗礼を授ける方が来られる、と。
だからこそ、救い主が来られる時のためにする準備として、
主の道をまっすぐにするために、罪の告白と洗礼、という方法をとったのです。
自分と神との、信仰によるつながり。このつながりを根拠に持たない自信、
民族性や伝説を根拠にした自身は、人々を神に近づけるものではなく、
むしろ神から引き離すものでした。
「私はこの方を知らなかった」ヨハネは言いました。彼は神の霊が鳩のように天からイエスに降り、止まるありさまを目撃しました。神から教えられていた、このしるしが、ヨハネに神から示されました。
待ち続けた約束の主が、来られたのです。その方が来られたことを、はっきりと神から示していただき、待ち焦がれていた人々に伝える働きができる。
この働きのためにヨハネは神から選ばれ、ただ指し示すだけでなく、
イエスの宣教の始めを期して、ヨハネから洗礼を受ける事をイエスが望まれたのです。
ヨハネの誕生を告げた天使は、彼がエリヤの霊と力で救い主に先立って行くと告げました。預言者エリヤは、聖書の中に書かれた、
死を経験しないままに天に挙げられた人2人のうちの一人です。
神に逆らう王に、神の裁きの預言を伝える働きをした預言者です。
預言者エリヤは大胆な人で、大きな働きをしました。
けれども、命の危険を感じた時、逃げて隠れていた時期もありました。
神からの力で、天から火を降らせ、馬よりも早く走ることさえあったエリヤも、人間だったのです。
ヨハネも、エリヤと同じように、王の生活が神の前に正しくないと告げて、
牢獄につながれました。獄に繋がれた時、ヨハネにさえも信仰に迷いが出ました。王に捕らえられた牢獄から、ヨハネは弟子たちをイエスに遣わして聞きました。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」マタイとルカが福音書に このことを書いています。
イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」とヨハネに答えました。
イエスはヨハネのことを「預言者以上の者」
「女から生まれた者でもっとも偉大な者」と 人々に語りました。
ヨハネが獄中で心にかかえた信仰の闇を、イエスは理解されました。
イザヤ書42章には、イエスのことを預言して、
主なる神に支えられた者、神によって光として立てられた方、
見ることのできない目を開き、捕らえられている人を解放し、
闇の中に居る人を救い出す、と、書いてあります。
エリヤの霊を受けて生きたと言われるヨハネは、死を経験しなかったエリヤとは違い、壮絶な死を遂げました。死の前に、弟子を通じてイエスと交流があったことは、ヨハネを助けたことと思います。
イエスは人々の中で共に暮らし、神の国の福音を伝え、神が人を愛し神の国に招いて下さることを語りました。
ヨハネは自分を、イエスという花婿の介添え人に過ぎないと言いました。
「彼は必ず栄え、私は衰える」と。宣べ伝えるべきは、イエスである と。
自分は与えられたイエスの働きの準備を、忠実に行う者だ、と。
ヨハネはイエスを神の小羊と呼び、聖霊と火によって人々に洗礼を授ける方、と、人々につたえました。 ヨハネは人々に神の裁きを伝え、叫びました。
ヨハネが言った世の罪を取り除く神の小羊という言葉の意味を、聖書によって私たちは学ぶことができます。神から遣わされた神の子を指し示したヨハネは、イエスがどのようにこの世の罪を贖うのかは知りませんでした。
ただ、神が裁きの時を定め神の子を遣わす。その方は贖いの小羊である。
イエスは神の子として、必ず栄える方。
神に造られやがては土にかえる人間ヨハネが、神の子を送り出す働きをする。
示され、与えられた言葉と役割によってヨハネは主を証ししました。
イザヤが書いた預言のように、救い主は傷ついた葦を折ることなく、消えかかる灯を消すことなく保たれる方です。
ヨハネが与えられた働きの中で感じた迷いを、イエスは受けとめられました。
「私はこの方を知らなかった」
ヨハネは救い主について多くを語りませんでした。ただ、こう言っただけです。「世の罪を取り除く神の小羊。わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。」
人間としての限界を知ったうえで、神から遣わされた方を伝えたヨハネは、
悩みながらも与えられた働きを全うしました。
私たちの知恵も力も、主イエスを完全に伝えるには足りません。
限界のある人間として、ヨハネのように、与えられた力でできる限り、
私たちの知るイエス・キリストを伝える働きをさせていただきましょう。
お祈りいたします。
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