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「神殿を建て直す」

神殿の境内で、牛や羊や鳩を売っていました。両替商も店を開いていました。日本人は神社の境内に店を出して食べ物、飲み物や子どもの喜びそうな玩具や駄菓子を売る店を見ていますから、神殿の中で商売、と聞くと、
「楽しそうな賑やかに人通りの多い」様子を思い浮かべます
イスラエルの神殿も、賑やかであることは確かです。ちょうど過ぎ越しの祭りの頃で、沢山の人が来ています。人間の他に、牛や羊の鳴き声がしました。
両替をする人の店では貨幣の音もしたでしょう。これは
「お賽銭のために紙幣を硬貨 玉銭に替えるための店」ではありません。
神殿に捧げるお金を、流通しているローマの貨幣からユダヤの貨幣に取り換えるためです。普段、ユダヤ以外の場所で生活している人も神殿に来ています。
外国の貨幣からの両替が必要になるのです。貨幣価値も単位も、共通ではありません。ローマの貨幣には、ローマで神の子と呼ばれた皇帝の像が刻んでありました。神を信じない異邦人が使う貨幣を神殿に捧げるわけにいかない。
まして、真の神の神殿に、ローマ皇帝の像の刻まれた貨幣など!
ユダヤ人にとって、神以外を神とすることは偶像崇拝です。偶像の刻まれた
汚れた貨幣を神殿に捧げるわけにいかない。
さらに両替商は交換の手数料を取って自分の利益にします。
手数料について、人々は相談したり、駆け引きしたり、それは賑やかでした。
 神殿に来る人々が神に捧げるお金を用意するために。また、罪の贖いのため、清めのため、捧げる家畜を用意するため。
シミも傷もない動物を捧げるために、商人たちは生贄となる家畜を用意し、
人々は神殿の境内で取引をし、利益を得ました。
もちろん、神殿の側も、出店の権利によって収入を得ていました。
 この聖書の箇所は、イエスによる宮清め、と呼ばれています。
イエスの生涯を書いた福音書の記事の中で宮清めは、
イエスが最も激しく厳しく、人々に怒りを表した箇所として知られています。
カナの婚宴の席で水を葡萄酒に変えたイエス、弟子たちにわかりやすく 
父なる神と神の国を語ったイエス、後には集まってくる人々の病を癒し、
子どもたちも貧しい人をも やさしく受け入れたイエスが、
縄で鞭をつくり、牛も羊もすべて境内から追い出した、と言うのです。
 イエスの激しい態度に、ユダヤ人たちは猛反発しました。
「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」
人々がしるし、と言ったのは神の力によってイエスが行う不思議な業、奇跡。
神殿を「私の父の家」と呼んだイエスに人々は、
自分は神から遣わされた。神は自分の父だと言うのなら、しるしを見せて見ろ。神殿から商人たちを追い出したイエスが持っている権威とは何か。
犠牲の家畜も異邦の国の通貨の両替をも神殿から締め出す権威とは何か。
イエスが救い主メシアと呼ばれていること、弟子たちがイエスを聖書が預言してきた神の子だと信じていることは、次第に人々に知られてきていました。
ユダヤ人たちに対するイエスの答えが、
きょう、週報の今週の黙想にも載せた言葉です。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」
この言葉が、神殿の境内で出たのですから人々が驚いたのも当然でしょう。
どうしてイエスはここまで怒られたか。イエスを動かしていたのは何なのか。
イスラエルに最初に神殿が建設された時の様子を、振り返ってみましょう。
ソロモン王が建設した神殿が完成し、神に捧げられた箇所です。
ソロモンはダビデ王の息子で、イスラエルの3代目の王です。
イスラエルが統一されて最初の王であり、歴史上もっとも有名なユダヤ人の王はダビデ。神に選ばれ神に愛された王です。
しかし、神はダビデの時代に神殿を建設することをお許しになりませんでした。
ダビデは戦いの中で多くの血を流してきた王だったからです。
ソロモンは、ダビデが神と共に戦い、その結果として与えられた平和な王国の王として即位しました。神がイスラエルを守り平和を与えられたことの象徴として、ソロモン王が父ダビデ王の神殿奉献の志を実現する。
