主なる神はモーセに、エジプトから導き出したイスラエルの民を約束の地へ導き入れるために先に使いを出して、いま約束の地に住んでいる異邦の民を追い出す、と言われました。この少し前、モーセが山で神と語っている間に、
イスラエルは目に見える神を欲しがり、金の子牛の偶像を造って礼拝して、
主なる神を怒らせ、数千人が命を落とす事態となっていました。
神は彼らと、約束の地への旅を共にしたなら、彼らの背きを赦せず滅ぼしてしまうかも知れない、と言われたので、民は悲しみ嘆きました。
モーセは、神と直接 話すことを許された人でした。神はモーセの願いを聞き、民と共に約束の地への旅をすることを受け入れました。
神と親しいモーセ。神と語るモーセ。しかし、
モーセでさえも、神の顔を見ることは赦されませんでした。
人間は神を見ると生きていることができない。死んでしまう、と、
20節に書いてあります。なぜ、人間は神を見ることができないのか。
神が完全に聖なる方であり、神の完全な清さをを前にすることは罪ある人間が耐えられることではないから。
神の清さの前には、人間は命を保つことができないからです。
さて、きょうの新約聖書の箇所。
有名なカナの婚宴の奇跡、と呼ばれる箇所です。
この結婚披露宴の席に、イエスも弟子たちも招かれていました。
イエスの母 マリヤは、そこにいた、と書かれています。
マリヤは、招かれたというより主催者側の、世話役の手伝いをしていたようです。
マリヤはイエスに、「葡萄酒が無くなりました。」と言いました。
当時の結婚式は夕刻から始まり、遅くまで祝宴が続きます。
ユダヤの1日は日没から始まりますから、1日の始めから祝い始めるのです。
イエスが後に語る、花婿を待つ10人の乙女の喩えのように、
ランプを灯して待つ時刻でした。
祝宴の前半で葡萄酒が無くなることは、招いた新郎にも家の人にも、たいへんな恥です。だからこそ、誰にも気づかれないうちに何とかする必要がありました。
マリヤは、「困りました」でも「どうしましょう」でもなく、イエスに状況説明をしました。そして、この家の召し使い達に「この人が何か言いつけたら、そのとおりにして下さい」と言いました。
イエスが用いたのは、清めに用いる石の水がめでした。
6つあったと書いてあります。
葡萄酒が無い、と、言っているのに、水がめに縁までいっぱいに水を入れるよう、イエスは召使たちに言いつけました。さらに、それを汲んで、宴会の世話係のところへ持って行け、と。
世話係の責任者が、葡萄酒ぎれに気づいていたかどうかはわかりません。
葡萄酒を必要としているところに、水を持って行け、という指示が出たのです。
もちろん、立場の問題はあるでしょう。
世話係の手伝いをする地元の女性マリヤから、招待客イエスの言いつけを聞くよう言われた召し使いは、ただ、従順に、従いました。
「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」
水が、何時の段階で葡萄酒になったのか?と考える人もいますが、
聖書から読み解けるのは、世話係の所に着いた時にはすでに、葡萄酒になっていた、ということです。そして、その葡萄酒は何も
その運ばれてきたものが水だったことなど知らない、先入観の無い世話係が、
驚くほど良い葡萄酒だった、ということです。
ここで確認しておきたいことがいくつかあります。
・用いられたのは、ユダヤ人が清めに用いる水がめだったこと。
・水がめは6つ あったこと。
・水がめには縁までいっぱい、水を入れたこと。
・召使たちは従順に従ったこと。
・指示を出したのが、イエス・キリスト。神の子、救い主であること。 です。
確認した事柄は、ヨハネが福音書に書いていることです。
そして、聖書はイエスが地上において、どんなことをなさったのかを記録するためだけの、事実を並べただけの書物ではない、ということです。
6という数字は、ユダヤにおいて不完全さを表す数字と言われています。
3、7、12など、ユダヤ人たちが完全数と呼ぶ数字が書かれていた場合、
その数字のままの3なら3個または3回という意味の他に、完全なものとしてのイメージを伝える意味が含まれています。
しかし、7よりも1つ少ない6は、かえって完全ではない、不足している、
足りない、などの意味をも伝える数字なのです。
清めのための水がめが6つ。この数字の考え方からすれば、
