癒しを求めてベトザダに居たその人に、イエスは 「良くなりたいか」と
問われました。そんなの当たり前でしょう! この人の38年は 良くなりたい という願いのために費やされてきたのです。まるで死を待つように、
いつ癒されるかもわからないまま、彼はベトザダの池のほとりに居ました。
これまで、彼のまわりで 癒されず死んでいった人も居たでしょう。
ベトザダの池は、癒しの奇跡が起こると言われている場所でした。
天から降りてくる天使によって、いつも静かな池の水面が動くことがある。
めったに起きないその奇跡の瞬間、水に入ることができたなら、病は癒される。
その瞬間を待ち、癒されたいと願う人々がこの場所に集まっていました。
彼は答えました。「水が動いても、だれも助けてくれない」
イエスは彼が求めていることを、確認されました。質問に答えるだけならば、
「はい、良くなりたいです」で、十分。彼の心の中に渦巻いている長年の不満が、彼の口から言い訳として流れ出て来ました。話しかけられた言葉に反応し、
自分の心に、頭の中に、ずっと持っていた苦しみ、悲しみ、ひがみ、そして
孤独感を口に出しました。 イエスは彼に、命令で答えました。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」
イエスの言葉は即座に 彼を起き上がらせ、彼は命令通りに動きました。
癒しのために目の前の泉に入ることもできなかった この人は起き上がり、
足腰は力を与えられ、留まっていた場所から立ち上がりました。
彼は命令通り、床を担ぎ 歩き始めました。
癒された人は、その癒しについて、だれからも祝福されませんでした。
おそらく、周囲に居た他の病人たちは、自分のことで精いっぱいで、
自分たちの中から 床を担いで出てゆく人がいても、だれも関心は持ちませんでした。歩き出した彼に、何らかの反応をしたのは、ユダヤ人たちでした。
「きょうは安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
安息日。 天の父なる神が、万物を創造された後、7日目に休まれた。
神の安息を記念して、この日は神のために捧げる。神のための働きのみ
を行うために、人間は仕事を休み、この日は生活のための作業を行わない。
現代でも、イスラエルでは、安息日にはビルのエレベーターは各階止まりになるそうです。「スイッチを押す」という労働を行わなくても、行きたい階に行けるように。 また、安息日には料理をしなくても食べることができるよう、
前日までに用意し、タイマー調理など するのだそうです。
労働はしない日、礼拝と学びの日、日常の働きが止まっている日に、
病人が、先ほどまで横になっていた床を、自分で担いで歩く。
この奇跡への驚きよりも、安息日の規定が優先したのです。
癒された人が、「床を担いで歩け」と言われたから、こうして床を運んでいる、と言った時も、ユダヤ人たちは「担げと言ったのはだれか」と、
犯人捜しを始めます。
床を担いだことは、安息日に禁じられた労働にあたる と言うのです。
ベトザダの池の奇跡の伝説は有名だったのでしょう。
でも、めったに起こらない奇跡です。この人は病気から解放され体力も回復した。それなのに、ユダヤ人たちは共に喜ぶことはなく、驚きも無く、
律法の規定を言い立てるばかり。
イエスは神殿の境内で、この人に再会しました。
神殿のすぐそばに居ても、病のために礼拝できなかった彼は、晴れて
礼拝するために、立ち寄ったのかもしれません。
「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、
もっと悪いことが起こるかもしれない」日本語訳のイエスの言葉は簡素です。
少し詳しく、意味を確認してみましょう。
あなたは良くなったのだ。
最初に質問した「良くなりたいか」の結果として、現状を確認されています。
もう、罪を犯してはいけない。
「罪を犯す」というのは、「命に来ない」「命から離れる」という意味の言葉です。
さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。
命から離れてゆく、罪。罪を犯し、命から離れてゆく。
聖書における罪は、神から離れること。神を神としないこと。
