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「自由にいつまでもいる」

イエスは、自分は上のものに属し、人々は下のもの、世に属していると言います。
イエスと人々は別々。同じではない、と言うのです。
この「属している」というのは、生活している時間が違う、ということです。
人間はこの世に生まれてから、死ぬ時まで まっすぐ、後戻りできない時間の中を生きています。昨日ときょうが、同じような日だったと感じることはあっても、
全く同じ日は二度とない。私たちのすべては毎時間、毎秒、変わって行きます。
進んでゆく時の中で、私たちは育ち、経験や疲労をため、年老いて行きます。
人間がアンチエイジングや、不老不死、魔法に憧れるのは、変化し続ける時間の
流れから解放されたいと願い、変わらない、永遠に続くものに憧れるからでしょう。
 確認したいことが、3つあります。
一つ目は、いま お話したように、私たち人間は時間の中に生きているということ。。
時間という ひとつの方向にだけ進む流れの中で、私たち人間は生きています。
 時間を含めたこの世のすべては、神が創造されました。
この世の始まりから、すべての終わりまで、神は造ったすべてを管理しています。
時間の中のすべて、老いも死も、神が造ったものです。
私たち人間は、時間の中で限りある命を生きて、いつも、その時一度きりの、
かけがえのない経験を積み重ねて生きています。
神は、人間の命の始めから終わりまでを見守っていて下さるのです。
 私たちはどんなに楽しい時も、辛く悲しい時も、疲れと限界があります。
眠りや休息を越えて働き続け、悩み続けると、人は病んでしまいます。
耐えられない苦しみ悲しみに、眠りによる休息があることは、
神が与えて下さった恵みと言えるでしょう。神は私たち人を愛する愛を持つ方です。時間も死も、老いも疲労も、神ご自身にはありません。人間に対する愛をとめること、愛することに疲れることはありません。
二つ目の確認は、神には時間も限界もない、ということです。
人間を見守り続け、愛し続ける。人間の限界を超えた継続する力を、
神は持っておられます。
 きょうの新約聖書の箇所に、イエスは神としての自己紹介をしておられます。
イエスが言われた、「わたしはある」という言葉は、
旧約聖書で、モーセが燃える柴の前で、神に「あなたの名は?」と尋ねた時の
神の自己紹介。エジプトに奴隷としていたイスラエルの人々に、神から解放者として遣わされるモーセに、全能の神がご自身の名を聞かれて答えた言葉です。
神の側に属する。イエスも、もとは時間の制約のない、老いも死も無い存在でした。
イエスは神であったのに人となり、この世に生まれて下さった。
時間と言う、神が造られた制約の中に生まれて、老いも死も、経験して下さった。
イエスも、転んで膝をすりむくことや、膝や肘に成長痛を感じたことがあったでしょうか。声変りを経験された時期もあったでしょう。
 神は人を創造したとき、鼻に命の息を吹き込み、生きた者として下さいました。
与えられた命の時間によって、人間は限界を知り、病や死があることを知り、
人間は時間や空間を超えること、神の造られた世界の広さに憧れ続けて来ました。
乗り物や生活のための道具を作り出し、より早く、より簡単に生活できるように、
人間は工夫し、雄大な自然に驚きを感じ、限界を越えようとする工夫と挑戦を続けました。交通手段や映像、情報など、様々な技術を得る努力をして来ました。
創世記で、人間が自力で神に近づこうとして造ったバベルの塔の記事からもわかるように、人間が与えられた限界を越えようとすることは、つねに
「それ以上」である神を知ることにつながります。
主なる神は、この塔を見るために天から降ってきた、と書いてあります。
人は努力によって神に並ぶことは、ないのです。
 きょうの旧約聖書の箇所は、神から試練を与えられたヨブに来た友人が、
ヨブが苦しみから解放されるために、と、語ったアドバイスです。
ヨブにとって、ヨブの友人たちのアドバイスは的確さを欠くものでした。
けれど、人間へのアドバイスとしては、決して的を外したものではありません。
神に従い、神の教えを聞き、神を喜びの源とするなら、救われ、祈りは聞かれる。