清めには不完全さが伴っていることが読み取れます。
さらに、清めのための 水がめである。ただの飲料水や生活用水を入れる水がめではなく、この水がめを用いることには 清め の意味が伴います。
清め が必要なところには、清くないものがあることがわかります。
ここで、思い出していただきたいことがもう一つ、あります。
さきほど、イエス・キリストは神の子であることを確認しました。
そして、きょうのメッセージの冒頭、私は皆さんに、モーセさえも、神と親しく語り、神から直接、願いをかなえてもらえたモーセでさえも、神を見ることはかなわない。人が神を見ることは、死を意味する、とお話しました。
神の子としてこの世に生まれた方が、ここにいるのです。
神を見た者が死をまぬかれえないということ。
神を見て、生き続けることができないほど、罪に汚れた人々のところに、
神の子イエスが来られているということ。ここに必要なのは、清めです。
命を得るために必要なのは、清めです。
そして、清めのための水がめを用いられたのは、イエス・キリストなのです。
神から罪を赦されることが無ければ、人間は死ぬものです。
罪の赦しをえられない人間に与えられるのは、いま、この世に生きている
命の終わりとしての死ではなく、神の国と神の完全な正しさ 義から、
完全に切り離される魂の死。永遠に神から捨てられる魂の死です。
神を神として信じない、神の力を求めず、神にへりくだることをしない人間の罪が神から赦されるためには、
もし、全く罪を犯したことのない人間、罪の性質を全く持たない人間が居るのならば、同じ人間が持つ罪のための罰を代わりに受ける事で、
はじめて、完全な清さ、完全に神に受け入れられる清さを、罪を持っていた人間に得させることができる。
人間としてこの世に生まれたすべての人の中で、生まれつき
罪も罪の性質も持たない人は、イエス・キリストだけ。
神から遣わされ、もともと神であったのに人としてこの世に生まれた、
イエス・キリストだけなのです。
イエスが神の子救い主であることを信じている イエスの母マリヤは、
本来ならばその姿を見た人間が、その清さゆえに生きていることもできない
清い神の子に、「葡萄酒が無くなりました」と言ったのです。
イエスは母からこの言葉を聞いた時、「わたしの時はまだ来ていません」と
答えました。確かに十字架の贖いの業は、まだ、行われていません。
人間に罪の赦しを受けさせ、魂の死から救い出すための業を行う時は、
この時 まだ、来ていません。
母マリヤの信仰が、イエスと召使いたちを繋げました。
イエスは、清めの水がめに縁までいっぱいに水を入れるよう指示しました。
不完全さを表す6つの水がめですが、そこにはイエスの指示通り水がいっぱいに注がれました。
聖書では水は、命や神の言葉、恵み、福音を意味するものとして書かれます。
不完全なものでも、その器の容量のいっぱいに、限界まで、水が満ちたなら。
受け止められる限りいっぱいに、命の御言葉を受け取り、
その恵みに限界まで満たされたなら、そのとき、
イエスの働きに用いられる器として、6つの水がめは用いられるのです。
指示されるまま、召使いは水を世話係に持ってゆきました。
その水は、薫り高い良質の葡萄酒にかわり、
結婚披露宴の席はこの葡萄酒によって祝福され、花婿は祝福を受けました。
「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」
母マリヤは信仰によって、何も知らない、イエスと面識のなかった召し使いに
指示を出し、召使いは祝福を運ぶ者となりました。
イエスの十字架の贖いを伝えることは、罪を知らない人々に
清めを届けることです。
運ばれていった福音は、イエスの恵みを受け止めた人の中に満ちて、
あのカナの婚宴の日のように、神の栄光が良い葡萄酒のように香り出すのです。
イエスの救いを伝え、神の御言葉を伝え 福音を宣べ伝えることは、
イエスの十字架による救いを人々に伝え、経験させること。
運ばれた清めの水は、イエスによって恵みの薫るものとされます。
私たちの限界まで、命の水を注いでくださるイエスに期待し、
従ってまいりましょう。
お祈りいたします。
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