あなたは良くなった。命の源である神から離れるな。 これは、祝福の言葉です。
人間が神と共にあるために、人が神に相応しく生きられるよう守るために、
神は律法を与えられました。律法は良いものです。
神への信仰を守るだけでなく、健康上、衛生上に知恵を与えてくれます。
律法の規定によって、人と人の関係の礼儀や節度を教えられ、
農作業などの知恵も、暦と共に知ることができます。
ユダヤ人たちのアイデンティティーは律法によって守られ、
この小さな民族は歴史を越えて滅びることなく守られて来ました。
律法の安息日の規定は神の民を守るもの。 体力的な問題だけでなく、
神の言葉によって養われる礼拝の時を守ることが、人間には必要です。
礼拝し神と自分の関係を確認し感謝する時が必要です。
律法の安息日についての規定は、人間を守るためのものです。
家族や家畜の命が危険にさらされた時、その日が安息日であっても命を助ける行為は許されます。人間の窮乏は、安息日のいかなる活動禁止にも優先します。
安息日の規定が、生きているものを死の危険にさらすことはありません。
イエスは、「安息日が人間のためにある。人間が安息日のためにあるのではない」と言われました。 神が与えた規定は、「命に来る」ためのものです。
きょうの旧約聖書のヨブの言葉。ヨブは、あのベトザダで癒された人以上に、命の危険の中にあります。重い病気の苦しみの中で、
彼も、終始、自己弁護をしています。 でも、彼は常に、神に向かっています。
ヨブが自分の苦しみ痛みを訴えたいと願う方、答えて下さる「その方」とは、
ヨブの現状を理解して下さる方です。ヨブに寄り添い、ヨブの心を吟味し、
ヨブの信仰が真であるかどうか、ヨブを顧みて訴えを受け止めて下さる方です。
その方は、受け止めた訴えを神に取次いで伝える方。
新約聖書におけるイエス・キリストを指しています。
ヨブは苦しんでいましたが、応えて下さる方、癒す力を持つ方は神お一人だと、
信じて、癒しを願い訴えています。 ヨブが探し求め、
お会いすることを願った「その方」イエス・キリストは、
横たわる病人に出会いました。誰かが彼をそこに連れてきたのかもしれません。そこに居た彼に、癒しを求める意志と希望があるのか、
彼自身が 良くなりたい と、求めているのか、主イエスは確認されました。
イエスの癒しは、神の権威の現れとして、命じられました。
癒された彼は、死を待つばかりの、それまでの生活を床ごと肩に担ぎ、
病人たちの中から起き上がり、歩き出しました。
主イエスの癒しの業は、彼の病で弱った身体に 現れただけでなく、
彼がベトザダで費やした日々。苦しみと絶望感の中で過ごした長い年月、
無駄に無意味に過ごしたかのような38年間にも現れました。
イエスに見出され、イエスに命じられて、彼の人生の意味は変わりました。
起き上がった彼の癒された体には、床を担ぐ力が与えられていました。
これまでの人生を受け止め、昨日までがどんなに苦しくても辛くても、
その人生のすべてを自分に与えられた経験として受け止め、
過去を背負って歩き出す力が与えられたのです。
イエスは神の名において神の権威によって命令し、祝福して下さいました。
彼が自分を癒したのはイエスだ と、ユダヤ人たちに伝えたことは、
良いことをして下さった方を売り渡すような、悪いことに見えるでしょう。
でも、彼の言葉は告白です。彼の言葉は証です。
私を癒したのはイエスだ、と、彼は告白しイエスの御業を伝えたのです。
彼の告白を受けて、イエスはご自分の働きは神の業であり、
ご自身は父なる神と同じように働くのだ、と、宣言されました。
彼は告白によって、イエスの神としての権威を伝える機会を造り出す働きに
加えていただいたのです。
自分の毎日が、苦しみや後悔の繰り返しのように感じることはあるでしょう。
ベトザダに居た彼と同じように、言い訳ばかりが出てきてしまう。
主は 私たちを見つけ出し、「良くなりたいか」と聞いて下さいます。
これまでの私たちの毎日は、主と共に歩き出す時、新しい意味を持ちます。
起き上がりなさい。歩きなさい。主が、祝福して下さいます。
お祈りいたします。
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