その結果として本日の箇所の祈りがあるのです。
 列王記上には、5章15節から神殿建設の準備が始まり、7章で建物も神殿で使われる道具類も製作が終わりました。ソロモンもソロモンが招いた技術者たちも、神殿のためにたいへんな知恵も費用も労力もかけました。
また、歴代史上22章から歴代史下7章にも、ダビデ王ソロモン王2代にわたる神殿建設のための準備と,細やかな作業の様子が描かれています。
ソロモンは神に、自分たちの努力をアピールすることは無く、
感謝の祈りを捧げます。どのように素晴らしい建造物であっても、
神ご自身がお住まいになるには、全く相応しいものではない。
努力も工夫も、すべて神が自分たちの願いを聞き、神がその約束を実現され、
この神殿は建ったのだ、と、感謝して祈るのです。ソロモンにとって、
神殿の完成は自分たちの祈りが神に聞かれたことの証だったのです。
神によって自分たちが導いていただいた。神の導きがあった証として、
イスラエルに建てられた、最初の神殿だったのです。
神殿は、ユダヤ人たちの礼拝の場であり、信仰の拠り所でした。
その場所に、いま、イエスが来られたのです。
イエスは、世の罪を取り除く神の小羊として来られた方です。
イエスが振るった鞭は、イエスが発した激しい怒りの行動は、
信仰と礼拝の場所で、形式として贖いの捧げものを用意し、
人間の造った神殿の権威と、真の神の権威を混同する人々を、
神の小羊として救うことを願う、愛と憐みの爆発です。
弟子たちがイエスの熱意によって思い出した、詩編69篇10節。
「あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしている」この言葉のように。激情の神の心の叫び。目に見える神殿に集うことで安心し、
真の救いを求める熱心を失っている人々に、救いを得させようと願う、
神の愛の慟哭です。イエスは叫ぶのです。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」
確かに主イエスはそのみ身体を十字架上で死に渡し、その体は葬られ、
3日目にキリストは甦られました。
 きょうの箇所でイエスが清めたのは、神殿 礼拝の場所でした。
カナの婚宴の席で、結婚という神が最初に人間に与えた人間関係を祝福されたイエスは、礼拝のための場所を清め、そこから神の小羊としての十字架に至る
贖いの旅を始められました。
イエスの生涯で十字架は最後に描かれますが、
イエスの贖いの完成に向かう時は、宮清めの時、既に始まっているのです。
 私たちは神の前に、どのような祈りをささげているでしょうか。
神はご自身の身を投げ出しても、私を救いたいと思っておられます。
私たち一人一人は、自分の魂のために真剣でしょうか。
神が、私たちに助けを求めてほしいと願っておられることを知っていますか。
私たちをキリストの十字架の血で清めて下さったのは、神ご自身が私たちを、
ご自身の神殿とし、私たちと共にいたいと望んでおられるからです。
人の力で建て上げた神殿で礼拝する時は終わりました。
イエス・キリストが神殿で商売人を追い出し、捧げものとして用意された家畜を追い出したのは、
神に向き合うべき礼拝の場所で、金銭や財産の方へと人々の眼が逸れることが無いように。
家畜ではなく、神が遣わした神の小羊であるイエスご自身によって、
罪の贖いを受け、人間自身がイエスの血による清めを通して、新たな神の宮、
神殿として建て上げられる時が来たことを伝えるため。キリストの贖いの業を受けて、私たちが建て直していただく  そのための荒業だったのです。
私たちは神を宿すものとして、聖霊なる神の宮として、日々、
祈りと共に十字架の死と復活を経験します。
神から贈られる聖霊なる神は、私たちと共にいて私たちの歩む道を照らして下さり、私たちに光の業、愛の業を行わせることで周りの人々に光を与えます。
 私たちに自分自身の体を示して、「この神殿を壊してみよ」と言われた主は、
すでに甦り、天の父なる神の右で私たちをとりなして下さる救い主です。
私たちは信仰によって、主と共に十字架につけられたものです。
熱情の神の愛を受けて、感謝の祈りをささげましょう。
お祈りいたします。