天地万物の創造者である神は、ご自身が造り出した人間に、自分の意志で神を選び、
神に従う事を望まれました。
神と対話し、神に従うことを選ぶ力を人間に与えて下さった神は、
人間が間違いやすい、神から視線を逸らしやすい存在であることをご存知です。
工夫も挑戦も、悪いものではない。人間の動機の方向性が問題です。
神は、神を知らない者の造り出すものでさえも、用いられます。
ローマのアッピア街道は帝国内の人やモノを本国に集めるために造られた道です。
全ての道はローマに通ず と、言われた 二千年後の現代まで残る道です。
イエスを信じた人達は、迫害がおこって住んでいた場所から逃げる時、この街道を通ったのです。迫害によって人々は街道を通って散らばって行き、同時に
主イエスの福音はこの街道を通って帝国全体に広がりました。
現代、交通手段も、情報環境も、地球全体を覆っています。
世界中の情報が一人一人に届く時代。私たちは多くのことを知ることができます。
物も情報も溢れていると言われる時代です。
でも、時間を超えること、死を克服することは 人にはできません。
 確認したいとお話した3つの内、一つ目は、人間は時間の中で生きていること、
二つ目は、神は時間も老いも死も造られたが、ご自分は時間にも老いにも死にも、縛られていない方であることでした。
 三つ目。きょう、黙想の箇所にも載せた聖句ですが、
主イエスは「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。主イエスが人として生まれ、人として十字架の死を遂げて下さったことで、
私たちは神と和解し、神の家族に迎え入れられました。
十字架によって、罪が赦される、神と和解するということを知らされて来ました。
永遠の、時間の制約のない神と共にいて、神のおられる「上」に属するものとして。イエスは、イエスを遣わした神と共にいる。神の子として、神と共にいる。
人間同士が、出会い、家族となって一緒に暮らす、ということは、
できるだけ同じ時間を一緒に過ごす。同じ時を生きる、ということですね。
神と人も、同じです。永遠を生きる神と、時間の中を生きる人が、同じ時を生きる。
あまりにも違う存在が、一緒にいる、ということ。
人間の側からは、不可能と思うことです。
神は、神の側から、同じ時を生きるということをして下さいました。
まず、イエスが人としてこの世に生まれ、
人として人と共に時間の中で生きて下さいました。
人として、人が皆、経験する命の終わり 死をも経験し、
罪を持つ人が本来、経験するべき滅びを、身代わりとして受けて下さいました。
神が全く正しい、真実な方であることを失うことなく、神から人に、永遠に注がれ続けている愛を止めることなく、神と人が同じ時間を生きる者となる。
神の義も、神の愛も、どちらも失うことも損なうことも無い。
神を、神として信じる。これこそが、真理です。
神と人、この大きな違い、隔たりを超えるために、神が行なった大きな奇跡が、
イエス・キリストの十字架の死なのです。
 十字架によって私たちは、新しい命を与えられました。
死と滅びを、十字架のイエスに負っていただいた私たちが、神と同じ時を生きる、神の家族となるという大きな奇跡。この奇跡によって、私たちは
時間と死と滅びから救い出されました。
自由を与えて下さったのは、神の子であるイエス・キリストです。
私たちを、真理を知る者として下さったのは、神から遣わされた救い主です。
これが、きょうの三つ目に確認したいことです。
人間が、神なしで生きられる。神の力でなく人間の力、人間の技術によって
生きることができる、と考える時、私たちは時間に縛られ、命の危機におびえ、
死を恐れ、不自由の中に留まることになります。
 神の義と愛を、イエス・キリストの十字架によって受け入れ、
キリストが完全に私たちを救い、神の家族として下さったことを、
イエスの復活によって信じる。信仰の力が、私たちに真理を教え、
私たちを自由にします。
 先日、こいわワーシップタイムで子どもたちに、
イエス様のついていない十字架は、イエス様が生きていて、神様の側で
私たちをとりなしていて下さるしるしなのだと話しました。
十字架は、神の真理による自由の証です。
赦され自由にされた喜びを、日々、確認してまいりましょう。お祈りいたします。